4 / 風の民

 国境を越えて少しのところで足止めされていた風の民は、解放令が発されてすぐ移動を開始した。彼らには、保存食の没収のほか何らの制約も課されることはなかった。しかし彼らは自主的に、余計な疑念を抱かせぬためにか、一切の食料の提供を自粛することにしたようだった。


 風の民の結束力は強い。彼らは国を持たず放浪を続けてきた民であり、今やそのことに誇りも持っている。そのため彼らは本来留め置かれることを極端に嫌うし、それがゆえに風の民の女性がその土地の男性との間に子をなしたときにも、女性は土地にとどまらず仲間との放浪を続け、旅の中で子を産み、皆で育てる——そうした慣習が出来上がっていたから、仲間の許を離れるのは相当の例外で、ときには侮蔑さえもされたのに対し、実父の土地を離れた子は誇り高き民として大事にされ、一緒に放浪を続けていくのである。

 そうして旅の上の止まり木のひとつであるグライトに入った風の民は今回も、毎回テントを張る広場に陣取って、いつもどおりの設営を始めた。そしてそれと同時に彼らは代表者を王宮に派遣した。彼らは風の民の中ではかなり、手続きに敬意を払う穏健派だ。

 普段はそれは広場を使うことの許可を得るためのものに過ぎないから、事務官との間のやりとりで済んでしまうのが通常である。だからその手続が極端に面倒だったり、なかなか許可の下りないときには、彼らのようなタイプであっても手続自体せずに適当に見繕った場所を不法占拠してしまうこともある。そこで今回女王デュートは、そうして事務手続のために来宮したものを、必ず自分と直々に会わせるように事務方に命じた。だから今回、彼女はこの部族の代表者と謁見している。

 一時期の例外はあるが、もともと他国に比べてユーレは風の民にかなり厚い保護を与えてきた。それでも今回は、結果的に事実ではなかったとは言っても、彼らが病を媒介するという噂が立って、それでもなお彼らを国に入れることを頭から拒否はせず、それどころか国王が興行の許可を与えるというのは贔屓と言われても仕方のないほどだ。そしてユーレが昔からそういう国だからこそ、風の民は今回の措置を甘んじて受け入れた。女王はその措置の仕上げとして彼らの代表と直接対話の機会を持ったのだった。


 デュートが風の民の血を引いていることは、この部族の者ならほぼ例外なく知っている。それをきっかけに今の彼らと親交を深めていくことは、交渉ごとにこなれた女王にとってはさほど難しいことではない。たとえ風の民が一般的に、旅先の民と結ばれたからといって先の妃のようにその地に残ることを選ぶものを嫌悪していたとしても。

 実際は血筋など関係なく、女王が二十年ほど前から推し進めている融和外交の一端でしかないのだが、いずれにしても小さな半島ひとつを領有するだけの小国ユーレにとっては、友好関係を結んでいる勢力が多くて困ることはない。その勢力同士で対立するようになりそうな、あるいはなった場合には、そこはまた女王の腕の見せどころ、ということだ。

 つまり今回の風評の件につき、デュートは彼らから没収した保存食を調査し、サプレマの(それ以上に、サプレマの同行者の)お墨付きを携え、周囲の国々に彼らが無害であることそして対処法を伝える役目を買って出ることにしたのである。風の民を拒否した国や都市の中には、ユーレと友好協定を結んでいるものもあったから、風の民を受け入れたことを原因として諸国との間で心情的な板挟みに陥るのは避けたいという判断もある。そのため没収した保存食を隔離、保管しているユーレ辺境の町には、直ちに数人の調査官が差し向けられた。


 もっとも、王宮で起きていたそのような動きは、民を束ねる立場にあるごく一部のものにしか関係も関心もないことで、それはルーシェにしても同じだった。

 ルーシェの部屋の窓からは眼下に、レヴィオが護衛の軍人を従え、斜めに注ぐ日を受けて影を後ろに伸ばしながら、木刀と思しきものを手に士官養成所の方へ歩いていくのが見えた。彼もどうやら武芸には人並みに興味があるようで、最近は自らは士官候補生でもなんでもないのに、王位継承者という立場を武器に、断りきれない指南役をひっつかまえては教えを乞うているようだ。

 レヴィオの背はとうにルーシェを追い抜いている。幼い頃はルーシェのほうがしっかりしていると誰もが言っていたのに、今の彼は体の丸みも消えたし、顔つきも心無しか厳しくなった。かつては逆だったのが、いつの間にか彼のほうが自分より「頼れる」人間になってしまったような気がしてルーシェは少し悔しかった。

 彼の剣の腕がどうなのかは知らないが、そうして汗を流すのが気分転換になるのだとしたら(職務外の稽古をつけさせられる指南役にはご苦労なことだが)喜ばしいことなのだろう。生まれてくる順番が違ったというだけで、彼はいずれ国王になることがほぼ——よほどのことがなければ——確定している。それはきっと、第二順位の継承権を持つに過ぎないルーシェにはわからない、不可視で無言の重圧であるに違いない。王という称号が単なる飾りや便利なだけの肩書きでないことは、生まれてずっと母を見てきたルーシェにも、一応わかっている。


 視線を少し遠くに移せば、風の民の準備は刻一刻と進んでいた。中央に天蓋だけの大きなテント、その周囲に生活用のもの、それから客を招き入れるための刺繍の施された豪華なものが順に、中心から周辺に向かって広げられていく。鮮やかなテントが小気味よいほど手際よく設営されていくさまは、見ていて心が弾むようだ。

 黄昏どき、彼らの作業が終わった頃に、テントで覆われないまま残った広場の縁部分で異国風の衣装をまとったものたちが、人を呼び寄せるための歌や踊りを披露していた。

 前回はあのように広場の端が空いていただろうか? 縁のぎりぎりまでテントがあったのではなかったか。ルーシェはふとそう思ったが、前回というのはまだ六歳の頃のことだ。何もかもが大きく見えたし、逆にレヴィオは幼く見えていた。ひとつ上のフォルセティですら幼いと思っていた。自分が一番大人だと自認していた。しかし今はそうではない。自分が一番、外の世界を知らない。

 だからもし、今回やってきた風の民の規模が前回と同じものであっても、違って見えることは仕方あるまい。あの頃とは違うのだ。そう考え、彼女は柔らかな薄黄色のカーテンを音を立てて引いた。


 風の民が病を媒介するという風評について女王は議会と合議の上、何らの公式見解も発表しないことに決めた。一般市民の間ではまだその風評は広まっていなかったから、敢えて説明するとやぶ蛇になって混乱を招くリスクがある。

 それが一番良い選択肢だったかは、その時点では誰にもわからない。しかし女王は当然、もしものとき早急に動けるよう準備の指示はしていたし、風の民が自ら決めた食べ物の提供自粛と、念のための予防措置として行われていた軍人の見回り強化もあってか、風の民が興行を始めてから数日経っても、発症の報告は一例もなかった。

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