3 / サプレマの報告

 翌日、国境地帯から戻ってきた女性は同行者と別れると、赤と黒で彩られた衣装を翻し、ひとりその足で王宮へ向かった。

 ユーレの首都グライトは坂の多い町だ。砂色のレンガを積み上げて作った建物の隙間も同じように砂色で踏み固められ、あるいは石が敷かれて、運河を抱く谷のごとく斜面となった住宅地の一番下の層、水辺に並走する大通りまで繋がっていく通路になっている。今、彼女のいる辺りからではまだその大通りは見えないが、それでも道と言えばそのようなものばかりで、地元民でなければ地図を見てもわかりにくいほどだ。

 大人が両手を広げてふたりは並べない幅の道から上を見上げると、空を区切るように向かいの建物との間に張った紐に色とりどりの洗濯物がはためいて音を立てている。その音の向こうで人々の話し声や笑い声が聞こえる。軒先に台やかごを並べて店を開いているものもあり、通り過ぎると美味しそうな匂いがついてきた。

 女性——最高神官サプレマは、そうして入り組んだ路地の中から目指す場所へ続くものを迷うことなく選んで、途中で馬を預けると水路に切り替えた。王宮に向かうにはこれが一番速いのだ。そうして彼女は目的地にたどり着き、正門そばの王立軍と王宮・市中警護との事務局を兼ねている建物で、自分の名を告げて中に入った。


 サプレマが通されたのは女王の私室であった。ふたりが会うときは大抵この部屋なのだ。それは女王が元来、謁見の間のような大袈裟な場を好まないたちであるせいもあったし、サプレマが「フォルセティの母親」としての顔を持っていることも大きな理由だった。

 市中ではそうそうお目にかかれない、人の背丈を優に越えるサイズの歪みのないガラスがはめられた大きな窓から外を眺めていた女王は、頭を下げたサプレマを招き寄せ、自らもテーブルにつくと彼女に向かいに座るように促した。銀食器や品の良いティーカップが似合う瀟洒しょうしゃな丸テーブルだが、今その上には器ではなく地図が広げられている。

 相手が腰掛けるのを確認して、女王は頬杖をついた。もう若いとは言えない、同年代の女性ふたりが顔をつき合わす、場所とふたりの様子を見れば到底正式なものには見えない会談だ。そして実際も「正式」なものではない——あくまで女王の私的な頼みごと、そしてその結果報告という扱いだった。しかし内実、多かれ少なかれ国政に関わる話である。女王が先に口を開いた。

「収穫はありましたか?」

 頷いたサプレマはテーブルの上に広げられた地図に目を落とし、渡されたペンで風の民の通ってきただろう経路を書き込むと、最後にペンの尻でトントン、と自分の行った場所を示した。

 ガラスのペン先に残るインクの色は花紺青スマルト。やや紫がかった深すぎない青は、温暖を越えて暑くすらあるこの国では一般に好まれる、士官の軍装にも採用されている色だ。女王が先を促すように顎をしゃくるのを認め、サプレマは続けた。

「彼らの保存食に何かしら問題があって、他国で報告されている発症者はそれを何らかの経緯で口にしたのではないかと思います。経口摂取さえしなければ大丈夫そうですし、仮に多少摂取しても、体の小さい動物ならまだしも人間が一度や二度で直ちに死に至る危険は小さいですが、万一体調不良者が出たときにはこれで対処してください。念のため」

 サプレマはふたつに畳まれた紙を地図の上に置き、差し出した。女王はそれを開いて目を落とし、再び折ると脇に寄せながら、確認するように尋ねた。

「ということは彼ら自身が病を持っているわけではないのですね。彼らと接触すれば必ず感染するといった類いではない」

「そうなります。一応は」

「ならば彼らを拘束しておく理由はないわね。危険なのが彼らの持っている食料なのなら、それを没収して新しいものを与え、解放しましょう」

 言い終えながら女王は手元の紐を引いた。天井から下がる薄緑色のそれは、壁の中の管を通って侍女の待つ部屋で鈴を鳴らすようにできている。応えるようにして現れた侍女に、女王は卓上の紙を渡し、それから男の名を告げ、ここに来させるように言いつけた。


 女王が呼んだのは彼女の夫だ。彼は王配となったあとも従来の武官の職を辞していない。とは言えさすがに今までどおりでい続けるのは周囲の気兼ねもあったので、多少は配置換えがあったようだけれども。

 間もなく現れた彼は、相変わらず配下の武官としての振る舞いを崩していなかった。いくら昼間は役職を前提にして会っているとは言っても、夫婦の会話に居合わせることが何度かあったサプレマ——フリッガ・コンベルサティオは、十年以上変わらないそれを見るたび、この夫婦は一体どうなっているのだろうと思わずにはいられないのだが、不仲の噂は聞いていない。夫婦の形はいろいろ、ということだ。女王は彼に、国境に留め置いている風の民の今後の扱いを伝えて下がらせ、再び向かいを見て座り直した。

「お使い頼まれてくれてありがとう、感謝します。何かほかにあるかしら?」

 何か、と呟いたフリッガは少し考えたが、首を横に振った。デュートはそれを見逃さない。結局フリッガは、任を受けた当初からの素朴な疑問を正直にぶつけなければならなかった。


 今回やってきた風の民は、前回訪れたのと同じ部族だ。彼らは国境警備隊と接触したが、今回は前回と異なり辺境地帯で足止めされている。フリッガが同行者を連れて向かったのは、その彼らが入国の直前に野営したところだった。

 風の民に直ちに入国が許されなかったのは、昨今の彼らにまつわる風評が事実であるかを確かめるためだ。今は友好関係にある隣国の都市からもたらされた「風の民の通ったあとには奇病が流行る」という情報は一カ所からだけではなかった。しかも諸都市を訪れた風の民の多くが前回の来訪時に比べ人数を減らしていたらしい。それがその病のせいなのではないかという憶測は当然ついてきた。だからこそ、そうした話を伝え聞いたユーレの議会は、風の民が何らかの伝染病を持っているのではないかと疑ったのだ。

 そこで女王デュートは、その推測が事実であるか、事実ならば国民に被害を及ぼさないようにするためいかなる対処をなすべきか、それを決めるため。しかも噂がひとり歩きして国内が混乱に陥るのを避けるため、ことを内密に進めるのに適任者として——正確には、ほぼサプレマだけが言うことを聞かせられる彼女の同行者にその仕事をさせるため——本来女王配下にはないサプレマに頼んで彼女(と同行者)を国境地帯に派遣したのだった。そして結局、その噂は一応は間違いであるということが確認できたわけだ。

 しかし、そんな面倒なことをしなくても、そもそも悪い噂のある風の民を敢えて入国させる必要などユーレには全くないのである。入国を許可するのも不許可にするのも議会と女王には簡単なはずで、それでも敢えて調査させ多少の危険も承知の上で入国を許した女王の判断は、フリッガには合理的とは思えなかった。実際隣国には彼らを拒絶した町もある。

 だから彼女は単刀直入に、その理由を女王に問うた。そして女王はそれに肩をすくめると、自分もまた単刀直入に答えたのだった。

「私の母が風の民だったからよ」


 女王の発した解放令により、国境で足止めされていた風の民は、所持していた保存食を没収の上入国を許可された。没収の措置には不満も出たが、それに対して女王は代わりのものを準備すると確約したので大きな騒ぎにはならなかった。彼らが首都までやってくるのはもう少しあとになるだろう。任務を終えたフリッガは、王宮を出たところで歳に似合わない大きな背伸びをした。

 海の近いこの場所は汽水域で、王宮の堀へと繋がる運河には海と川との生き物が混在して生活している。運河沿いの通りの、川縁と同じ階層はほとんどが商店だ。店と店との間の細い階段を上がった先の路地は相変わらず上り坂を描きながら、砂色のレンガで積まれた家々の間を縫っていく。

 洗濯物があらかた取り込まれたその路地には、今は夕焼け色の光の筋が差し込んでいる。商店主や店頭を覗く親子連れから頭を下げられるのに返事をし、しばらくすれば風の民がテントを張るだろう広場を一瞥すると、彼女はフォルセティたちの待つ家へと帰っていった。

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