16. 草食、身の上を思い知らされる
□ ■ □
文化祭は二日目を迎える。
日曜日ともあって、文化祭は昨日以上に賑わいをみせていた。なにより、今日は御堂先輩が所属する演劇部の舞台がある。それを目的に来ている人も多いようで、行き交う度に演劇部の話題が耳に入って来た。
どうやらこの学院の演劇部は、地元でも知名度が高いようだ。
しかも今回は特別に、付属校の男子校と合同でやる舞台だって前に先輩が言っていた。そりゃ観客も増えるだろう。席は早めに確保しておかないと。
それに、俺も楽しみにしている。
なにせ、男装ボクっ子ちゃんは王女役だ。晴れ姿ならぬ晴れドレスをお目にかかることができる。滅多なことじゃ女性らしい格好をしない、あの御堂先輩のドレス姿を見ることができるのだから、そりゃあもう下心ありあり……ゲフン。可愛らしい姿を目に焼き付けないと。
お姫様な御堂先輩。楽しみだな。
「空さま、空さま! パンフレットをもらってきましたよ!」
実は俺以上に楽しみにしているのは、さと子ちゃんだったりする。
なにせ、彼女は親の反対を押し切って上京し、御堂家に住み込みで働きながら劇団に入った子。人三倍演劇には目がなく、朝からテンションが最高潮だった。
だからなのか、今日の桧森さと子は一味も、二味も違う。
いつものドジっ子キャラはどこへやら。
俊敏機敏に動き回り、俺の身の周りの世話をしてくれる。やれパンフレットをもらうために西へ走り、やれ喉が渇くだろうとお茶を買いに東へ走り、道に迷ったらマップを取り出す。それはそれは、驚くほど有能な召使に変貌していた。
博紀さんもびっくり仰天の出来っぷりである。え、いつものさと子ちゃんはどこ? な気分だ。
「凄いっすね。今日のさと子ちゃん」
「……いつも、ああだったら僕も苦労はしないんですけどね」
「まあまあ。ドジな愛嬌がさと子ちゃんの売りですって。あ、さと子ちゃん、コケそうに」
何もないところで躓くさと子ちゃんが、可憐に飛躍して着地していた。お見事である。
ただし表情はへにゃへにゃのふにゃふにゃ。
待ちきれないと言わんばかりに、そわそわとしているので、見守っている野郎どもはトンデモなことをやらかさないだろうか、とハラハラしている。
「さと子ちゃん。開演は何時か分かる?」
「一時半です」
さすが。開演時間は、ばっちり頭にインプットされている。
一時半か。三時間くらいあるな。ちょっと来るのが早すぎたか。のらりくらりと昼食を取っても、十分すぎるほど時間が余る。
今日は御堂先輩と回る約束はしていないし、どうやって時間を潰そう。取りあえず、どこかでご飯を食べながら、座ってパンフレットを見たいな。
「博紀さん、さと子ちゃん。今日のお昼はどうします?」
「空さまのお望みのままに。私、買って来ますよ!」
「食べたいものをお申し付け下さいませ。僕達のことはお気になさらず」
……これだもんな。友人役として傍にいるなら、なんか意見を下さいよ。俺は基本的に人について行くタイプなんですけど。
道から外れ、行き交う人ごみを眺めながら、食べたいものを考える。昨日はホットドッグだったしな。今日はがっつりカレーでも食べようかな。
「あ、カレーがいいかもですね。空さま、少々お待ちください」
本当に今日のさと子ちゃんは優秀である。俺が言う前に、人ごみに飛び込んでしまった。博紀さんと目を合わせて、苦笑いを零す。
「彼女が帰って来るまで待ちましょう」
「そうっすね。こけて零さないといいんですけど……博紀さん。ちょっといいっすか? 五財盟主について聞きたいことがあって」
「僕で良ければお答えましょう。あまり詳しくありませんが」
謙遜する博紀さんだけど、俺の見解、彼の財閥の知識は豊富だと思っている。
昨日、柚木園さんと顔を合わせた時に固唾を呑んでいた。
それは相手が五財盟主であり、柚木園財閥の娘だと知っているからの反応だ。御堂財閥に身を置く月日も長い。きっと、俺の質問にも答えてくれることだろう。
ちょっと王子には聞きにくいことだしな。
「五財盟主は五つの財閥の当主で成り立つ、幹部組織だと聞きました。ガバナンスの運用が上手いだのなんだの、そこらへんで五財盟主に選ばれるようですけど、お互いに財閥の身分。その財閥同士で潰し合いにならないんです?」
財閥を統治する、それは他の財閥たちの支持を得なければ成り立たないだろう。
あくまで俺のイメージでしかないけど、財閥は資産があってなんぼ。各々資産を大きくし、更なる地位を確立しようとするだろう。
そうなれば必然的に衝突も起きるはずだ。五財盟主の地位を狙う財閥だっているだろう。五財盟主同士、他の財閥が邪魔な存在だと思う時だってあるだろう。
なんで財閥界は五財盟主という幹部を成り立たせたのだろう。財閥となれば、てっぺんに立ちたい。他者の指図を受けたくないと思いそうなんだけど。
「もちろん、潰し合いはあります。たとえば、御堂財閥は柚木園財閥と友好がある一方、水前寺財閥とは不仲にございます。当主同士の馬が合わないのが原因です」
隙あらば潰す勢いの睨み合いが続いていると博紀さん。
そのため、御堂家の間では水前寺家の話題はタブーとされている。
それでも潰し合いが起きないのは、他の財盟主が虎視眈々と不仲の隙をつき、その地位から蹴り落とそうとしているから。それだけではない。五財盟主の地位を狙う財閥は多い。潰し合いは自滅を招く。
だから潰し合いは起きないのだと彼は言った。
「その昔は、五財盟主などございませんでした。そのため各所で潰し合いが起き、資産の奪い合いがあったそうです。それを我々の業界は“共食い”と呼んでいます」
共食い、まさしくそうだ。
財閥が財閥を潰し、その資産を奪うんだからな。
「共食いは利益を得る一方、大きな損害も出る。いえ、損害の方が大きかった。そこで五財盟主を置き、財閥界をある程度、統治することで秩序を保った。その組織の基盤を作り上げたのが、今の五財盟主の当主です」
「はあ、本当に最近できたんですね。五財盟主」
「ええ。五十年ほど前に成り立った組織だそうです」
「源二さんはいずれ当主に?」
「いえ……どうでしょうか。旦那様は大旦那様と違い、温厚である一方、優しすぎる一面が目立ちます。ああいう世界には、冷酷さも必要ですから。ですから、お孫様に期待していたのですが」
その孫は女だった、か。
男尊女卑の思想が濃い淳蔵さんにとって、御堂先輩の誕生は期待外れだった。悲しい話だ。性別なんて本人が決められるものでもないのに。
でもおかしいよな。柚木園さんは、いずれ当主になると候補に入れられているのに。彼女だって女の子だぜ? それについて淳蔵さんは何も思わないのかな? 一応友好財閥なんだし、相手は男の方がいいんじゃ。柚木園には男尊女卑の考えがないのかな?
「いえ、そんなことはございません。無論、柚木園財閥も、当初は後継者問題で荒れておりました。が、それを覆す出来事がありました」
「覆す出来事?」
「柚木園薫さまが当主を殺そうとしたのです、というのは誇大な表現ですが……まあ、実質それに近いことをしようとしました」
……はい?
目を点にする俺に、「あれは大事件だったそうですよ」博紀さんは眉を寄せた。
「彼女が初めて当主にお会いしたのは、六つの時。五財盟主の会合後のことです。双方が顔を合わせると、挨拶もなしに柚木園薫さまは持っていたハサミで当主を刺そうとしました」
なんで当主を刺そうとしたか。
理由は簡単だ。当主が自分を愛さないから、ただそれだけ。
当たり前のように、柚木園さんは当主のおじいさんに微笑み、「薫を嫌いならイラナイ」と言ってハサミを突き立てようとした。嫌いならイラナイし、必要ともしない。それが柚木園さんの出した結論らしい。
恐ろしいまでの異常性は、すでに幼い頃からあったという。
「それを目にした当主は柚木園薫さまの秘めた可能性に喜び、手のひらを返して、彼女を受け入れたそうです。この子は女でありながら、息子以上の可能性がある! この歳で不要なものを切り捨てようとした、賢い頭がある! そう言って」
「……さ、刺されそうになったのに喜ぶんですね。そこ」
まあ、柚木園財閥の当主はヒトの不幸が好きらしいから、引くような行為でも受け入れるんだろうけど。
「柚木園財閥は、一風変わったやり方でのし上がったそうなので、その異常性が強ければ強いほど良いものだと思われるそうですよ。玲お嬢様にも異常性があれば、もしかすると大旦那様に受け入れられたかもしれません。想像もつきませんが」
「み、御堂先輩がまともで良かった。本当に良かったっす」
男装趣味? ボクっ子? 攻め女? なんじゃらほい。
柚木園さんに比べると、可愛いものじゃないか。王子が彼女のようなタイプだったら、俺は泣く。心底泣いている。
「まあ、空さまはお嬢様を愛することだけお考え下さいませ。僭越ながら、意見させて頂きますが……貴方様では五財盟主の当主にはなれないと思いますので」
「なろうとも思いませんよ。そんな物騒な幹部に身を置いたら、おちおち夜も眠れません」
「もし、お嬢様がその椅子を狙うと仰られたら如何します?」
「そうっすね。その時は、取りあえず俺が椅子を狙うと騒ぎますかね」
「へえ。逃げ腰がお得意の空さまがですか?」
「それ得意って言いませんよ……ま、本当に狙うわけじゃありませんけどね。ただ馬鹿みたいに椅子が欲しいと騒いで、財閥の注目を集めると思います」
「その意図は? 空さまなら、水面下でお嬢様のサポートをすると思いましたが」
「俺が財閥出ならまだしも、庶民出の男が財閥のトップの椅子を狙うと騒ぐんですよ。そりゃ色んな意味で注目を集めるでしょう。すると、どうなると思います? 御堂先輩は動きやすくなる。ね、下手に水面下でサポートするよりも役立つと思いません?」
目を丸くする博紀さんに、「俺は財閥のことをよく知りませんしね」だったら、持ち前の武器を駆使して王子の支えになるしかない。
そう思うと“庶民出”はある意味使えそうだ。王子に言えば、絶対に怒られそうだけど。
「空さまのお考えこそ、夜も眠れなくなりそうですね。自分の身が危ぶまれそうですよ。お嬢様が仰っていましたよ。貴方様は目を放すと何をしでかすか分からない、と」
「ははっ。後ろから刺されそうですよね。俺もそんな物騒なことに足を突っ込むのは御免ですよ。それでも椅子を狙うなら、それなりの代償はいるかと……利用できるものは利用しないと。違いません?」
同意を求めると、彼は目を細め、こう返す。
「利用できるものは利用――もし本当にそのような考えを持つことができたなら、僕は貴方に仕えましょう」
「え?」間の抜けた声を上げ、博紀さんに視線を流す。優しい笑みを零すばかりの彼は、それ以上何も言わず、正面を向いてしまう。
今のはどういう意味だったんだ。
「……さと子、遅いですね。迷子になったのでしょうか?」
「え、ああ。混んでいるんじゃないっすか? 今日は日曜日ですから。やっぱりついて行くべきだったかな」
と、立ち並ぶ模擬店の向こうから大きな笑い声が聞こえた。
見ると、そこにはいかにもアタマの悪そうなヤンキーの兄ちゃん達が店を回っていた。道端で急に立ち止まってステップを踏んだり、行き交う女の子達を値踏みしたり、声を掛けたりしている。
うへえ、絶対に関わりたくないタイプの人間だ。あれ。
嫌だよな。せっかくの文化祭なのに。
「あぁあああ、念願の乙女花園や。ここなら、ナンパも成功するはずやで」
耳をすませば、下心ありの客も聞こえてくる。それこそ、ハイテンションだから、その下心が周りにバレバレだ。ああいうタイプにも関わりたくないよな。
「なにしてんねん。はよ、女の子に声掛けに行こうや。花畑」
「勘弁しろよ所沢。俺はナンパ目的で来たわけじゃねえんだぞ」
聞き覚えのある名前と声。
ぎこちなく首を動かすと、学ラン姿の男子生徒が二人。下心ありあり発言をしている生徒の隣で、げんなりとしているあの少年を、俺は知っている。
元隣人さんの本名は花畑、あだ名はイチゴくんだ。
あははは、せっかくだし挨拶をしたいところだけど、今回は連れもいるからやめておこう。お互いのためにここは見なかったことに「アーッ!」
「そこにいるのは空だろ! 空、そーら!」
そうか、スルーはできないか。
できることなら、見つかりたくなかった。君のお連れのせいで、周りの人間が寒々としているところを見ると、ああ、本当に見つかりたくなかった。同類だと思われかねないじゃないか!
薄情なことを思っている俺の気持ちなんぞ露ひとつ知らないイチゴくんは、大きく手を振って駆け寄ってくる。
「奇遇だな、お前も来ていたんだ」
「え、ああ。うん……イチゴくんも来ていたんだ。えーっとナンパ中? 早く行きなよ。友達が待っているみたいだよ」
ばいばい。
さっさと手を振ると、相手の眉がつり上がった。
「なんだよ、空。久しぶりなのに、その関わりたくないですみたいな顔は!」
「まさかまさか。俺はイチゴくんのお友達を思っているだけだよ」
聡いイチゴくんの目は誤魔化されない。
俺の首に腕を回すや、「このヘタレめ」そのまま締め上げてきた。早々にギブアップをするも、相手の気はおさまらない。「お前も道連れだ」恐ろしいことを言って、引きずって行こうとする。
おばかおばかおばか! ナンパなんてできるわけねーでしょうが。この学院には御堂先輩がいるんだぞ。ばれたら、レベル未知数のお仕置きをされちまう!
「い、イチゴくん! 俺にも連れがいるんだって」
その一言により、イチゴくんが解放してくれる。
視界の端では博紀さんが、クスクスと笑っていた。助けてくれてもいいじゃないか。
「ったく、お前は正直過ぎるぞ。俺だって所沢に嵌められた被害者なのに」
「花畑。なにしとるんや。はよ行こう……なんや、知り合いか? ゲッ、美形男がおる。あかんぞ、花畑、あいつはあかんぞ。一緒にいたら、全部女の子を持っていかれるわ!」
初対面の相手にも遠慮することなく、顔を顰める彼の名前は所沢 緑(ところざわ みどり)くん。イチゴくんと同じ学校に通う、同級生なんだって。
話を聞くところによると、所沢くんはイチゴくんを、ナンパ仲間として文化祭に誘ったようだ。文化祭を見て回るのだと信じ切っていたイチゴくんは、所沢くんに半ば騙された形で此処に連れて来られたらしい。
大変だなぁ。見るからに、キャラも濃いようだし。ま、俺の周りにいる令嬢令息よりかは断然マシだと思うけどね!
「空、この人がお前の連れか? 御堂は?」
博紀さんをまじまじと観察した後、イチゴくんは周囲を見渡す。
「今日は別行動だよ。彼女は此処の学生さんで、午後から舞台に立つんだ。俺はそれを観に来ているってわけ」
「なるほどな。御堂がお前と別行動するってのも、なんか新鮮だな。いつも一緒にいるイメージだから。そうだ、所沢。こいつが俺の話していた友達で、例の男だ」
イチゴくんが意味深なことを言う。
気だるい返事をする所沢くんは、「あれか?」ポリポリ頬を掻いた。
「確か財閥の時期婿養子で婚約者がいるっちゅう……それお前の作り話やろ? 皆、信じてなかったやん。今の時代に婚約者がいる高校生なんてドラマしか聞いたことあらへん。そいつ、何処をどー見ても庶民の凡人さんやんけ。花畑、見栄張るだけ自分が苦しゅうなるだけやぞ」
「俺は嘘なんて言ってないぞ!」
イチゴくんが闘争心むき出しで食い下がった。嘘つき呼ばわりされたことが心外らしい。
だけど、まったく信じていない所沢くんは、それよりカワユイ女の子はいないか。はやく口説いて一緒に文化祭を回りたい。その後は、カラオケ合コンをすると、計画を立てていた。
怒りのボルテージがグングン上がっているイチゴくんは、「もし本当ならお前。俺に何でもしてくれるか?」と、ドスのきいた声でクエッション。
「へえ面白い。まだ見栄を張るんかいな? なら、もし嘘ならお前、オレに何でもしてくれるかぁ?」
所沢くんがシニカルに笑った。
ちょ、あんた達、仲の良いクラスメートじゃないっすか? なーんで挑発ムードに。
青い火花を散らす二人に視線を配っていると、所沢くんが俺に視線を流した。
「お前。本当に財閥の婚約者なんか?」
とばっちりのように質問されたから、イエスと答える。嘘は言わないよ嘘は。事情付きの財閥の婚約者だけど。
疑心暗鬼になっている所沢くんは、なら証拠を見せて欲しいと詰め寄ってくる。
「婚約者なら一般常識をはね退けるようなことができる筈や! さあ、やってみぃ!」
「えぇえっ? そんなこと言われても」
何をしろって言うんだい? 俺にこの場でハトでも出せと? マジシャンか!
「ほら無理やないかい! こんな取り柄もクソもなさそうな貧相男が、財閥の婚約者なんて嘘や嘘。話は終わ「空さま。御許可を」へっ、ななななんやっ?!」
それまで温厚な顔をしていた博紀さんが、氷のような冷たい笑みを浮かべて所沢くんの胸倉を掴んだ。ちょぉおおおお?! 何しているんっすか、博紀さん!
急いで手を放すよう言うけど、彼はそれを右から左に聞き流し、笑みを深めた。
「空さまの御友人とはいえ、あなた様への暴言は、御堂財閥への暴言です。御許可が下りるのであれば、すぐさま彼を連行したいのですが」
「どこに連れて行くつもりっすか! ああ、俺は気にしていませんよ。所沢くんの言葉は俺個人のものですから。そ、そんなに真面目に受け止めないで下さいよ」
「ご自身の立場をご理解ください。あなた様に向けられた暴言は、玲お嬢様の御好意を穢しかねない。彼女の耳に入れば、悲しい思いをされることでしょう。そのようなことは僕が許しません。どうぞ、御許可を」
ひぃいいい御堂至上主義怖いぃいい。
どうしたら、そんな考えに至るの?! お願いだから話し合う! 暴力だめ、ゼッタイ!
博紀さんを説得しようと口を開いた時、模擬店の方から下品な笑い声が聞こえた。
それはそれは大きい声で、ついそっちを見てしまう。
ギョッと目を削いでしまった。さと子ちゃんが、さっきのヤンキーさん達に絡まれているじゃありませんか! やっぱりトラブルを起こしちゃったよあの子! いや、この場合は巻き込まれたというべきか、なんというべきか。
原因は俺じゃんか。あの子をひとりで行かせたから、変な連中に絡まれたんだよ。
その思いの丈が爆ぜた瞬間、俺は博紀さんから離れ、彼女の下に走った。
人ごみを掻き分けて進むと、涙目になっているさと子ちゃんが見えてくる。
「さと子ちゃん!」
名前を呼んだ瞬間、彼女と目が合った。同時に、ヤンキーのお兄さん方にも注目を浴びてしまう。
なるほど、お呼びでないってことね。分かるわかる、俺もお呼びじゃないと思っているから。
「なんだ、テメェ。引っ込んでろ」
見るからに、腕っぷしに自信がありそうな男が飲み掛けのペットボトルを投げてきた。突然、顔面に投げられ、俺は避けることも忘れてしまった。もう、どいつもこいつも、暴力で事を解決しようとする!
しかし顔面にそれは当たらず、直前でキャッチされ、持ち主の顔に投げられた。
「三班。空さまを! さと子、今のうちだ。走れ」
言わずも、助けてくれたのは後を追い駆けてきた博紀さん。
彼が指笛を吹くことにより、数人の男女が俺を取り囲んできた。一般人を装っていたガードマン達なんだろう。が、俺は驚きのあまりに腰が引けていた。なにこれ、知らない人間に囲まれて怖いんだけど。
「空さま。三班と私でお車まで誘導します。こちらへ」
俺の下に走ってきたさと子ちゃんが、腕を引いてくる。
あっれー? なんで、助けに来た俺が、さと子ちゃんから助けられている空気になっているんだ? あれ? あれれ? おかしいな?
その間も、博紀さんは怒ったヤンキーさん共にも怯むことなく、向かってくる男の腕を掴むと捻り上げて、その場で倒した。
見かけ優男なのに、博紀さんってこんなにも強かったのか。
こうして、あれよあれよと学院の正門まで誘導された俺は、待ち受けていたリムジンに乗せられてしまう。そこで一報を受けていた蘭子さんに泣きつかれ、さと子ちゃんに怪我がないか確かめられ、後から乗ってきた博紀さんに叱られてしまう。
大袈裟にもほどがあった。確かに、ちょっと考えなしに突っ走ったところはあったけど、なにもここまでしなくたって。
車窓から外の景色を見ると、さっきのヤンキーさん方がボロボロ姿でつまみ出されているし。
「ほら、見たか所沢。空は財閥と関わっていただろう? まだ何かいうことでもあるか?」
「……ない。ないです。オレが悪かった。リムジンにまで乗せられたら信じるしかないやん」
なんでか。
イチゴくんと所沢くんも、車内にいるし……。
「空さま。聞いていますか」
余所見をしていると、前方に座っていた博紀さんに声を掛けられた。
その凄みのある声音に思わず、背筋を伸ばしてしまう。ぎこちなく視線を戻すと、満面の笑みを浮かべた、けれど邪悪なオーラを纏う世話係が腕を組んでいた。
「えーっと」頬を掻いて誤魔化し笑いを浮かべると、「空さま!」一喝されてしまう。
「一体何をお考えになっているのですか! 自分から危険を冒すなど、言語道断。もし、お怪我を負ってしまったら、どうするのですか!」
うへええ、なんだよ。そんなに怒らなくてもいいじゃんか。無事なんだしさ。
それにあの時、さと子ちゃんが複数のヤンキーに囲まれていたんだぞ? 見捨てることなんて、普通に考えてもできるわけないじゃないか。俺のためにカレーを買って来ようとしていたわけだし。
その言い訳も、「僕が行きました」である。
わざわざ、俺の出る幕ではなかったと博紀さんは唸った。蘭子さんも同調し、博紀さんに行かせるべきだったと意見してくる。
「空さまは、玲お嬢様の大切な婚約者さまなのですよ。いずれ、あなた様はお嬢様と世継ぎを作る身の上。ここで何かあれば……蘭子は……蘭子は」
「あぁああ、泣かないで下さいよ」
「あの男嫌いな玲お嬢様が、空さまという殿方に恋い焦がれたのです。その空さまを失えば、次はないことでしょう。きっと、女の子を婚約者にっ。蘭子はお嬢様の子を腕に抱きたいのでございます」
「えぇっと……その可能性は否定できないような……」
元々女の子好きだしな、王子。
オイオイシクシクと泣く蘭子さんを前に、俺は参ってしまう。
心配してくれることは嬉しいけど、その気持ちも度が過ぎると心苦しいものに思えた。ただでさえ婚約事情で自由がない身分なのに、束の間の休息すらガードマンや世話係が傍にいる。誰かに見られながら過ごさないといけない。庶民の俺には、つらいことこの上なかった。
まあ、彼らの心配は豊福空ではなく、あくまで御堂先輩の婚約者、なんだろうけど。
「空さま。ごめんなさい。私がドジを踏んだせいで」
隣でしょんぼりと落ち込むさと子ちゃんくらいだ。俺を友達として心配してくれているのは。
「俺こそごめんね」彼女の肩に手を置き、ひとりで行かせるべきではなかったと謝罪する。それにおおもとの原因はヤンキー達にある。さと子ちゃんの責任じゃない。
「空さま。お時間まで、ここでお過ごし下さい。時間が近くなりましたら、体育館までお送りしますので」
博紀さんの提案に俺は素っ頓狂な声を上げてしまう。
そこで文化祭があっているのに、車で過ごすとか、そんな馬鹿な話がありますかい! せっかくの文化祭なんだから、時間まで模擬店を見て回りたい。それがお祭りの醍醐味ってもんじゃないの?! 昼飯も食べていないのに!
が、蘭子さんもそれがいいと頷いてしまう。なして?! お金持ちの目付けってアタマおかしいの?! 文化祭を車内から眺めて何が楽しいんだい?!
「今度から、ちゃんと博紀さんに事を任せまかすから。ね? 外に出して下さいよ」
「だめです。このままでは、また繰り返されそうです。空さまはあー……お可愛らしい……ので、攫われるかもしれません」
「そこ! 棒読みにするくらいなら、最初から言わないで下さいよ! どうせ俺は可愛くな……じゃない、俺は男なので、どう足掻いても可愛くなれませんから!」
「とにかく、絶対にだめです。昨日、お嬢様と回ったでしょう? お車にいて下さい」
博紀さんは鬼かよ。
先輩の舞台まで、まだまだ時間があるんだぜ? 車内で何をして過ごすんだい。頼めば携帯テレビは見せてくれるだろうけど、目と鼻の先で文化祭があっているのだから、そりゃそっちを取りたい。
とはいえ、博紀さんや蘭子さんを説得する術なんてないしな。はは、詰んだ。
「空。俺達と回ろうぜ」
それまで傍観者になっていたイチゴくんが、「な?」と声を掛けてくる。
「要はお前が馬鹿なことをしなければいいんだろう? 任せろって。俺は、小さい頃から(憶えていないけど)お前のことを知っているんだ。面倒見てやるって」
い、イチゴくん! 内なる声も聞こえたけど、なんて頼もしいんだ。
「しかし」蘭子さんが困ったような顔を作ると、「大体責任は空だけじゃねーじゃん」こいつの行動を見抜けなかった周りにもあるとイチゴくん。自分だったら、先を見越して行動が起こせた! 高らかに宣言し、彼は博紀さんを指さした。
「あんた。空を止められる自信がないから、車に留まらせるんだろ? そうだよな。さっき止められなかったわけだし。ぷぷっ、空がここにいたら、あんたも失態を犯さないもんな」
へらへらと笑うイチゴくんに、博紀さんの冷たい笑顔が輝いた。
ちょ……さすがにそこまで煽れとは言っていない。言っていないよイチゴくん。
「まじか。花畑……オレは勘弁やぞ。こない恐ろしい男を連れて文化祭を回るとか」
「所沢。女の子ナンパが目的なんだろ? だったら、そこに可愛い女の子がいるじゃん。あの子、空の友達みたいだから紹介してもらえるんじゃね?」
「あほか。オレがそう、ホイホイと釣られるかいな」
所沢くんがさと子ちゃんと視線を交わす。
眉をハの字に下げる彼女が、救いを求めるように俺を見上げ、もじもじと指遊び。人見知りが激しいことを思い出し、俺はさと子ちゃんの代わりにお願いをした。
「この子は東京に来て、まだ日が浅いんだ。知り合いも少なくてさ。所沢くんが友達になってくれると、彼女も嬉しいと思うよ。ね、さと子ちゃん」
こくこくと頷く彼女が頬を紅潮させた。俺の制服をきゅっと握り、「お……おともだちに」と頑張って声を張る。
その瞬間、所沢くんの空気がかわる。「これが恋なんか」とか、わけのわからないことを言うと、すかさず俺の手を取ってきた。
「オレ、豊福とは気が合うと思っとったんや。初めて会ったのに、十年くらい付き合いのある友達に思えてしゃーないわ」
「え、ああ、うん。そう? それは……あー……嬉しいな」
「さと子ちゃんゆーたかいな? 豊福がここにいたら、彼女も車に残るんやろ? そらぁあかん、あかんわ。せっかくの文化祭なのに。オレが案内したるで。あそこの学校は、オレの庭さかい」
「だったらこえーよ。あそこは女子校だぜ? 所沢」
「うっさいわ花畑! とにかくな、外に出なあかん。豊福は外に出なあかんのや。そいでオレらと文化祭を楽しんだらええ。そして、あの子と二人きりになる時間を作っ……ごふごふ。後で男同士の話をしようや。豊福」
ぶんぶんと握っている手を上下に動かしてくる所沢くんに、遠目を作ってしまう。あんさん、ホイホイと釣られてますやん。
さと子ちゃんを流し目にすると、不安げな視線を注がれた。
「良かったね、さと子ちゃん。所沢くんやイチゴくんが友達になってくれるって。後で、連絡先を交換しなよ」
すると、彼女がしあわせそうに頬を崩した。
ふにゃふにゃと女の子の笑顔ほど可愛いものはない。見ているだけで目の保養になる。そう、これが本当の可愛い光景だ! 間違っても俺に使う言葉じゃない!
と、さと子ちゃんの笑顔を目の当たりにした所沢くんが、見る見る顔を赤らめ、俺の手を潰さんばかりに握り締めてくる。あだだだだ! なになに?! ちょ、痛いんですけど!
「と、所沢くん!」
「頼む。落ち着くまで手を握っておいてや」
「いやいや握っているのは君だからね! べつに、握っててもいいけど、もう少し力を緩めて」
「こいつ。女の子相手になると、いーっつもこうなんだよな。ナンパするまでは勢いがいいんだけど」
いざ異性を意識すると、上がってしまうタイプらしい。
それで、よくナンパしようと思ったよな。言動に反して、初々しい。若いなぁ、俺にもこういう時代がきっとあったんだと思う。今では相手が相手だけに、トホホな反応ばっかり。ああ、情けない。所沢くんのような純粋さを取り戻したい。
「んじゃ行くか!」話は決まったと手を叩き、イチゴくんがリムジンの扉を開ける。
「あ、こら。君」
博紀さんの注意なんてなんのその。
イチゴくんは、聞こえない振りをして俺は勿論、所沢くんやさと子ちゃんを外に引き摺り出した。その際、彼は俺の一番望んでいる言葉を贈った。
「お前はリムジンより、歩きの方がお似合いだ。俺達と同じ庶民くさーい人間なんだからさ」
きっと、イチゴくんは知らない。
今の言葉に俺がどれだけ救われたのか。そうだよ、俺は金持ちの息子じゃない。義理の息子にはなれるけど、根っからの御曹司にはなれない。花よ蝶よと、過度に大切にされるよりも、皆と気ままに、のびのびと過ごしたい。
分かっている。俺の願いは贅沢だってことくらい。望んじゃいけないってことくらい。
だけど、今だけ、この瞬間だけは財閥の婿養子候補じゃなくて、ただの豊福空として過ごしたい。文化祭の今だけは。
「よーし、まずは昼飯だな。御堂の舞台は何時から? 俺達も観に行くからさ。な、所沢。舞台を観に行こうぜ。空の婚約者が出るんだってさ」
「なんや舞台なんて」
「さと子ちゃん、すごく演劇が好きなんだ。一緒に来てくれると、彼女も喜ぶと思うんだけど。しかも、さと子ちゃん自身も劇団に入っているんだよ」
「あかん。舞台がオレを呼んどるわ。はよ、昼飯食べて場所取りせな!」
「……扱い易いよね。所沢くん」
「愛すべきバカなんだよ。こいつ」
気合を入れる所沢くんに苦笑いしていると、勇気を振り絞ったさと子ちゃんが彼に声を掛けた。
「所沢さん、一緒に観ましょうね」
「お、お、おぉおう。い、一緒に観ような。あは、あははは……あかん、落ち着けオレ。これはいけるで。いや、まだや。焦りは禁物、油断したら痛い目遭うで。慎重や、慎重」
「……ほんと、所沢くんって分かり易いね」
「愛すべきアホなんだよ。あいつ」
顔を見合わせて、ついつい噴き出してしまう。何気ない、このひと時が本当に楽しく思えた。
かくしてイチゴくんの機転により、無事文化祭に戻ることができた俺は、彼らと共に模擬店を回ることになった。多少なりとも浮かれているのは、友達と一緒に回っているからだろう。婚約者と回ることも楽しいけれど、気兼ねない友達と回るのも、また違った楽しさがある。
そりゃ、さっきの事件でガードマンが増えたような気はするし、世話役の博紀さんのため息をついているような気もするけど、せっかくの文化祭だ。自由に遊び回りたいってのが本音だったりする。
俺はもちろん、さと子ちゃんも嬉しそうだ。友達ができたからだろう。人見知りながらも、一生懸命にイチゴくんや所沢くんと話している。
「どうして、イチゴさん……なんですか?」
「ああ、イチゴは空がつけたあだ名だよ。俺がイチゴ飴をあげたからな。本当の名前は花畑翼。結構、イチゴって気に入っているんだぜ」
一通り回った後、俺達は校舎に設置された食事スペースで昼飯を取る。献立は、もちろん、さっき食べ損ねたカレーだ。
「さすが空さま。可愛いお名前をつけるのですね」
「さすがもなにも、食い意地張ってるだけだって。な?」
脇腹を小突いてくるイチゴくんに、「否定はしない」と笑って返す。
本当に楽しいな。こういう何気ない会話。庶民の友達が近くにいるって、ほんと幸せ「所沢さんにもないんですか?」「あるで。な、豊福」え?
もう一口、カレーを食べようとしていた俺は、思わずスプーンを落としそうになる。
斜め前に座っている所沢くんが、いい笑顔で見つめてきた。目が訴えている。下手なあだ名は付けるなよ。さと子ちゃんの心を掴むような、可愛いあだ名をつけろ、と。
なに、このプレッシャー。おかしいな。ぼかぁ君と今日が初対面な筈なのに。さっきまで、君から嘘つき呼ばわりされていたのに。
やや身の危険を感じた俺は、こんなことを言ってしまう。
「さと子ちゃんなら、なんて呼ぶ? せっかくだし、ちょっと所沢くんのあだ名を考えてあげなよ。俺が付けたあだ名より、いいものが出るかも」
断じて、さと子ちゃんを盾にしようとか、そういう目論見はないんだ。
ただ、俺がつけるよりも、さと子ちゃんの方が向こうは気に入るだろうと思って。そう、これは俺なりの気遣いなんだ。気遣い。
「ふえ」まさかの展開にさと子ちゃんが間の抜けた、可愛い声を出す。そして、わたわたと頭を振り、うんうんと唸り、ちびちびとカレーを食べながら考えた結果。
「トロさん、なんてどうでしょう。短くて、食べ物っぽい名前で、呼びやすい。可愛いと思います」
なにも、食べ物っぽい名前じゃなくても。イチゴくんがお手本になってるのかな?
「オレの本当の名前、トロやった気がする。所沢は仮の名前やった気がする」
気に入ったのね。良かったよかった。命名がさと子ちゃんなら、どんなあだ名でも、君は受け入れてくれると思ったけど。
「どんだけ単純なんだよ所沢。さすがに、ビビるぞ」
「花畑。それはあだ名やで。オレの本名はトロや」
……君が幸せそうなら、それでもいいんじゃないかな。ああ、でも、さと子ちゃんの片思い相手は博紀さんだってことは、黙っておこうかな。うん。
こうして所沢改め、トロくんのあだ名も決まり、和気藹々と昼食の時間は過ぎていく。さて、そろそろ席を取りに体育館に行こうかと思った時だった。
「あら、空ちゃん。こんなところでお食事していたの」
激しく嫌な予感がする。
ぎこちなく首を動かせば、やっぱり、小野寺先輩がいた。俺の(仮)お姉ちゃんが立っていた。勘弁してくれよ。単独で会うならまだしも、今は友達といるんだけど。
「空の知り合いか?」
「え、うん。御堂先輩の友達なんだ。学院の王子と姫なんだってさ」
あー……分かった、分かりました。ちゃんと紹介するから、そんな期待した目で見ないで下さいよ。
「それで、その、俺のお姉ちゃん……かな」
「はあ? お前に姉弟なんていたか?」
「昨日まで一人っ子だと信じて疑わなかったんだけどね。どうやら、生き別れの姉がいたみたいなんだ。姫繋がりのね」
「イミフなんだけど」呆気にとられているイチゴくんから、的確なツッコミを頂戴する。大丈夫、当事者が意味が分からないんだから、君の反応は間違っていない。
学院のお姫様のこと、小野寺先輩は友達と待ち合わせをしているらしく、今はひとりのようだ。友人達と一緒に御堂先輩の舞台を観るらしい。てっきり、彼女も演劇部だと思っていたんだけど、小野寺先輩は人前に出ることが苦手なんだって。あんなに注目を浴びておいて、なあ?
「さっき、騒ぎがあったようだけど大丈夫だった? 空ちゃん、襲われそうになったって話を聞いたんだけど。男の人には気を付けないとだめよ。男はオオカミなんだから」
「なんで、それをおので「お姉ちゃん」うぐっ。さ、沙織お姉ちゃんが知っているんっすか。しかも、襲われた意味がおかしい。俺は男に襲われていないですからね!」
「隠したってだめ。いつも玲から聞いているのよ。空ちゃんは、すぐ変な男や女に掴まって食べられそうになるって」
俺を食べようとしているのは、数限られた者。しかも知る限り女なんですけどね! その一人が御堂先輩なんですけどね!
おっかしいな、いつから俺は男にも狙われるようになったのかな! 初耳なんですけど!
「私も姉として、弟のことが心配になったから、はいこれ。空ちゃんにあげる」
手を取って、押し付けられたそれはスプレー缶。
取り扱い説明文を読むと、催涙スプレーと書いてある。ガチもんの防犯グッズ……。
「みんな、一つは持っているの。鞄に入れておくのは常識よ」
そっかそっかっそっか。これって常識なのか。
俺の常識に、催涙スプレーなんて言葉は存在しなかったよ。お嬢様学校こえーな。
「ありがとうございます。これは大切に持っておきますね」
物騒な物とはいえ、物を貰ったからにはお礼を言わないと。
だがしかし、「そこは敬語じゃないわ」小野寺先輩に思いきり、駄目だしをされた。普段は敬語でもいいけれど、いざとなったら姉弟同士、砕けた口調で会話をする。これが大切なのだと訴える彼女の熱い。今のままでは、姉弟の壁を感じると伝えてくる。
……小野寺先輩なりの姉弟像があるらしい。手厳しい上に面倒である。が、彼女は御堂先輩のお友達であるからして、邪険にすることもできない。
ああもう、砕けた口調ね。分かった分かった! 要は姉弟っぽく見せりゃあいいんでしょ!
「心配性だな、沙織お姉ちゃん。ありがとう、一応もらっとくよ」
俺なりの百点を目指した返しは、効果抜群だったようだ。
小野寺先輩の空気にお花が散っていた。「はい、あなたの沙織お姉ちゃんですよ」と言って、自分の両頬を包んでいる。
嗚呼、俺はこの人と会う度に、姉弟ごっこをしなきゃいけないのだろうか……疲れてきたんだけど。
「そろそろ行かなきゃ。空ちゃん、お友達と楽しむのよ」
やっと、小野寺先輩から解放される!
内心で諸手をあげる俺の気持ちなんて露知らない彼女は、「これは襲われないためのおまじない」と言って、人の頭に唇を落とした。目を点にする俺に、姉弟なら当然だと片目を瞑る。
いやいやいや、姉弟はこんなことしない! 一人っ子の俺でも分かる! ああぁあああ、なんてことをしてくれたんっすか! これが王子にばれたら!
「玲が一番好きなことは、なにかしら理由をつけて、好きな子をいじめ可愛がることなの。これでも私、あの子の恋を応援しているのよ。王子にも気を付けてね」
確信犯は素敵で無敵、不敵な微笑みを向けて去っていく。
さすが御堂先輩の姫である。あの人はやってくれた。王子のために、小さな火種を放り込みやがった……何事もなく、無事に一日を終えることができるんだろうか。
頭上に雨雲を作り、激しく落ち込んでいると、向かい側に座っているイチゴくんが一言。
「羨ましい光景だったはずなのに、なんだか可哀想に思えてくる俺がいるんだけど……そこで揚げアイス奢ってやろうか?」
「ごちになります。味はイチゴがいいっす」
「ええ姉ちゃんやな。豊福と、ちっとも似てない姉ちゃんやったけど、オレもあんな姉欲しいわ」
俺はトロくんの、その能天気なアホさが欲しい。切に。
近い未来、仕置きされる運命を予想しながら、目的の体育館に入る。
すでに観客でごった返していたけれど、蘭子さんの手配なのか、博紀さんの手配なのか、俺達はスムーズに前から三番目、しかも真ん中席に座ることができた。
一番前よりも、ちょっと後ろの方が見やすいだろうという、心遣いが見える。嬉しいんだけど、俺達の代わりに座っていた、ガードマンの人達には申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
「お、このパンフレットすごいな。写真付きだ。所沢、こいつが空の婚約者だぞ」
「い……イチゴくん。大きな声で言わないでよ。目立つじゃんか」
「照れることねーじゃん。お前の婚約者、すっげぇ美人な王子なんだし」
俺はファンに背中を刺されないかどうか、それを心配しているんだよ。
「ほんま美人や。どんな人なん?」
「あ、え、あ……こ、行動力のある人かな。色んな意味で」
「すげぇんだぜ、空の彼女。俺が目の前いるのに、ディープキスをするんだから」
あれは誰のせいだと。
イチゴくんのせいで、御堂先輩が怒ったことを忘れていない? ねえ!
「豊福って、えろい男なんやな。手ぇ出すとか」
「違いますよトロさん。空さまは、手を出すのではなく、手を出されて可愛がられているのです」
「……は?」
「お願いさと子ちゃん。俺のためを思って、それ以上は何も言わないで。ね? ね?」
「それだけ、玲お嬢様は空さまを深く愛しているのです。空さま、お嬢様のためにも、もっと可愛がられて下さいまし」
「博紀さん……あの、それって、つまり押し倒されろってことっすよね」
愛想笑いを浮かべていると、館内アナウンスが流れた。
公演時間と電灯が消えるアナウンスが前方のスピーカーから流れる。それによってざわついていた館内は小波のように会話の声のボリュームが小さくなり、観客席は始まりを今か今かと待ちわびている。
下りている垂れ幕を見て、さと子ちゃんが「どん帳の代わりを果たしているんですね」と興味津々に舞台側を観察していた。
どん帳ってのは劇場の舞台と観客席とを仕切る垂れ幕のことで劇場用語なんだって。さすが劇団に入っているだけのことはある。垂れ幕の微かな隙間から、生徒達の上履きが見えた。揺れている垂れ幕が静止すると、再びアナウンスが流れる。
それは舞台の始まりの合図だった。
アナウンスが途切れて開かれる幕の向こうに、スポットライトが当てられる。
幕の向こうには中世ヨーロッパを思わせるレンガ造りの建物。優美な湖畔。秋を思わせる色づいた木々が佇んでいる。勿論これはハリボテだけど作りは凝っていた。
(舞台上の御堂先輩、綺麗なんだろうな)
一体どんな話なのか。
それこそ御堂先輩はいつ、何処で出てくるのか、とても楽しみに舞台を見つめる。
最初に出てきたのは主役の貴族長男だった。
端整な顔をした男貴族が今の国の政治や情勢に不満を抱き、日々を過ごすという日常の一こま。
退屈な日常にも飽き飽きしていた主人公は、何か自分の人生を変えてくれるような転機は訪れてくれないかと望んでいる。
場面は変わり、酒場で主人公は国の不景気に不満を持つ平民達と意見の食い違いで乱闘を起こす。若干腐りかけている主人公がまざまざと舞台の中に納められていた。両親はそんな主人公に手を焼き、頭を悩ませる日々。
やがてそんな主人公にも転機が訪れる。恋の訪れだ。
彼は、とある低級貴族の娘に一目ぼれした。彼女に恋した主人公は振り向いてもらおうと、少しずつ接触する。
同時期、彼女の両親が他の貴族の手により、汚名を被り、冤罪という罪で処刑されてしまう。彼等の住む国は絶対王政だった。王に逆らった罪をかぶせられ、彼女の両親は見せしめに公開処刑される。泣き崩れる彼女を目にした主人公は、これを機に心情に変化をもたらす。
絶対王政に反感の意を見せたのだ。
表向きは素晴らしい政治をしていても、一皮剥けば王族の暮らしを豊かにするだけの偏った政治が目立った。彼の中に怒りが芽生え始めていた。
しかし主人公には気掛かりがあった。彼はその国の王女と幼馴染であり、親しい友人だったのだ――。
「ケネル。顔色が優れないようですけれど、具合でも悪いのでしょうか?」
「いや、大丈夫だよ。シルヴェール。いつものように二日酔いなだけさ」
湖畔に佇む主人公と王女。
主人公がこげ茶の短髪に対し、王女は見事なロングの金髪を持っていた。約束を取り付けて馬でそこまで来た二人は昔のように湖を眺める。
(あの王女が、御堂先輩なのか)
憂慮を向ける王女に主人公は大袈裟に肩を竦めておどけた。王女にはすぐそれが嘘だと悟ってしまう。
けれど何も言わない。目を伏せ、「此処はいつ来ても美しいですね」王女は柔和に綻ぶ。「そうだな」相槌を打つ主人公と彼女の間には確かな溝があった。
光景は昔と変わりないけれど、二人の関係は変化している。否、主人公が国に対しての見方を変えたのだ。そして王女に対しても。
「シルヴェール。君も湖畔と同じように美しくなったな」
おだてる主人公の心情を悟り、王女は微苦笑。彼を見て王女は目尻を下げた。
「ケネル。わたくしはあと数年も生きられないでしょうね」
「な、何を言うんだい。シルヴェール。君は一国の王女だ。体でも悪くない限り、長生きできるさ。知的な君らしくない発言だぞ」
「そうですね。わたくしらしくないですね。しかし思うのです。数年も生きられない、と。ケネル、わたくしはきっと国と共に心中する運命なのです。それが王族に生まれた者の運命――ケネル、貴方は自分の信じる道を生きるのですよ」
聡明な王女は主人公が革命を起こす中心人物になるのだと悟っていた。
革命によって生まれる希望と絶望。一つの国の終焉と創始。主人公の信じる道はひとりの女性を幸にし、ひとりの女性を不幸としていく。何かを犠牲にしなければ、幸せになれない。それに苦悩し、悼み、哀れむ主人公の半生を通じて描かれる舞台に俺は食い入ってしまった。
それはすっごい本格的な舞台だった。
王女役の御堂先輩の女性口調に違和感もなく、寧ろ彼女の立ち振る舞い。国を愛し哀れみ一喜一憂する姿に魅入ってしまう。
俺の知らない御堂先輩が舞台の上にいた。どんだけ練習していたのか、知っていたつもりではいたけど彼女の演技を見る限り、俺の知らないところで並々ならぬ練習を積んできたに違いない。
カツラであろう金髪も似合っているし、学生部が使うにしては高価すぎるドレスを身に纏ってその役になりきっている。
大嫌いな男の人に横抱きされても彼女は喜びの笑みを浮かべていた。口説かれて恥らったりする姿は本物だったんだ。
きっと舞台の上にいる御堂先輩は彼女自身ではなく“シルヴェール王女”として立っているのだろう。
(見せる表情に一々ドキッとさせられるんだから、芸達者だよ。先輩)
結局王女は革命の末に処刑されてしまう。
のち、王女は主人公に好意を寄せていたのだと日記によって判明。
主人公に何も言わず、予知していた革命を拒むこともなく、ただただ運命を受け入れた王女に涙する主人公がそこにはいた。ひとりの女性を幸にし、ひとりの女性を不幸としていく主人公の姿に皮肉さえ覚えてしまう。
かなりディープで重たい内容だったし、はっきりとしたハッピーエンドとも言えなかったけど、舞台は凄く面白かった。
二時間半ほどの長い舞台が終わると観客席から拍手喝采。
体育館の屋根を突き破る拍手が沸き立つ。
俺も拍手を送った。
舞台を終え、晴れ晴れとした表情で挨拶をする彼女に対して惜しみない拍手を送った。見たこともない彼女の一面を知ることができた喜びを込めて、何度も手の平を叩いた。そして心のどこか、胸が熱かった。見惚れる自分がいたことは、どうしても否定ができなかった。
前略、肉食お嬢様―ヒロインな俺はお嬢様のカノジョ― つゆのあめ/梅野歩 @ratsunatu
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