第2章

1 / 母と娘

 その晩ルーシェは女王の執務が終わる頃を見計らい、その私室へ向かった。

 そこにはまだ女王はおらず、主の戻りを待つ部屋のカーテンも開いたまま紫の夜空を見せている。ルーシェは外を覗いてからカーテンを引くと、部屋をもう一度横切り、扉のすぐそばに置かれたカウチに腰掛けて待とうとしたが、主はほどなくして戻ってきた。

「お母さま」

 立ち上がったルーシェに首を傾げると、女王デュートは右手のテーブルを指さした。ルーシェはそれに素直に従った。そしてデュートも向かいに座り、娘が膝に手を置くのを見ながら頬杖をついた。

 そこは先日、デュートがサプレマと話をしたところだが、今は地図もティーセットも広がっていない。端に銀でできた円筒型のキャンディポットが置いてあるだけだった。

 その蓋に手をかけた女王もまたルーシェと同じ薄いグレーの長い髪と、くすんだ黄緑の瞳を持っている。それがこの国の王族に代々引き継がれる外見上の特徴だ。彼女は蓋をつまみ上げながら口を開いた。

「どうしたの?」

「私、お母さまに黙っていたことがあるの」

「何かしら」

「前回風の民が来たときに、私、彼らのところに行ったのよ」


 デュートは、それなら知っているとばかりに苦笑し、キャンディポットの蓋をそっと置くと中から飴を取り出した。油紙で包まれた小振りのもので、デュートはそれをルーシェに渡したあと自分の分も一粒つまみ上げた。

「レヴィオとあなたで勝手に行ってしまったのよね? 次の日コンベルサティオ卿とご令室が慌ててご子息を連れてやってきて。ご子息があなたたちを唆したのだって、もう平謝りだったのよ。子どものしたことだし良いっていうのに。懐かしいわね、十年以上前なのに昨日のことみたい」

 無理やり頭を下げさせられていたあの子はかわいそうだったけど。そう言いながらも、思い出すとおかしくてたまらないという顔で、デュートは手元の飴の包みを開いた。かさかさという音と共に柔らかな花の匂いが漂った。飴ではなくオイルの匂いだ。ルーシェは、一日中書類に目を通しサインをする女王が指先を守るために塗っているその香りがとても好きだった。

 デュートはそのオイルを切れては買い足しを繰り返し、ずいぶん長く使い続けているが、もとはと言えばそれはルーシェの父親がまだ新婚の頃に(気を利かせた彼の妹に言われて)妻に贈ったものだという。その特別の思い出のせいか、これまでデュートはそれをルーシェに一度も使わせてくれたことがなかった。ルーシェはデュートが空の包み紙を細く折って結ぶのを見届けると、意を決したように唾を呑み込み、本題に入った。

「それはそうなんだけど、私そのときおばあさまに会ったのよ。そのことは今日初めて話すはずだわ。レヴィオは知らないと思うし」

「おばあさまですって?」

 デュートがわずかに眉間に皺を寄せたのを見逃さず、ルーシェは慎重に言葉を選びながら続けた。

「占い師をしていたおばあさん。名前はそのときは聞けなかったから、その場でおばあさまだと気づいたわけじゃないけど……実は今日も私、行ってきたの。おばあさんはいなかったけど、伝言があって。おばあさんの名前はアルファンネル。おばあさまと同じよ」

 飴の包み紙の結び目をもてあそんでいたデュートは、そう、と呟くと俯いてしまった。


「おばあさまはお母さまに『ユディリート』と名前をつけたと聞いたわ」

 デュートの顔色を窺いながら、ルーシェは先を続けた。

「おばあさまは、お母さまが私たちに良い名前をつけたとも言っていた。ね、お母さま。おばあさまは元気にしているんですって。今回はいらしていないけど、お母さまのことをちゃんと覚えているし、私たちのことも知っている」

 しばしの沈黙がふたりを包む。話すべきではなかったかもしれないとルーシェが後悔し始めたそのとき、デュートが不意にテーブルについていた肘を外したので、ルーシェは思わず肩を跳ねさせた。デュートは天板の上で指を組み直し、尋ねた。

「あなたはそれを私に言うかどうか、悩んだんでしょう」

「お母さまは、私におばあさまの話をしないから。もしかしたら思い出したくないのかもしれないって思って……。でも、わからないよりはっきりするほうがいいんじゃないかって考えて。だから言うことにしたの」

 ため息をついたデュートは、改めてテーブルの上に手を組んで尋ねた。

「今回は、来ていないのね」

「そう。風の民に土地をくれるという国があって、その提案を受け入れるかどうかで部族の意見が分かれてしまったらしいのね」

「国をくれる、と言ったの?」

 そう、と頷いたルーシェはデュートの目が一瞬鋭く細められたのに気がつかないわけではなかったが、とりあえず最後まで続けることにした。あれは「女王」、為政者の顔だ。しかしルーシェは「母」と話しているのだ。

「それがどこの国だとか、どの辺に土地を準備したのだとかは私は聞いてないの。ただとにかくおばあさまは、そこにとどまるっていう人たちと話をしたくて今回はその場所に残ったって言ってた。だから来ていないそうなの」

「じゃあ、私は会えないわね」

 残念ね、と言葉を落としたデュートはすっかり母の顔に戻っていた。彼女は立ち上がり、振り向くと後ろにあった小箱を開けて耳飾りを取り出した。

 金具部分をつまんでデュートが見せたそれに、ルーシェは見覚えがあった。レヴィオがあの時「壊した」と言っていた、その後アルファンネルにもらったものと入れ替えたものだ。

「これが入れ替わっているのに気がついたのは、割と最近のことよ。私のお母さま、ということはあなたのおばあさまね。あの人は遺体も見つからなかったから、もしかしたら生きているのかもしれないけど、正直期待してはならないとも思っていた。そして、もう会えないだろうと考え始めた頃に、これが新しくなっていた。驚いたわ。何かある気がしていたけど」

「それ、レヴィオが壊したのよ。だからレヴィオは替え玉を買いに行くんだって。フォルセティが、それを風の民が売ってるのを見たって言うから、それであの日私たちは……フォルセティが悪いのよ。今回お母さまに話すかどうかを相談したときも、あなたはどう思うのって聞いたのに……」

「面白いわよね」

 だんだん口調が上ずってくるルーシェを前にデュートは再び頬杖をつくと微笑んだ。しかしルーシェには一体何が面白いのかわからない。首を傾げた娘に肩をすくめ、デュートはさっきの飴の包み紙をつまみ上げ、端に寄せると静かに息を吐いた。

「私がまだ幼かった頃の話よ。あなたが聞きたいなら話すけど」

「聞きたいわ」

 居住まいを正したルーシェにデュートは肩をすくめ、自分も頬杖を外した。


「あなたのおばあさまは、私が生まれる十年以上前にユーレにやってきた風の民のひとりだった。そして当時この国の王様だったあなたのおじいさまは、おばあさまに一目惚れをしたそうなの。流浪の民が王妃になるなんて前代未聞だったけれど、おじいさまはそれでも無理矢理結婚したわ。大好きだったのよ、おばあさまが」

「すてきね」

 相槌を打ち、デュートは先を続けた。

「でも、そうして反対されながらの結婚だったから、世継ぎがなかなかできなかったのは格好の陰口の種になってしまったみたい。おばあさまたちはそれから逃げるように、門前に捨てられていた男の子を可愛がるようになったのですって、自分たちで名前もつけてね。だからその子が養子となって、立太子される話も出ていたのだけど、そのうち私が生まれたからその話はなくなった。そして私が十一の時におじいさまが亡くなり、クーデターが起きて、おばあさまもいなくなった」

「もしかしてそれって、お母さまが生まれたせいで国王になれなかったその人が……?」

 違うわよ、と女王は苦笑した。

「その人はそのクーデターの中でも危険を顧みず城に残って、私とおばあさまを助けようとしてくれた。そしてそこで亡くなった。私をとても可愛がってくれたのよ。彼は私が物心ついたときにはもう立派な青年だったけど——でも私は幼かったから、彼を『フィー』と呼んでいた」

「その人の名前もフォルセティ?」

「そう、私の初恋の人よ。面白いでしょう?」

 何が面白いのかわからないという顔をして眉を寄せたルーシェに、デュートは瞬きをした。

「面白くない?」

「何が?」

「私もあなたも初恋の人が『フォルセティ』なの」


 ルーシェは思わず立ち上がり、それをにこにこと見上げる母に思い切り否定の声を上げた。

「違うわよ」

 デュートは「そうなの?」と笑った。ルーシェがため息をつき腰を下ろすと、それを見届けてデュートは続けた。

「じゃあ違うのでしょうね。でもあなたのフォルセティも別に、悪い子ではないでしょ?」

 笑顔の絶えない母に肩をすくめ、もう行くわ、とルーシェは立ち上がった。女王は娘を部屋の扉まで送り、扉に手をかけると思い出したように小さな声を上げた。振り返ったルーシェに彼女は尋ねた。

「ねえルーシェ。あなたは自分の名前の意味を聞いたの? おばあさまに」

「聞いたわ。レヴィオが『銀の海』、私が『金の原』だと仰ってた」

「そう。その名を大切になさいね」

 眉を寄せて首を傾げた娘にデュートは苦笑いしながら扉を開け、娘の額に口づけをするとそっと背を押した。

「おやすみなさい。良い夢を」

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