2 / ナイトと少年
フォルセティ・コンベルサティオ——ルーシェとレヴィオ、それから彼の親族には「フィー」と呼ばれていたその少年は本来なら、当たり前の顔をして王宮にいるような立場ではない。彼の父母は日中留守が多く、そのため彼が同居の老人に面倒を見てもらっていたこと、そしてその老人が王宮のものには(女王を含めて)敬愛される人間であったため、その老人のおまけとしてそこを訪れることが多かったというだけだ。
そうした中で、フィーは歳がひとつしか離れていないレヴィオやルーシェと出会い、親しくなった。もともとフィーの父親が女王配下の軍人であったことだの、その妻もまた特異な立場にあったことだのといった事情から、両親相互が知己だったせいもあり、女王夫妻も子どもたちの親交を温かく見守っていたのだが、おかげでレヴィオはフィーからずいぶんやんちゃを移されてしまったようだった。
幼い頃にはよくあることで、歳が同じレヴィオとルーシェでは、ルーシェのほうがかなりませていた。だからルーシェは、双子の兄であるレヴィオがそうしてフィーに毒されていくのを、いつも呆れ半分で見ている側だった。
彼らが王宮の窓ガラスを割ったことなど数知れない。どこかから拾ってきた石で壁にぐるりと落書きをして、あと少しで一周という所で阻止されたこともある。士官養成所の実技訓練にまぎれ込もうとしてつまみ出されたこともあった。一番小さい候補生でさえ十二歳なのだから、その半分にも満たないふたりが気づかれずに入り込むことなどできるはずがないのに、それでもフィー(と彼に連れられたレヴィオ)が侵入を強行したのは、その場を実技指南役として取り仕切っているのがフィーの父親だったからだ。フィーはレヴィオと共に父親に勝負を挑みに行ったのだった。
ふたりがつまみ出される瞬間をルーシェは目撃している。いくらまだ子どもとは言え第一順位の王位継承者であるレヴィオと、それから我が子のフィーと。左右にそれぞれの首根っこをつかみ軽々と放り出したフィーの父親に、ルーシェはある種の感嘆すら覚えた。フィーの父親がこの国の史上最年少でナイトの叙位を受けたことは、ルーシェはあとで自分の父親に教えてもらった。
「ナイト」という立場がどういうものなのか、ルーシェにははっきりはわからない。父に問い重ねても、武官である彼自身でさえうまい言葉を見つけきれず、ただ有事におのおの勝手に国を守るのだとかといった適当な説明しかされなかった。その上ルーシェが実際フィーの父親と話してみたときには、そう威厳らしい威厳を感じることもなく、むしろ自分の父親よりも一般には親しみやすいのではないかと思うくらいの愛想の良さだったので、ルーシェにはその肩書きが背負う重さは窺い知ることはできない。
それでも、フィーが子どもながらに時折見せるまなざしは、おそらくその、ナイトである父親譲りなのだろうとルーシェもまた子どもながらに思った。普段あれだけ天衣無縫な振る舞いをしていても、時間を決めた約束には遅れてきたことのない、必ず最後には理解を示して(あるいは単に、あまりの強硬さに面倒になって「折れた」だけかもしれないが)くれるフィーを、彼女は別に、嫌いではなかった。
年を追うごとにフィーは王宮に顔を見せなくなっていった。
彼の面倒を見ていた老人が大往生を遂げたことも大きかったとは言え、仮にそうでなくても、大きくなれば分別も遠慮も出てくる。それはルーシェの側も同じで、十二を過ぎた頃には彼女はフィーをもはやその名前では呼ばなくなっていた。
フォルセティというのが彼の本名である。彼女がそれまで呼んでいた愛称は、シャルテッサあるいはウルヴェリオという正式名を普段使わないルーシェやレヴィオのような「一般に使われる名前」ではなく、子どもに限り、しかもよほど親しくなければ使わないものだった。
レヴィオは十七になった今も彼のところを訪れているようで、彼をフィーと呼んで
何より今はレヴィオとも、常に一緒に行動しているわけでもない。だからルーシェが彼の扱いを、レヴィオがそうするのと同じにする理由もなかった。今この時分まで、彼女はもう五年近く、フォルセティには会っていないのだ。
ひとつにまとめた長い髪をいじりながら、彼は今どんなふうだろうと考える。彼の父親は今も王宮に出ているので、すれ違えば挨拶するし、世間話だってする。ごくまれにではあるが母親も見ることがあるから、そのふたりからなんとなくのイメージを作ってみるのだが、どうもしっくりこない気がしてルーシェは頭を振った。
レヴィオからは、前ほどやんちゃはしていないとか、彼の母親の血統が世襲している宗教上の地位を継承するため得意でもない勉強を必死でやっているとか、それでも未だに父親に対決を挑み続けているとか、卵を立てるのがへたくそだ(どうやらその頃彼の家では「テーブルに生卵を立てる」という競争が流行っていたようだった)とか、案外すんなり想像できてしまうような、でも笑ってしまうような、そんな話ばかり聞いた。あのフォルセティがまさか、という意味でもあり、やはり相変わらずのフォルセティだ、という意味でもある。
ルーシェとレヴィオはつい先頃新たな名も与えられていた。ルーシェは「
暇になったらフォルセティのことを考えることもあるが、ルーシェはそれが恋だとなど思ったことは一度もなかった。彼女が知っている、王宮の外の人間がそもそも彼しかいないから、そして彼のことを考えるのは面白いから。そう。仕方のないことなのだ。少なくとも、彼女自身はそう思っていた。
そうしたある日のこと、ルーシェは風の民が再びユーレを訪れたと聞いた。国境警備から戻ってきた軍人が彼らの痕跡を見たと言う。それが本当なら彼らの来訪はほぼ十年ぶりだ。
ルーシェはあの老占い師に会いたいと思った。自分の名前を「金の原」と言った彼女のことをルーシェは未だ母に伝えていなかった。レヴィオは結局言いつけを守らず、手に入れた耳飾りをそっともとの場所に戻しておいただけだったし、母も何も気づいた様子がなかったため、結局ルーシェは母に真実を話す機会を失った。
あの占い師が何を知っているのかはわからない。しかし自分の占いの腕には自信のありそうだった彼女のところに、ルーシェは今のフォルセティを連れていってみたいと思った。「顔を見れば探しているものがわかる」と言ったあの占い師は、珍しい赤紫の瞳を持つフォルセティを見たらなんと言うのだろう。
それでその三日後ルーシェはその約束を取りつけに、生まれて初めてひとりだけで、周囲が暗くなり始める頃にこっそり王宮を抜け出した。
彼女はフォルセティの家に続く階段の手前で、さてどうしたものかと玄関を見上げた。家人がルーシェを見たら驚くだろうし、仮にフォルセティしかいなかったとしても、彼は今の自分を五年以上前に会ったきりの「ルーシェ」だとわかるだろうか。
ただ不思議なことにルーシェは、自分に彼がわかるだろうか、とは思わなかった。だから彼女は意を決して階段を上がろうと手すりに手をかけ、そのとき不意に聞き慣れた名前を呼ばれて振り返った。
「
「……フォルセティ」
彼がまさかその呼び名を使うとは思わなかったので、ルーシェはしばし言葉を見つけられなかった。
宮の名を与えられてからというもの、王宮の侍女をはじめ周囲の多くが彼女とレヴィオとを宮と呼ぶようになったが、彼女はそれが他人行儀に聞こえてあまり好きではなかった。だからフォルセティがその名を使うのにも、ルーシェはもはや落胆に近い気持ちを覚えた。彼はレヴィオをもそう呼んでいるのだろうか。
しかし彼はそんなルーシェの内心など知りもせず、能天気に「何してんの」と聞きながら歩み寄ってきた。間近に見た彼はルーシェの目線と喉仏が並ぶくらいの身長で、目を引くほど体格が良いわけではないものの、それでもレヴィオよりは大きく見えた。レヴィオとて決して特別小柄なほうでもないのに。
彼の愛想の良い笑顔には、かつてのやんちゃ坊主の面影はほとんどなかった。それは今や余裕めいたものさえ感じさせる表情になっている。声もいくらか低くなった。改めて見ると父親に似ている。五年間会わないとこんなにも変わるものか。もちろん変わらないところもちゃんとあるのだろうけれども——ルーシェは目の前にいるのが彼女のよく知る「フィー」ではなくなってしまった気がして、言おうと思っていたことも引っ込んでしまった。
ただ彼女だってその場を立ち去りたかったわけではない。彼をあの占い師のところに連れていってみたい気持ちは変わらなかった。だから彼女は少し考えて、彼女の立場を知るものであれば誰がどう見ても嘘にしか聞こえない言葉を、敢えて選んで口にした。
「……ちょっと通りかかっただけなの」
そしてルーシェは、興味なさげに装った視線をちらりと彼に向けた。彼が興味を示してくれることを期待して。
しかし、ふうんと呟いたフォルセティはその言葉を素直に信じてしまったのか、「じゃあな」と短く別れの言葉を残し、そのまま階段を上っていってしまったのだった。
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