2 / 冷たい廊下

 母の部屋を離れ、石造りの壁に小さな火が点々と灯された薄暗い廊下を歩きながら、ルーシェははたと我に返った。

 よく考えてみれば、彼女が母の部屋に行った目的——アルファンネルに会ったことを伝えることは叶ったものの、母がそれをどう思ったかは全く聞いていない。関係のない「フォルセティ」の話はもしかすると、はぐらかすためだったのだろうか? だとしたら母はやはりアルファンネルのことなど聞きたくなかったのかもしれない。ルーシェは自分の部屋の前で立ち止まると大きなため息をついた。


 とん、と扉を押す。いつもなら少し重みを感じる扉だ。しかし今回はなぜかとても軽く開いた。彼女は部屋を出るときは窓をきちんと閉め、火の気を絶ってから扉も最後まで閉めるようにしているのだが、今日はどうやらそれを見届け損ねていたようだ。窓は閉めた覚えがあるし、火も落としたものの、これから母にしようとしている話を考えると肩の荷が重いような気分になっていたので、部屋の扉にまで気が回っていなかったのかもしれない。

 自分らしくもない——苦笑を漏らしながらルーシェは中に入り、眉を顰めた。窓が半分ほど開いていた。

 カーテンが外からの風に翻り、その向こうにはグライトの町の明かりが黄色や橙に光っている。ルーシェは思わず後ろを振り返った。誰もいない。彼女は気味が悪くなり、おそるおそる窓際まで寄ると、意を決して窓を思いきり開いた。

 彼女の部屋は外から簡単に手の届く高さにはない。もともとゲストルームとして使われていたその部屋を王女にあてがったのは防犯のためというが、それを今まで意識したことはなかった。しかし彼女が窓枠に手をついて身を乗り出してみると確かに頷ける場所だ。うっかり手を滑らせて下に落ちたら、ただごとでは済まないだろう。もちろん外からの侵入も容易ではない。

 そのまま視線を這わせて外壁を見てみる。しかし何も変わったところはない。体を反らすようにして上に目をやると、そこも窓が開いて中の小さな明かりがほのかに漏れていた。それを見たルーシェはなんとなく安心して窓を閉めた。誰かいるのだ。

 窓の横に背をもたれ、安堵のため息をつく。ベッドサイドで蝋燭の明かりが静かに揺れていた。ずるずると壁にもたれたまま膝を曲げ、ルーシェはその火を見つめた。流れた蝋はまだほとんどない。ついさっき灯したようだ。

 彼女は目を見開いた。部屋に入って一番にしたことは窓辺の確認だ。火をつけた覚えなどない。


 自分のいない間にこの部屋に入った何者かが火をつけ、そのままにしていったのだ。そして侍女ならつけっぱなしにして行くなどということは絶対にしない。自分の部屋だというのにそこにいるのが急に恐ろしくなり、ルーシェはその蝋燭を燭台ごとひっつかむと部屋の外に飛び出た。

 廊下はひんやりして、等間隔に並ぶ明かりのほかは照らすものがない。人影もない。しかしルーシェの部屋には誰かが入った形跡がある。今まで一度もこんなことはなかった。

 一体誰が。彼女は左右を見回し、隅までは明かりの届かない廊下の、奥の階段に目を留めた。狭い螺旋階段だ。そこから風が降りてきているようで、ふらふらと蝋燭の火とルーシェの頬とを撫でていった。

 あの階段を上がったところにもいくつか部屋が並んでいるが、ほとんどが物置と化している。それはその並びにある前王イスタエフ——つまりアルファンネルの夫であり、ルーシェとレヴィオの祖父であり、現国王デュートの父であった人——が私室にしていた部屋に収まりきらなかった蔵書をはじめとする遺品のせいである。それらを整理して再利用しようとするものもないので、イスタエフの部屋も含め、いずれも今は使われていないはずだ。

 ルーシェは天井を見上げた。さっき頭上に見た、明かりの灯っていた窓はまさにそのイスタエフの部屋ではなかったか? 今は誰も、いるはずのない部屋。


 ルーシェは燭台を両手で握り直し、そろそろと廊下の奥へ向かった。自分に言い聞かせながら進む。別に誰かいてもおかしくはないではないか、もしかしたら普段から施錠されていないのかもしれない。あるいは施錠されていても、鍵を持った王宮のものが何か探し物でもしているのかもしれないし、その部屋に残されたままの遺品がかびてしまわないように風を入れているのかもしれないのだ、と。

 階段を上がり、部屋の前に立つ。扉は閉まっていたが、足元からは風と光とが漏れてきていた。光が時々ちらつくのは明かりの前を誰かが横切っているのだろうか? ルーシェが扉に耳を寄せてみると、木材になにかが置かれるような、固くも柔らかくもない音が聞こえた。侍女が本の整理でもしているのかもしれない。

 誰かいるのか扉越しに尋ねてみたが返事はなく、ルーシェは扉を押してみた。耳障りな音を立て部屋の中が暴かれる。錆びた蝶番ちょうつがいは、扉を押し戻すことなく開いたままで止まった。

 部屋に足を踏み入れると真正面、部屋の中央に置かれた小さなテーブルに蝋燭があった。床に散らばった本が窓から入った風にページをめくられている。やや端に寄せて置かれた重厚な木製の机の上にも本が積み上げられていた。部屋の空気は少しかび臭い。

 人の姿はない。明かりがちらついたのは風のせいかもしれないと考え、ルーシェはゆっくり歩みを進め、机に手を置いた。埃まみれの机の天板に比べ、そこに積まれた本の表紙は拭った形跡もないのにきれいだった。と言っても天の部分は卓上同様に埃まみれなのだが——ということは、この本たちはつい最近まで立てて保管されていたということだ。

 一番上にあった一冊を手にし、ルーシェはぱらぱらとめくってみた。この部屋には似つかわしくない安っぽい小説だ。挿絵があり、中には落書きまでしてあった。

 その書き込みは既に色褪せていてはっきりとはわからないが、あまり見ない色のインクのようだった。最初からこのような茶色だったのだろうか、それとも前は違う色だったのだろうか。ページの隅には、めくっていけば舌を出し入れしているように見える、人を小馬鹿にしたような顔の犬が描かれていた。

 しばらく書き込みのないページが続いたが、半分以上ページをめくったところで突如再開された続きは、その犬が大きな鳥につかまれて浮き上がり、王冠を嗅ぎ回った末、その上にフンを落として去っていくという意味のわからない筋書きだった。そのくせ幾ページにも渡って描かれているその小さな落書きはひとつひとつが驚くほど緻密で、しかもなめらかに動いた。

 描いたのはきっと前王ではないだろうとルーシェは思った——というより、そう思いたかった。これを描いた人間は(絵の才能を否定はしないが)相当暇だったのだろう。なんにせよ、なぜこんなものがこの部屋にあるかはわからなかった。ここには不釣り合いな本だ。

 彼女が肩を落としてめくっていった犬の話が終わると、その次のページには挿絵があった。頭のはげ上がった悪役だ。今まで犬の絵が描かれていたところには代わりに四重の円が描かれている。

「犬」

 ふと思いついて口に出した途端ルーシェは恐ろしくなり、ばたんと本を閉めた。


 犬。それが示すものはなんだ? 犬が嗅ぎ回り、そしてフンを落とした王冠は何を表している? 四重の円——「四本のライン」が何を示すかは彼女でも知っている。軍の最高指揮官の証だ。ルーシェは慌てて本の最終ページを開いた。発行されたのは三十年以上前だった。

 この本の書き込みは決して落書きなどではない。ルーシェは見てはならないものを見てしまった気がして恐ろしくなり、本を抱きしめて左右を見渡した。相変わらず人影はなく、少し安心した彼女は急いでその本のもともとの場所を部屋の中に探すと、開いたままの扉のすぐ横の棚に数冊分の隙間を見つけて歩み寄ろうとした。

 そのときだった。


 不意に後ろから首に腕が回り、ルーシェは目を見開いた。

 誰かは見えない。しかし腕はひやりとして細かった。先には見たことのない形の刃物が握られている。そう大きなものではないが、それでも首を掻き切るには十分だ。よく磨かれたそれには部屋の天井が映っていた。

「誰」

 ルーシェは問うた。恐れをにじませてはいけないと思った。毅然として立ち向かわなければならないとも思った。しかしその声は自分でもわかるほど震えていた。王女ともあろうものが情けない——彼女は恐怖よりもそのことに泣きたい気持ちになった。

「晴れの宮か」

 おっとりとすらしているような、若い女の涼しい声だった。ルーシェは少しだけ落ち着きを取り戻した。心の中で深呼吸をし、刃をなるべく視界に捉えないようにして彼女は再び口を開いた。

「……名乗りなさい」

「女王とサプレマの後継者に伝えろ。余計な手出しをするなら、我らはその手を引き裂き、食いちぎるだけの爪と牙とを持っている。貴様らだけではない。民もただでは済まないと」

「名乗りなさい無礼者!」


 声を荒らげたルーシェが無理矢理振り向こうとしたとき、構えられた刃に一瞬女の顔が映り、ルーシェは目を疑った。女はとびすさり、開いていた部屋の窓枠に手をつくと軽い身のこなしで下に飛び降りた。

 ルーシェはその場に本を投げ出し、窓枠に手をついて身を乗り出した。ルーシェの部屋よりまだ高いこの場所から飛び降りたりしたらどうなるかなど目に見えている。

 しかし、眼下には何もなかった。大きな音もしなかったし、しばらく待ってみても人が集まってくる様子もなかった。あの女は無事逃げおおせてしまったようだ。ルーシェはため息をつくと窓を閉め、さっき投げ出した本を拾い上げると表紙に目を落としてから、開け放たれた扉の向こうに見える廊下の壁を睨みつけた。


 忘れるはずもない。あの色の髪、あの色の瞳を持った女。刃に映った両の目は見開かれ、左右ともに神秘の色に彩られていた。普段左目は隠されていて見えないが——シルカ。

 ルーシェの声を聞きつけて、ばたばたと走ってくる複数の足音が聞こえた。侍女か、王宮警護官か。蜂の巣をつついたような騒ぎの中、ルーシェはひとりただ本を抱いたまま床を凝視し、奥歯を噛んでいた。

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