3 / 真実と、褪せたインク
ルーシェはしかし、侵入者の名を明かさなかった。彼女は調査を始めた王宮警護官に対し、侵入者は若い女だったがそれ以上はわからないとだけ答えると、口を閉ざしてしまった。
大人に任せたほうが良いことは、頭ではわかっていた。しかしルーシェはシルカの口から出た言葉を思うと、まずは自分で真相を探りたいという気持ちを抑えられなかった。幸いシルカのことは王宮のものは知らないはずだし、当然ルーシェが彼女と面識のあることも知られていない。いずれ折を見て、思い出したと言えばいいだろう。理由は「気が動転していた」とか。
だからルーシェはその晩、前王の部屋の検分が終わるのを待たず、そっと本を持って自分の部屋へ戻った。燭台を置いてきてしまったことに気づいて途方に暮れそうになったが、ちょうど明かりを持ったレヴィオが心配げな顔で訪ねてきたので、彼女は彼を部屋に引っぱり込むと、明かりを取り上げベッドに腰を下ろして再び本を開いた。レヴィオは肩をすくめると彼女の向かいに片膝をついて、その手元を覗き込んだ。
「その本なに?」
「おじいさまの部屋にあったものよ。これは机に積み上げられていたのだけど、床に散らばっていたものもあった。本棚からわざわざ移動された跡があったから、侵入者は本を探していたみたい。そして目的はもしかしたらこれだったかも」
「これ? でもこれそんなに貴重ではなさそうだけど……」
レヴィオは怪訝な顔をしながら、手を伸ばすとページをめくって苦笑した。彼とてその内容の低俗さに気づかないわけではなかっただろう。しかし彼はそのことには(恐らく「敢えて」)言及せずに、本をルーシェのほうへ押し戻した。
「しかも落書きまである」
「でもこれたぶん、ただの落書きじゃないのよ」
見て、とルーシェはページをぱらぱらとめくってみせた。レヴィオは瞬きをしてルーシェを見上げたので、ルーシェはため息をついた。
「私を見てって意味じゃなくて」
「わかってるよ。でもこんな仕掛け、誰でも作れるだろ? 確かに少し手は込んでるけど、そんなに珍しいものじゃない」
「それもわかってる。内容の話をしてるの。犬が大きな鳥に捕まってね、王冠の回りを嗅ぎ回って。最後に王冠にフンをして行ってしまうのよ。その次の挿絵ページには四本線の円が描かれていた。そしてこの本が発行されたのは三十年くらい前なの」
三十年、と呟いてレヴィオは目を伏せた。ルーシェは彼にも思い当たるものがあるのだと思った。そしてそれはおそらくルーシェと同じ、王家にとっては忘れることのできない事件、先王イスタエフ没後のクーデターのことだ。アルファンネルが行方をくらました事件。レヴィオはルーシェの膝の上から本を抜き取り、手元で数ページめくって目を細めた。
次期国王としてルーシェよりも組織のことに明るいレヴィオには、その茶色に褪せてしまったインクがもとはどんな色で、何を表していたかがわかる。
この国でよく使われる紺青よりも空の色に近い青のインクは、年月がそれほど経たずとも変色してしまう。原料が、純粋なままでは空気に触れさせるとすぐに劣化する特質を持っているからだ。つまり日持ちが悪い上に値も張る。そのため色インクとしてはあまり使われず、一般には保存と水増しのためのまぜものをした経年劣化の少ないインクが好まれているのだが——
抜けるような青は真実の色だ。そしてその色は身をもって、情報の新しさを体現する。
そのインクは国王に直属するものがその依頼を受け調べ上げたことを主に伝えるときに利用するものであり、先の理由のためにほぼ「それだけ」にしか使われない。このことは、いずれ国王になるであろうレヴィオと、この青で国王に何かしらの報告をするかもしれないごく一部の腹心とだけが知っていることだ。ルーシェでさえ知らない。そして、今はまだ教えるわけにはいかない。彼女はそもそもこの褪せたインクがもとは青だったことすら気づいていないだろう。
「ルーシェ」
レヴィオはまっすぐルーシェを見、本を返しながら言った。
「確かに当時は機密文書だったかもしれないよ。でも今となってはそれは歴史上の公知の事実であって、秘密でも機密でもなんでもない。挿絵のページに描かれている四重丸は当時の首謀者のこと、鳥はアドラ、犬は内通者。王冠は端的に王位か、国のこと。いずれにしてももう過去のことだ、僕らが生まれる前の。今はアドラとの関係も良好だし」
あっさりと解釈を示してしまったレヴィオを睨み、ルーシェは本を閉じながら問うた。
「じゃあ侵入者は何を探していたの?」
「それは僕にもわからないけど……」
「私はそれを知りたいのよ。これは誰が書いたものなの? おじいさまじゃないわよね?」
レヴィオは肩をすくめてから立ち上がった。彼がそんなことまで知るはずもないのはルーシェにだってよくわかっている。王が独自に使っている間諜がそう簡単に明かされるはずがなく、それは過去の王のそれとて例外ではない。
しばらくの沈黙がふたりを包み、ルーシェはもういいとばかりに大きなため息をついた。
「とりあえず内容の謎は解けたし、すっきりしたわ。ありがと、レヴィオ」
「でも本当は納得してないだろ?」
「まあね。でも私にだって『レヴィオに聞いてもこれ以上わからない』ってことくらいわかるわよ。教えてくれないのか、知らないのかは知らないけど」
「……母上に聞いたりするなよ」
眉を顰めてもあまり深刻な顔に見えないレヴィオに、わかってるわよと返したルーシェは、彼と一緒に部屋を出ると、新しい燭台をもらいに侍女の控え室に向かった。彼女が自分の燭台を置いてきたイスタエフの部屋は、たぶんもう入れないので。
普段なら本の落書きを見ても、ここまで勘繰ったりはしなかっただろう。第一(少なくとも数年前までは)それはレヴィオやフォルセティの役目で、ルーシェは「子どもじみたことをするな」と諫めるほうだった。けれども今回は違う。彼女は侵入者に刃を突きつけられたのだ。この本を探していたらしい、侵入者に。
石造りの薄暗い廊下を歩きながら、ルーシェは自分の足元を数えるように見つめた。
シルカと同じ目をしたものがほかにいないという証拠はない。テントでのシルカが隠していた左目が何色をしていたかもルーシェは見たことがない。しかし鳶色の髪も、その長さも、顔さえもそっくりだったのだ。これでは間違いようがないではないか。
ではそれを今、王宮のものに言ってしまうべきだろうか? だがそんなことをすれば、風の民との間を良好に保ってきた女王の努力が無駄になってしまう。それ以上に、アルファンネルの部族——今グライトの中心部でテントを張っているものたちをを敵に回してしまうことになるかもしれないのだ。少なくともルーシェはそのように思ったし、それは回避すべき事態だとも考えた。
まずは確かめたい。
こういうときに相談する相手といったら限られている。
レヴィオにこれ以上のことは望めない。たとえルーシェと彼とが血を分けた兄妹であり、彼が彼女の求める深くを知っていたとしても、彼は次期国王として既に自由には動けない身である。それより今一番相応しいのは、シルカを知っていて(それ以上にクレタを知っていて)、風の民のことも知っている、そして彼女の話にそれなりには耳を傾けてくれる相手だ。
何よりあの女、シルカが女王と並べて「サプレマの後継者」と名指しした以上、これは彼にとっても他人事ではないだろう。後継者とは言うが今はただの見習いでしかない彼に侵入者がわざわざ言及するなど。彼は一体何をしたというのか。
ルーシェは翌日、王宮にフォルセティを呼びつけた。
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