8 / 水よりも濃く

 テントの前でクレタと別れ、ルーシェとフォルセティとは広場を離れて王宮への帰路についた。

 後ろの賑やかな音が徐々に薄れていき、周囲は次第に普段の町の姿を取り戻す。ごく普通の夜は、静かな明かりが運河の水面を緩やかに照らしていた。

「ねえ」

 ルーシェは俯いたまま、しかし歩みは止めずに、隣を歩くフォルセティに話しかけた。フォルセティも足を止めないで答える。かと言って彼の歩みもそう速くはない。自分に合わせてくれているのだろうかとルーシェは目線だけちらりと上げ、すぐに戻した。

「なに」

「おばあさまのこと、お母さまに伝えたほうがいいと思う?」

「どうだろうなあ」


 フォルセティの両親は、ともに親を早くに亡くしている。だからフォルセティは自分の実の祖父母には一度も会ったことがないし、そのことはルーシェも知っていた。

 しかし彼女にはほかに、この話を相談できる相手の当てもなかったのだ。戻ってレヴィオと話すことも考えたが、やめたほうがいいと言われる気がして気乗りしなかった。つまり彼女自身無意識にしろ、頭のどこかでは話した方が良いと——あるいは話したいと——思っている、ということ。だがひとりで決断し、踏み出す勇気もない。

 アルファンネルが生きているということ。今回は来てはいないが、元気にしているということ。娘のことを忘れてはいないということ——それがルーシェが伝えられるすべてだったが、彼女にはデュートがそれを聞けば喜ぶだろうという自信はなかった。それでも彼女が伝えるべきだと思ったのは、行方不明としか記録されていない前王妃の現在を知ることは、娘である女王にとっては何かしらの意味があることだろうと考えたからだ。とは言えやはり、眉を顰められたらと考えると怖いのには変わりがない。女王はその母が自分を捨てたと思っている可能性とて、ないとは言えないのだから。

 ルーシェは浮かない顔をしている。それを見たフォルセティは長く息を吐いてから聞き返した。

「ルーシェはどうしたいと思ってるわけ?」

「私は……伝えたほうがいいと思う」

「じゃあ、そうしよう」

「そんないい加減に。ちゃんと考えてよ」

 ルーシェが眉間に皺を寄せて見上げるも、フォルセティは肩をすくめてみせただけで、王宮の正門が見えてきたところで立ち止まった。

「さて、俺の送りはここまで」

「え、もうちょっと来ればいいのに」

 やなこった、と悪戯っぽく笑ってみせたフォルセティに、ルーシェはため息をついてから顔をあげ、礼を言うと駆け出そうとし、しかし数歩で立ち止まって振り向いた。フォルセティは既に背を向けている。彼女は名を呼び振り向かせた。

「フォルセティ」

「なに? まだなんか用」

「これからどこ行くの?」

 なぜそんなことを聞くのだとでも言いたげな顔で、帰るよ、と答えた彼に内心安堵し、ルーシェはもう一度別れを告げた。フォルセティは再び背を向け片手を挙げる。彼が見ていないのはわかっていたが、それに手を振り応えると、ルーシェも今度は立ち止まらずに正門まで走っていった。


 門衛が慌てて上のものを呼びに行き、そうしてやってきた初老の男にがみがみ言われている間も、ルーシェは今日のことを考えていた。

 シルカと瓜ふたつのクレタ。彼女と少し特別な仲なのかもしれないフォルセティ。フォルセティに会わせたかったが叶わなかったアルファンネル。その娘であるユディリート——デュート。デュートが生んだルーシェ、レヴィオ。

 アルファンネルは遠く離れた地で今頃何をしているのだろうか。お小言からようやく解放されたルーシェは、王宮の前庭を遠慮なく突っ切りながら、明かりのついている母親の私室を見上げ、一度立ち止まると頷いてから階段を上り始めた。


 一方フォルセティは「帰る」とは言ったものの、戻る途中にあるのだから寄り道にはならないと自分に言い訳をして、またテントの広がる広場の中を通ることにした。ルーシェに後ろめたさを感じたのは事実だが、クレタに会いに戻るわけでもない。

 さっきルーシェと訪ねたときテントに入ってきたクレタは、待っていたふたりに水を差し出そうとし、しかし引っ込めた。ところが彼女は自分だけそれを飲んだ。それが妙に違和感を覚えさせたので、賑やかなテント群の中に戻ってきたフォルセティは今度は少し周囲を気をつけて見てみることにした。そこで彼は、今回誰も飲食物を提供していないのに気がついた。自分たちの食事は普通にとっているのに、だ。

 前回——と言っても十年近く前になるが——は、見たこともない食べ物に何度も舌鼓を打った覚えがある。それが今回一軒もないというのは不自然だ。クレタに聞いた理由のせいで規模が縮小されているからといって、ああいう店だけが全く姿を消してしまうのは納得がいかない。

「飲食物を提供しない」ということが裏で取り決められてでもいるのだろうか? だとしたらその理由はなんだろうか。そしてなぜ表沙汰にしていないのか。知れるとまずいことでもあるのだろうか。例えば市民の混乱を招く、と言ったような。そのような事態を引き起こす要因として考えられる可能性は何か。いささかこじつけのような気もしたが、フォルセティはそれでも辻褄の合う推論をひとつ、見出した。


 テントの群れの端が近づいたところで、出し物を終えた風の民の男性がふたり物陰に座り込んで食事をしていたのに目を留め、フォルセティは立ち止まった。両方とも彼の父親と同じくらいの年齢だ。ふたりはフォルセティに気づき、出し物に使う輪のような道具を振ってみせてくれた。上機嫌そうなのはどうやら出番を終えたせいだけではないようだ。彼らの足元には空の瓶が転がっている。ユーレ産のものではなさそうだった。

 フォルセティは彼らの道具に興味を示している様子を見せながら近寄り、彼らが目の高さにその道具を掲げて色々説明してくれるのに相槌を打ちながら、足元にある瓶につま先をそろそろと伸ばし、そのうちの一本を気づかれぬように引き寄せると、自分の背後に蹴り転がした。

 話が一段落ついたところで、ありがとう、と彼は愛想の良い笑顔で礼を述べた。そして彼は手を振って見送ってくれたふたりに背を向けると、先ほどの瓶を拾い上げてから家に向かった。


 風の民が入国する直前のことだ。彼の母親サプレマは、彼女自身にも契約竜がいるにもかかわらず、敢えてフォルセティの契約竜である翠嵐を連れて国境地帯に行っている。その目的がなんだったのか聞いても彼女は言わないし、翠嵐も「別に」としか答えない。しかし翠嵐でなければならない理由があったからこそ彼を連れていったと考えるのが自然だ。つまりその用事は地竜の力が必要なもの。例えば——そう、例えば人間には危険な、毒見とか。土壌や草木のこととなれば、彼以上の適任はいない。

 先ほど注意深く見回したときに、フォルセティは何人か知った顔も目にした。父の独身の頃からの友人だと言って、何度か家に来た連中だ。私服ではあったが、彼らは決してそこで遊んでいたわけではない。軍人だか警護官だかわからないが、とにかくその手のものがああして警戒している理由だってあるはずだ。単なる見回りにしては多すぎる。

 そして、まとわりつく虫の羽音。気にしている人間はそう多くはないようだし——実際聞こえていないものが大半なのだが——この区域では、多すぎる。数の問題ではなく、彼の周りを集中的に飛んでいるだけかもしれないけれども。


 見回りの数とは違い「虫」のことに関しては、それが悪い意味を持つと断定することは今の段階ではできないから、とりあえず気にしないでおくことにした——ルーシェのことも。普段からそういう「虫」が全くいないかと言えば決してそういうわけではないし、それと同様、その羽音を聞くことができる人間もまた、珍しいとはいえどもいないわけでもないのだ。ルーシェがそのひとりであるのかをはっきりさせる意味は、少なくとも今の彼には見出せなかった。

 何はともあれ。フォルセティは頭を掻いた。この瓶を見せてどうにかすれば、母から今回のことが何か聞き出せるだろうか? それとも実際、彼女が国境に行ったのは全く関係のない理由に基づくもので、ごみを増やすなと叱られるだけだろうか。

 ただ、どう転ぶにしても、たとえ答えが期待はずれでも、すっきりするほうが良い。そう思ったフォルセティは階段を上がった先で手元に目を落とし、その瓶の口に鼻を近づけると、そこから漂う匂いに渋い顔をしてから自宅の玄関を開けた。

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