2年契約のドールを取り返す、夏。

谷渓峪

本文

「ご主人、この本はどうです?」

 安部公房の『砂の女』を読んでいた時だった。七月十五日、数年に一度の酷暑という夏の中で、砂に囚われる小説を読むべきではないな、と思っていた。

 声の主の方を向くと、ハインラインの『夏への扉』の表紙をこちらに向けたドールが居た。ドールとは名前ではなく、スマートフォンみたいな名詞だ。人間みたいに生活して、人間みたいにおしゃべりして、人間よりも僕の世話をしてくれて、人間よりも優秀で、スマートフォンみたいに2年で契約が終わる。契約が終わると、彼女――僕が契約しているのは女性型だった――は廃品回収されて部品が再構成され、脳みそのチップはまっさらになる。

 契約の期日は、ちょうど明日だった。

 彼女の向こう、開いた窓から潮風が入ってくる。青々とした海と、どこが境界なのかぼやけた海岸線、それにくっきりとした住宅街を描いた窓の額縁に割り込んだような彼女の体躯は儚げだった。茶色みがかかった一つ結びの髪の毛とオレンジ色のヘッドフォンをした、どこにでもいそうな見目なのに関わらず。

「確かに、今の季節に丁度いいのかもしれない。甲子園の地方大会がやっているくらいなんだから」

 まだ、夏本番ではないのだ。

「ええ、ぜひ」

 そう言って、彼女は本を寄越し、懐から取り出した一冊のノートブックにペンを丸く走らせた。

「何を書いているんだ?」今まで見せてくれたことはなかった。近づくと隠されたものだ。

「見てみます?」悪戯っぽく笑みを浮かべると、少し煤けたノートブックを僕に手渡した。

 今までにない事態に面食らいながらも好奇心が打ち勝ってそれを開いた。


 2026年、7月16日。

 ご主人は武者小路実篤の『愛と死』を読んでいた。


 二年前の明日の日付だった。

 この先は、日付と僕が読んだ本が続いている。たまに二重丸マークがついていて、彼女の貸してくれた本についているのだと気づいたのはノートブックの日付が冬に入るくらいの時だった。

「返すよ」読み終えて僕は言った。

「いえ、どうせ私がもっていてもゴミとして処分されるだけですから。本棚の一角にでも入れてください」

「じゃあ、そうする」

 本棚の一角に差し込み、読書に戻った。


 二日経った七月十七日、どこにでもいそうなドールの彼女はいなくなっていた。

 乱雑にゲーム機や本が床に散らかった部屋の中で、彼女がいつも座っていた窓際の本棚の横だけががらんどうのようにぽっかりと空いていた。

 僕だけが、いつものようにごろりと無理矢理つくった空間の中で寝ころびながら、左手で開いた本を読んでいる。

 新しいドールの更新契約は断った。

 足元に転がっていた緑色のリュックサックに手をのばし、いつも通りの風景から脱出することは、もう一昨日の時点で決まっていたようなものだった。

 さぁ、取り返しに行こう。潮騒が聞えるような、窓という額縁から見える海を背に、本棚に本を仕舞った僕は小さく呟いた。

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2年契約のドールを取り返す、夏。 谷渓峪 @soru28

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