2. Let me not to the marriage of true minds admit inpediments
第2.1話 暗雲
――William Shakespeare, "Let me not to the marriage of true minds" より
鬱だ。
凪月は、教室の扉の前で肩を落としていた。
高校に入学してまだ一週間経っていないのに、いきなり鬱になっているのは、決して凪月が対人恐怖症だとか、コミュ障だとか、そういう類の理由ではない。
だからって社交性に富んでいるわけでもないが、一般的なコミュ力を有しているつもりだ。
しかしながら、凪月には教室に入りたくない理由があった。
昨日の不幸な出来事。
今思い出してもゾッとする。
股間にサッと風が吹く。
渾身の平手打ちを繰り出した後、進々は泣きじゃくりながら走り去っていったという。
『あぁ、泣ーかせた。いけないんだー』
『おまえのせいだろ!』
流々香の言に、凪月が渾身の突っ込みを入れたのは当然の話である。
ただ、結果として、流々香の言うとおりの状況だけが残ったことは確かだ。
だから、凪月は教室の扉を開けられずにいた。
鬱だ。
「扉の前で何呆けているんだ?」
後ろから声かけてきたのは、背の高い男であった。軽薄そうな面に、ちゃらいリュックを背負った彼は、凪月の背中をかるく叩いてきた。
「自分のクラスがわかんなくなっちゃったのか?」
「そんなわけねぇだろ」
「じゃ、うんこでも我慢してんのか?」
「してねぇよ。快便だったよ」
ていうか、朝からする会話じゃねぇ。
友人、
「何やってんだよ。さっさと中入ろうぜ」
「いや、まだ心の準備が」
「教室に入るのに、どんな心の準備がいるんだよ」
魔王を倒しに冒険に旅立つくらいの覚悟がいるんだよ。
いや、というか、どっちかというと倒されにいくんだけど。
しかし、ここで突っ立っていても仕方ない。
意を決して、凪月は教室という名の死刑場に足を踏み入れた。
凪月の席は、窓側のいちばんうしろだ。はじめ、出席番号順で定められていた座席は、クラス代表の意向により、土日に入る前に席替えされた。
そして、いちばん後ろの絶好席を手に入れて、喜んでいたのが先週の出来事であった。
凪月は自分の席に着いてから、周りを見まわした。
彼女はどこにいる?
一週間を共にしたわけだが、まだすべてのクラスメイトを把握しているわけではない。むしろ女子に関しては数人しか顔と名前が一致しなかった。
ざっと眺め、ハッと気づく。
凪月が目を止めたのは、ちょうど目の前。
一つ前の席の女子。
目がくらむような赤毛に、白い頬、そして、こちらに向けられた横目の恐ろしく冷ややかな朱色。
それは、まさしく記憶にある色であった。
え? 真ん前なの?
やっべ、ハル姉のこと言えないな。
凪月は、人への関心のなさを反省した。
前の席の同級生、外村進々は、凪月のことに気づいているようで、ぎろりと睨みつけている。昨日のような羨望の視線ではない。まるでゴミを見るかのような腐った朱色をこちらに向けている。
「や、やぁ、おはよう」
とりあえず、目が合ったので、挨拶をしてみる。
声を聞くや否や、進々は舌打ちをして、凪月から視線を外した。
あからさまに嫌われているな。
まぁ、仕方ないのだけれども。
ただ、一限目が終わる頃、凪月の不安は少しずつ解消されていった。進々は、粛々と授業を受けるばかりで、特に誰かに言いふらしたりする気はないようだったからだ。
二限目、三限目を終えても、その間の休み時間に誰かと話す様子はない。
というか、休み時間は寝ているばかりで、誰かと話す様子がそもそもない。
観察していて、別の不安が沸いてきたのだけれども、昼休みに一人で弁当を食べている様子を見て、凪月の心配は確信に変わった。
こいつ、ぼっちだったのか……!
進々がぼっちだとわかって、不謹慎ながら安堵した凪月であったが、人の不幸を喜ぶ自分にちょっと落ち込んだ。
ただ部活動に専念する者には、よくある構図ではある。部活動に勤しむあまり、クラスのイベントや放課後の遊びに参加できず、クラスの和に入れないことがある。
一方で部活内では、闊達だったりするから、それほど心配する必要はないのかもしれない。
凪月にとっては、そちらはそちらで不安要素なのだけれども。
学校なんて小さなコミュニティである。
どこかで生じた噂は、一瞬で全クラスに伝わってしまう。ここで、堰き止めても意味がないのかもしれない。
女子バスケ部で、凪月の所業をぼろくそに流布されれば、もはや凪月の高校生活は終わったも同然。
少しだけ安堵したのだけれども、また、凪月は不安にかられることとなった。
そんな不安真っ盛りの五限目、数学の授業中、凪月の机の上に、ぽとりと一枚の手紙が落ちてきた。
四つ折りにされた手紙は、どうやら前から投げられたようで、進々がこちらにジロッとした目を向けている。
何だ?
いっそう不安の募る演出であるが、凪月は手紙を開いた。
『放課後、体育館裏で待つ』
え? しめられるの?
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