なにも宿らない

久佐馬野景

 いいでしょう、減るもんじゃなし。

 それに対する私の返答は決まっている。

「増えるからね。ありがとう」

 空間を惜しみなく消費しているロビー。そこにインテリアのように置かれたグランドピアノと椅子を見て、若干私の背丈に合っていないことに気づくも、なんら注文を告げることもなく腰を下ろす。鍵盤蓋を上げて、まずひとつ和音を鳴らす。口の中で皮肉からくる笑みを噛み潰した。

 日頃弾いていないのがわかるのに、調律はなされている。金持ちめ――。

 私は特に構えもルーティンも用いず、流れるように鍵盤に指を滑らせていく。J‐POPや洋楽を弾いたほうが受けがいいことは知っているが、暗譜しているのはクラシックだけだった。

 リストの『メフィスト・ワルツ「村の居酒屋での踊り」』――他意はない。心地よいBGMを期待していたその場の者たちは拍子抜けしたようだったが、かといって気に留めることもなく缶チューハイを片手にけたたましく笑い合う。

 私はただ、ピアノとだけ向き合う。身体が覚えた通りに動くことを確認しながら、そこからさらになにかを見出だせないかともがく。

 もう随分ピアノを弾いていなかった。弾いても無駄だとも知っていた。それでもその機会を前にすれば、貪るように己の持てる全てを吐き出すしかなかった。

 笑い声が邪魔だが、それが私にふさわしい評価だとも知っていた。そうだ、知っている。私のピアノで人の心は動かない。

 いや、彼ら彼女らはたとえどれほどの神域の技量を前にしても、こうして談笑し続けるだろうということはわかっている。ピアノひとつは小さすぎるし、難しすぎる。強引にでも聞き惚れるという状態を起こさせるなら、プロのピアノソロよりも中学の部活動のブラスバンドのほうが有利なのは当然の道理だった。

 それでも私は知っている。人の心を動かせる才能は存在する。

 ピアノを始めたのは家にピアノがあったからだった。母親が音大出身で、父親の家に嫁入りした際に父方の祖父母が気を利かせたつもりで購入したものだ。母親の専攻はバイオリンだったが、とても喜んだと父親は自慢げにいつも語っていた。

 単なる身勝手な勘違いというわけでもなかった。母親も音楽への入り口はピアノだったので、私が興味を示すと基礎を教えてくれた。その時はきっと、喜んでいたのだと思う。

 きちんと勉強させたほうがいいと母親が口にすると、家族全員が賛成した。私は毎日幼稚園から帰ると電車で一時間以上かかる高名なピアノ教室に通い、ひたすらピアノを弾き続けた。

 初めてコンクールに出て、いい結果を出した。それが嬉しかったのかは覚えていないが、そのままピアノを続けた。小学校や中学校では授業に集中している時間よりピアノのこと考え、頭の中で、そして実際にピアノ教室で弾いている時間のほうが長かった。

 期待はされていた。努力もした。だがもっと早く気づくべきだったと、中学の時にやっとたどり着いた全国大会ではっきりと思い知った。

 たとえばあることにおいて天賦の才を持っている人間がいるとする。だが、その才は実際に発揮する場を設けられなければ、永遠に日の目を見ることはない。そして多く――スポーツや音楽においては、その才は早期に見出されなければ腐り落ちていく。いかに天賦の才を持とうが、ピアノしかやってこなかった者が高校から野球を始めて頂点を取れるはずもない。

 だから私は恵まれていると思っていた。だが、違ったのだ。まるで反対だった。

 私が持っていたのは、単なる時間的なアドバンテージだけでしかなかった。ただ人より早くピアノに触れ、基礎を学び、技術を身につける――それだけ。

 そのコンクールでの最優秀者の演奏を聴いた時に、私は全てを理解した。人の心を動かすことができる人間と、私の決定的な違いを。

 生家が破産したと聞いたのはその一週間後。未だ抜ける気配のない感動だか絶望だかわからないものに陶酔したままベッドに転がっていたら、この家にはもういられないことを告げられた。

 ピアノも持っていけないのだと謝られて、そこまで無知ではなかった私は背筋が冷えた。

 私がピアノを続けていた時の資金はどこから出ていたのか。ピアノ教室のレッスン料はクラスメートたちが通っている習い事などとは比べ物にならないとも知っていたし、幼い頃からコンクールがあれば遠方に向かうのも厭わなかった。その時に私を着飾るのにふさわしいものをと熟慮されたドレスのレンタル料も馬鹿にできない――。

 わけがわからなくなった私は、怒り狂って嗚咽をまき散らした。

 なぜ――なぜ――なぜ――。

 もっと早く気づけなかったのだろう。

 もっと早く見切りをつけなかったのだろう。

 こんな程度の私に期待をかけたりしてくれたのだろう。

 ピアノは弾けなくなった。それが可能な環境ではなくなったからだ。

 高校に通わせてはもらえた。授業料の減免と奨学金を足がかりに大学にも通えるとわかって、受験勉強に打ち込んで入試を終えた頃、高校の校舎に人はまばらなことが多かった。

 音楽室にも、当然人気はなかった。

 ピアノを目にすることすら久しぶりだということに少し驚く。選択科目は音楽ではなく書道をとっていた。

 椅子に腰かけ、鍵盤蓋を開ける。怖いとは思わなかった。ただ単に、機会がなかっただけだったのだと気づいた。

 一曲、一曲、暗譜しているものを確認するまでもなく弾いていくと、私がなにも変わっていないことが理解できた。当然指が慣れていないせいで以前は考えられないミスは何度も起こすし、いくつかの曲に関してはほとんどの譜面を忘れてしまっていた。

 それでも私のピアノは私のピアノのままだった。誰の心も動かさず、なんら才能を感じさせない。それが自分で理解できるようになっているのは果たして大きな進歩なのか。

 私はピアノが嫌いになったわけではなかった。むしろ弾いていると焦燥感と絶望感に由来する、自虐と内省を伴う高揚感に勢いよく衝き上げられ、溟海へと溺れていくような破滅的快楽に浸ることができた。そしてそこからしゃにむにあがき続け、すぐにまた大きく息を吸い込むことだけを目指せばいいともわかった。理解したのではない。それしかないのだ。

 卒業までの期間、教師に頼んでピアノを使わせてもらえる時間を少ないながらも確保した。私が全国大会にまで進んだという風聞は常について回っていたし、私の家の「不幸な顛末」は私でも把握できていないほど広まっていた。それが利用できるのなら、喜んで利用したまでだった。

 ピアノを弾いた。指導者はいない。大学も授業料の安い国立の一番偏差値が低いところを受けて、無事合格した。これから私にピアノを教えてくれる者は現れないだろう。母親はとうの昔に追い越していた。

 ピアノが弾ける場所は思った以上に少ないし、それを金で可能にする余裕は当然私にはなかった。

 大学にはピアノサークルがあったが、狭い部室に窮屈そうにグランドピアノが一台だけ置かれ、譲り合って使うというルールが敷かれていた。それよりも強いルールとして、女性はサークルでの飲み会には絶対に参加しなければならないというものがあった。人並みには社交性があると自負している私も、体験参加の時点で何度か身の危険を覚えたことでこれには辟易し、近づくことをやめた。

 ピアノが弾ける場所は、田舎と呼んで差し支えない地方大学近辺には見当たりそうにもなかった。

 もう一度ピアノサークルに顔を出してみようかとまで思いつめていた私を踏みとどまらせたのは、学内を闊歩する集団による罵倒だった。ピアノサークルだけはやめておいたほうがいいと、侮蔑を含んだ笑声が響く。

 当然それは私の思考を読んだものであるはずはなく、耳をそばだてていると、会話の内容がつかめてきた。

 大学から車で数十分のところにある別荘。そのロビーにはグランドピアノが置かれており、一度誰かが弾いているところ見てみたい。そしてその役に、ピアノサークルのメンバーは不適格である。

 まだ完全に人間関係は完成されていない。その間隙を縫って、私はその集団に取り入った。

 最初からピアノが弾けるから、とは口には出さない。そんな目的で近づいてくるような人間を相手にしないことくらいわかる。だが仲良くなることも、リーダーシップをとることも目指さない。同じグループに属している存在だと認識されさえすればいい。

 別荘の話題が出た時に、私はふと思いついたように自分がピアノを弾けるということを伝えた。時期的に見てもまさかそれが目的で近づいたとは誰も疑わなかった。

「きれい」

 曲が後半に差しかかった時、私の背後に立った誰かがそう呟いた。

 ぐいと顔を突っ込み、食い入るように鍵盤の上を懸命に流れる私の指の動きを凝視する。そのせいで彼女の顔は私の顔のすぐ隣にくっついていた。

 邪魔だとどかすには相手が悪い――彼女はこの別荘の持ち主のご令嬢である。彼女がいなければ私はいまここでピアノを弾けていない。

 彼女を見ているといつも、昔の自分を見ているようで気分が悪かった。裕福な家庭環境にあって、自分はなにかしらを持っていると思い込んでいる。本当はなにも持っていないのだということを理解する必要もない。ただ諾々と生きていればそのまま幸せに死んでいける。

 苛立ちを込めた目で横を窺う。

 彼女は私の演奏を聴いていない。すぐにわかった。彼女はただ、私の指の動きに見惚れているだけだ。

 これが応報かと私は思わず打鍵に込めるべき以上の強さを加える。私の奏でる音は、指先の動き以下の価値しかない。

「これ、なんていう曲?」

 彼女は囁くように訊ねる。

「――村の居酒屋での踊り」

 無愛想ゆえんの低い声で答えると、彼女は笑いを押し殺した。

「いいね。さもありなん」

 少し驚いたせいで、私は自然と彼女とふたりだけの空間へと隔絶されていた。私の吐き出す音が障壁となり、互いに耳元で話す声はほかの者たちに届かない。

「親が大学とパイプのある企業の重役でもやってたら連中もこんなに増長しないんだろうけど、しがらみのない小金持ちっていうのは便利でさ。対等だよねって顔しながら酒代も食費もこっち持ちで当然って顔してくるから」

 酒も食べ物も別荘には用意がないと、彼女は最初に申し訳なさそうに謝っていた。

「最初から断れば?」

「私の立場が危うい。いいように使われることで社会性を保てるのが私だから。本当はなーんにもないのを、周りに蝿をたからせることでなにかあるように見せてるだけ。そうしないと不安で仕方がないけど、こうして口に出す程度には馬鹿にしてる」

 私は指を止めない。ここに来た目的は存分にピアノを弾くため。

「そんなこと話していいの?」

「だって、あなたはもっと馬鹿でしょ。ただピアノを弾きたいがために私に近づいてくるんだから」

 他人と口を利きながらあのリストの中でも上位に入る難曲を弾くなど、自分でもふざけていると思う。ただ、なぜか私の指はいつもよりよく回った。

「きれい」

 彼女が嘆息する。

 彼女はいつかの私ではなかった。私よりよっぽど真剣にものを見ることができ、私よりはるかに馬鹿げた愚かな女だった。

 私がピアノを弾き続けるのを、彼女はじっと見続けていた。曲が変わったことにすら気づいていない。彼女はただ、鍵盤の上であがき続ける私の死の舞踏だけを注視している。

 私に人の心を動かす才能はない。だけど、彼女の取り憑かれたような目の輝きはなんだろう。私がからっぽの心血を注いで磨いた音色など無視して、その前工程にのみ注がれる視線。

「あなたの手。とてもきれいに動く」

 怪訝な視線を投げると、彼女は私の目を覗き込んできた。

「こっちじゃないだろ」

 私はすぐに視線を外して鍵盤に向き直る。彼女もまた、私の手の動きに陶酔していく。

 人の心を動かすことはできない。これからもそうだろう。私はなんの意味もなさない音律を並べ続ける。

 だが私が望まない形で、望まない価値観で、私のピアノに心を動かされる人はいた。

 万人の喝采は永遠に降りかからない。ただひとり、私の横から無遠慮に鍵盤を見つめる知識もない彼女だけが、私の演奏に、聴かずに見惚れる。

 耐え難い恥辱であった。

 度し難い歓喜であった。

 私は彼女に無価値だと言い渡されたと受け取り、それを正当な評価だと受け取る。

 だけどそれは、彼女にとってはとても素晴らしいという無垢な賞賛の言葉だった。

 酷い女だ。なぜ私はまだピアノを弾いている。ここまで残酷な評価をくだされてなお、指がこうも楽しげに跳ね回るのはなぜだ。

 無茶苦茶にピアノの乗り回したのはいつ以来だろう。なにも考えず、覚えている曲を片っ端から、忘れてしまった曲は途中で自分で勝手に作曲しながら、気のすむまで鍵盤を疾駆する。

 気付いた時にはロビーに人の姿はなくなっていた。日はとっぷりと暮れている。防音性の高さがセールスポイントになっている個室に戻って眠ったのだろう。

 わかっている。

 どれだけ激情をぶつけようと、全てを振り切ろうと、私の音楽では人の心は動かない。

 ただひとり残った彼女も、それは変わらない。

「とても楽しそうだった」

 音から感じ取ったものではない。私の指の動きを見ての、単純な感想だ。

「ねえ、またピアノを弾きにきて」

「もう呼ばれないだろ」

 これだけお構いなしで好き勝手にピアノだけを弾き続けたのだ。居ても耳障りなだけの存在に用はない。

「あなたひとりだけで、私だけにピアノを見せてほしい」

 最悪だ。私を無自覚にこき下ろす相手のためだけに、私が無価値であると証明し続ける。

 でも――彼女と目を合わせた私は、その目に宿る熱に浮かされる。それはきっと、酷く愉快な自傷行為に相違ない。

「いいよ。いくらでも弾いてやる」

 それは私がピアノを弾く時間と場所を欲したゆえではなかった。私はまだもがき続けている。なにかを見出さなければ息ができないのは変わらない。だが私はどうしようもなく破滅の加速を求めて、刹那の快楽を欲する。

 彼女は溺れ続ける私を見ながら、さらに首を絞めてくれる。

 その、私のものとはまるで違う美しい手で――彼女は長時間ぶっ続けでの演奏のために痙攣を始めている私の指を一本ずつ、自分の指と重ねていく。抵抗する力が残っていないのか、なすがままにされるのが心地よかったのか、自分でもわからない。

「指切りね」

 彼女なら、本当にこうして重ねている私の指を全て切り落としかねない――なぜかそんな予感がして、指がざわめいた。

 私の怖気をそのまま味わった彼女は、本当に楽しそうに笑った。悪だくみがばれたメフィストのような、底抜けの邪悪な笑顔だった。

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なにも宿らない 久佐馬野景 @nokagekusaba

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