5 / シルキアーテ

 まだ明るい時間、王宮をこっそり抜け出たルーシェは、風の民がテントを張っている広場のほぼ中心に来た。鼻をくすぐる良い匂いこそしないものの、人々の声や夜に向けた準備の音で賑やかなその場所で彼女はあの占い師を探したが、見当たらなかった。名前を聞いておくのだった、と彼女は心底後悔した。

 何せ前回会ってから十年近く経過しているのだ。そのときのルーシェの年齢を考えれば、記憶が定かでないのは仕方がないし、それ以上にもしかすると「いない」のかもしれない。今回来ているのは彼女のいた部族ではあるが、それでも人数はずいぶん少ないので途中で分裂してしまったのかもしれないし——あるいは、それとは無関係に没してしまっている可能性すらある。あの占い師は当時でも既にルーシェからすれば「おばあさん」という歳だったのだ。しかしそれは考えたくないことだった。ルーシェはまとわりつくような虫の羽音を手で払い除けた。

 このテントの密集地帯に来ると妙に虫が寄ってくる。周りを見回しても、飲食物の提供がないからか生ごみが散らかっているとか嫌な臭いがするとかの不潔な様子はないし、誰も虫など気にしているふうにも見えないのだが、だからと言って気にするなというのも無理な話だ。ルーシェは大きなため息とつくと両手を腰に置いた。その耳元をからかうようにまた羽音がかすめていったので、彼女は振り返り、忌々しげにその音の消えていったほうを睨んだ。虫の姿は見えなかった。あれだけの音をさせるのだからそれなりの大きさだろうに。

 それから彼女は老占い師について覚えている限りのことを聞いて回ったが、皆忙しそうにしていたこともあって、これといってめぼしい情報は得られなかった。そうしているうちに彼女は見覚えのある一張りのテントの前にたどり着いた。

 あの老占い師がレヴィオとルーシェを招き入れたものによく似ていた。縁取りの刺繍をまじまじと見つめて確信に至ったルーシェは、一度後ろを振り向き、自分に注目しているものがいないのを確認し、中に入った。


 そこには期待した人物はいなかった。その代わりとび色の髪の少女が、これもまた見覚えのある水盤を前にしてうつむき気味に座っていた。

 ルーシェと同じくらいの年齢に見える少女は、頭から顎へ斜めに渡した細い布で左目を覆っている。その布にもテントと同じように精緻な刺繍が施されていた。少女が顔を上げると、その布から下がる透けた色の石と、左耳の後ろでひとつにくくった髪とが揺れた。肩に届くか届かないかくらいの長さだ。

 隠れていない右目は金に縁取られた緑色をしている。見るものを一瞬狼狽えさせるような、神秘的な瞳。その少女が首を傾げたので、ルーシェは慌てて椅子を引くと向かいに座った。

「どんな願いを?」

 少女は膝の上にあった手を卓上で組み直し、ルーシェをまっすぐ見つめて問うた。遠慮のない視線だ。見透かされているような心細さを感じ、ルーシェはたじろぎながら言った。

「願いっていうか……人を探しているんだけど」

「そう。でも残念だけど私は占いはやらないの。まじないだけ」

 少女はもの静かな口調で答えた。高飛車な雰囲気もないが、かといって申し訳なく思うような様子もない。人形のように表情を変えずにルーシェの反応を待っている少女に、ルーシェは少しむっとしながら答えた。

「私は人の居場所を調べているだけよ」

「誰の?」

 少女が聞き返した。眼帯から下がる石がわずかに動いたので、その下で彼女は眉を上げたのかもしれない。この眼帯のせいで尚更無表情に見えるのだ、とルーシェは思い、先ほど腹立たしさを覚えたことを早くも少し申し訳なく思った。

「前回あなたたちが来たとき、たぶんこのテントを使っていた、占いをするおばあさんなのだけど」

「その人なら今回は来ていないわ」

 そう、とルーシェは呟いた。彼女の落胆ぶりは表情をあまり変えない少女とは対象的だ。少女はため息をついてから水盤を少し引き寄せた。薄暗いテントの中、蝋燭の光を映した水面みなもが揺れる。

「普段はやらないんだけど。あなたは何を見てもらうつもりだったの」

「え?」

「アルファンネルに。探しているのなら、何か聞きたいことがあったのでしょう?」


 あの老占い師の名前は「アルファンネル」。聞き覚えのある名に眉を顰め、ルーシェはその名を思わず繰り返した。少女が瞬きをした。

「あなたは、もしかして『シャルテッサ』?」

 無言で頷いたルーシェに、少女は卓上の燭台を取り上げ水盤の中央に置きながら続けた。

「それならアルファンネルから聞いているわ。あなたが来るかもしれないから、そのときは質問に答えてやるようにクレアリットに伝えてあると」

「クレアリット」

「私の姉よ、と言っても双子だから歳は違わないけれど。夜、中央のテントで踊りを見せている。その辺にいるものにシルカが呼んでいるとでも伝えれば、いれば出てくるでしょう」

「シルカ?」

 ちらりとルーシェに目をやり、少女は「私のことよ」と答えながら手元に目を落とした。

「シルキアーテ。私の名前よ」

 ルーシェが「ありがとう」と言い残して立ち上がりかけたのを引き留めるようにシルカは顔を上げた。相変わらずその目は、特別な力を持つかのように有無を言わせずルーシェを座らせた。

「ここにアルファンネルを訪ねてきて、どうするつもりだったの」

「ちょっと、幼なじみをからかってやりたかったの。占いとか全然信じてなさそうだから、言い当てられたらどんな顔するだろうと思って。だから本人を連れてくる前に、そういうことしても大丈夫か、おばあさんに相談しようと思ったんだけど」

「その人の名前は」

 今度はルーシェが首を傾げた。呪いを専業とすると言ったのは彼女自身だし、何よりここには対象たるフォルセティがいない。だがシルカは、ルーシェのそうした心の内すら見透かしたかのように続けた。

「その人の名前と性格とか、言い当てられたいことに関係しそうなことは全部教えてちょうだい。そしてあなたは何食わぬ顔をして私のところにその人を連れてくればいい」

「それっていんちきじゃない?」

「それをいんちきと呼ぶのならアルファンネルも同じよ。それで、相手の名前は? シャルテッサ」

 あの老占い師はシルカからすれば祖母にあたるくらいの年齢のはずだ。ルーシェはふたりの関係を知らないとは言え、年の差を考えればシルカが彼女を呼び捨てにするのは失礼なことだと思ったし、なによりアルファンネルをいんちき呼ばわりした(あるいは、そんなアルファンネルを探しにきたルーシェをも小馬鹿にしたのかもしれない)シルカに強い反発を覚えた。曇ったルーシェの表情を前にしても変わらないシルカのただでさえ整った顔は、なおのことルーシェの怒りをかき立てた。

「あの方の何がいんちきだと言うの」

「クレアリットに聞いてごらんなさい。すべて話してくれるわ」

 少女は淡々と返しながら、一度は水盤の中に置いた燭台をテーブルの隅に戻した。

 こんな虫の好かない相手の質問になど答えてやるものか——ルーシェはこれ見よがしに大きなため息をつき、しかしその腹立たしさを直接ぶつけるほど幼くもないと自負もしていた。だからルーシェは、それでも十分幼く当てつけのように、優雅な王族ふうの別れの挨拶を一方的に残してその場を離れた。


 それからすぐにルーシェは、夜になればクレアリットが舞を披露するという中央の大きなテントに向かったが、残念ながら彼女は不在だった。しかしほっとしたのも嘘ではなかった。彼女がアルファンネルから預かっているという話をひとりで聞くのは少し勇気が要ることだったからだ。その上、クレアリットとシルカ――シルキアーテとは双子だという。女の双子だというから、おそらくふたりはよく似ているだろう。クレアリットの話は聞きたいが、あの整った顔と見透かされるような目をまた前にするのかと思うと、ルーシェはなんとなく心細かった。

 きちんとした手続きも踏まずに抜け出てきたから、一度王宮に戻れば簡単に出してはくれなくなるはずだ。ルーシェは、晩までフォルセティの家でかくまってもらうことにし、そしてもちろん晩には彼を引っ張ってくることに決め、その場を一旦離れた。

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