9 / 端緒
フォルセティの母親(つまり最初、国境地帯に調査に出向いたサプレマ)は、ルーシェを王宮まで送ると言って出ていき、帰ってくるなり台所に現れ行動に出た息子を、手を拭きながら苦々しい顔で見つめた。
彼女の前ではフォルセティが、さきほど風の民の足元から拝借してきた瓶の口を彼女に差し向けている。息子としては母親がこの臭いを苦手としていること(そのせいで父親も家では一切といっていいほど飲まず、翠嵐だの知人だのと飲みに出ていること)くらい百も承知だ。彼女はまたかとばかり、それはそれは長いため息をついてから口を開いた。
「あのねえ……脅しはやめる。それと、聞きたいことがあるならはっきりと」
「母さんがこないだ翠嵐を連れてった理由が知りたい」
ああ、とため息をついたフリッガはタオルをテーブルの上に放り出すとその瓶の長い口を握り、フォルセティの手から引き抜いた。彼は手を緩めたので、それは簡単に抜けた。フリッガは瓶を顔の高さまで持ち上げ、目を細めながら言った。
「風の民の通ったところで変な病気が流行ってるっていう噂があって。だからそれが事実か、事実なら真相を確かめに」
「病気? どんな」
「皮膚に斑点が出たり、腹痛がしたり。小さい子どもが死んだっていう噂も。で、どうやら彼らの保存食の問題だったみたいだから、陛下はその保存食を没収した上で入国許可を出した。子どもが死んだのは本当かわかんないよ、ネズミとかの体の小さい動物ならあり得るだろうけど。これもう捨てていい?」
瓶を下ろして振ってみせた母親にフォルセティは肩をすくめ、彼女がその深緑色をした瓶の中に火を落とすのを見守った。その様子がよほど不服げだったのか、フリッガは口を尖らせ「やっぱり自分で処分して」と言うと瓶をフォルセティに投げ渡した。
彼が瓶の中を覗き込むと、底にはほんの少しの液体が残っていた。
数日後。風の民がテントを張ってからそろそろ半月になる頃、フォルセティはいつもの軽い足取りでクレタを訪ねたが、不在だったので次は妹のシルカのところへ向かった。
彼はシルカには会ったことがない。愛想が悪いということはクレタから聞いていたし、ルーシェが散々ぶつぶつ言っていたのも知っているので一筋縄ではいかない相手だろうとは思ったが、あのクレタの双子の妹なのだからなんとなく楽しみでもあった。彼は大抵は楽観的だ。ルーシェならそれを能天気と呼ぶだろうが。
ルーシェがここを訪れたときと同じく、アルファンネルのテントで客を待っていたシルカは、フォルセティがやたらと笑顔で入ってくるなり勧められもしないのに勝手に椅子を引いたのを見ると、ため息をついて立ち上がった。こういう店では客はほとんどが女性である。
彼女はひらひらして動きにくそうな衣装こそまとっていないが、それでも呪文のような文字の縫い取られた細い布を首や腕に巻き付けている。彼女はテントの表に出ると休憩中であることを示す紐をかけてから中に戻ってきた。その様子を眺め、シルカが向かいに座るのを確認するとフォルセティは早速口を開いた。
「どうも初めまして」
「あなたがフォルセティね」
「え? よくご存知で」
目を丸くしたフォルセティにシルカは「姉から聞いたの」とだけしか答えず、彼の用を問うた。
彼女が一瞬戸惑ったように見えたので、フォルセティは少し訝しげな顔をした。しかしクレタとシルカは双子なのだし、彼もここ数日は家でおとなしくしていたのだから、その間にクレタがシルカにフォルセティの話をしていたとしてもそう不思議ではない。とは言えシルカがフォルセティの名を知っていただけでなく、顔を見るなり言い当ててしまったのは彼にも気になったものの、考えてみれば赤と黒の聖職者の衣装を身につけ、なおかつ薄紫色の瞳をしているのは、少なくともグライトには彼のほかにはその母親しかいないのである。
その程度の特徴さえ関連づけられていれば、顔など知らなくてもわかるのだろう。得心した顔で頷いた彼に、シルカは怪訝な顔をした。
「何かおかしいことが?」
「ああいや、こっちの話」
そこでひとつ咳払いをしたフォルセティは、クレタに尋ねるつもりだった質問をシルカにぶつけた。
「死者が出たというのは知らないわ。でも私たちの通った町でそういう症状の病人が出たのは本当」
「じゃあ没収も?」
「事実よ。私たちは穀物の粉を練ったものを発酵させて保存食にするけど、持っていた分は調査するというのですべて渡した。もしかすると隠していた人もいるかもしれないけれど」
ため息をついたシルカに、あのさあ、とフォルセティは頬杖をついた。
「俺が不思議なのは、どうして『通った町で』なのかってとこなの」
「それは私たちの持っていた食べ物が原因で、それを何かのきっかけで口にした人が……」
「でもそれならなんで、風の民自身には出ないの? あなたら食べてたんでしょ。その保存食とやらを」
シルカは険しい顔をした。それにちらと眉を上げ、フォルセティは後ろ頭で手を組みながら続けた。
「俺ね。最初は非常に失礼ながら、あなたら風の民の陰謀ではあるまいかと思ったのね。何らかの目的……たとえば治療薬を高く売りつけるとか、そういう目的でもって、毒を仕込んだ食い物を客に振る舞っていたのではなかろうか、と推測したわけよ。しかしそうではないという結論に至りました」
「どうして」
「実はねぇ」
フォルセティは頭の後ろで右手のグローブをはずし、シルカに手のひらを見せた。テーブルの上で組まれたシルカの手よりひと回りは大きいが、彼女に向けられた部分は日焼けしていないので色はそう違わない。
そこには消えかけているが、確かに斑点があった。シルカは眉を顰めてフォルセティを見上げた。彼は少し視線を斜め上に
「これは懺悔だけど、実は僕は先日あなたがたのところから、お夕飯のお供になってた酒をほんの少し拝借しました」
「あなた、まさかそれを飲んだの?」
「発症時の対策もできてたからね。それに中身はほとんど残ってなかったから、俺が飲んだのは一口もないくらい。それでもご覧のとおりでさ。正直なとこ、問題の『保存食』ではなかったし、あの分量でここまではっきり出るのは予想外だったけど……よほど濃縮でもされてたのかな。とにかくすげえ、めちゃくちゃ、叱られた」
グローブをはめ直しながらケラケラと笑ってみせたフォルセティに、シルカは言葉もないという顔でため息をついた。
「……呆れた」
「でもこれで証明ができたわけだ。君の仲間がついさっきまで飲んでいたものでも発症するのなら、風の民の陰謀説はほぼあり得ない」
な? とフォルセティは、緩めっぱなしだった表情をにわかに引き締めシルカを見つめた。彼女は不意を突かれた顔をしたが、頭を振って手を組み直した。
「それで? あなたは一体何をしたいの?」
「俺は解明したいだけだよ。なんできみらには発症しないのか」
「そんなこと私にもわからないわ」
「俺らときみらとの違いは?」
シルカはフォルセティを睨んだ。
定住地を持たない風の民はどこに行っても「よそもの」である。そのせいで蔑視されることも多いし、あからさまに指をさして
だからシルカは、フォルセティの言いたいこともそれなのかと思ったのだ。風の民は穢れているのだと彼が言っているように彼女には聞こえた。しかしフォルセティにはそんなつもりは毛頭なく、違う違うと慌てて手を振ると彼はテーブルに両肘で頬杖をついた。
「ごめん、質問の仕方が悪かったよ。以前のあなたたち……つまり『病気を運ぶ』なんて言われてなかった頃と今回の違いは、のほうがいいかもしれない」
「人数が違うわ」
「その理由は?」
「二派に分裂したからよ。私たちに国をくれるという人たちが……あ」
目を泳がせたシルカにフォルセティは、ほらなとばかりに肩をすくめてみせた。
「俺はね、悪いけど占いにも呪いにも興味がないんだわ。でもそういう陰謀的なものの気配には胸がどきどきすんの。大好きなの。腹壊してる間もずっと考えてたの」
「あなたはそれが陰謀だっていうの? 想像力が豊かなのは結構だけど、飛躍が過ぎるわね」
思わず苦笑を漏らしたシルカに、さあねえ、とフォルセティは両手を広げ、椅子の背もたれに背を預けた。
「ただ、もし。仮に、万一そうだったとすれば興味深いよねって話だよ、不謹慎だけどさ。俺は純粋に好奇心から勘ぐってる、ただの知りたがりなの。まあ、どっちかっていうと妄想して楽しんでるだけかもしんないけども……」
最後は最早独り言のようにもぐもぐと口にしながら後ろを向き、テントの隙間から外を見たフォルセティは、やべ、と呟きながら立ち上がった。そうして彼はシルカのほうを向き直ると、愛想の良い笑顔で「出直すよ」と言い、立とうとするシルカを制して、身のこなしも軽く彼女の目の前から消えてしまった。
残されたシルカはしばらく硬い表情で組んだ自分の手を見つめていたが、大きなため息をつくとテーブルに肘をつき、左目の眼帯を前髪の上からぐしゃりと握って呟いた。
「ファラン。あれが今度の『フォルセティ』よ」
シルカの表情は、見えない。
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