第6話
アッパーカット丸が港に停まっていないことに気付いた渕上は、双眼鏡を取り出して暗い水平線を覗いた。鍛え抜かれた鷹のような目が、数百メートル先でぽつんと佇んでいる船の姿を捉える。
渕上は慌てたように爆龍丸五号へと飛び乗ると、エンジンモーターを発動させた。アッパーカット丸の佇む方向へ発進すると、背中に背負っていたボストンバッグを床におろし、ゴキンと金属音が響く。
気持ちが逸る。大きな穴を空けて浮かんでいた、鈴木の船の残骸が思い出された。臓物を剥き出しにして息絶えていた『主』の姿が記憶に蘇る。渕上は歯を剥き出しにして怒りを露わにした。この港で働く者達の誰一人として、これ以上の犠牲を出すわけにはいかなかった。
同時に、己を悔やんでもいた。何故英子の船がそこにあるのか渕上にはわからなかったが、もしも自分が化物の存在を、昼間のうちに漁師達に教えていたならば、きっと英子が単身で海に乗り込むような真似はなかっただろうと思っていたからだ。危険や混乱を招きたくなかった。化物の処理は、自分だけで済ませたかった。鈴木の仇をひとりで取りたかったという欲も働いていた。その結果として新たな被害者を出してしまえば、本末転倒である。
アッパーカット丸の姿がだいぶ近付いた。そろそろ声の届く距離だと思い、渕上は大声で英子の名を呼び、反応を伺った。しかし、何度その名を呼んでも英子からの返事はなく、姿を見せる気配もなかった。
最悪の可能性が渕上の頭をかすめ、屈強な肉体に悪寒が走る。双眼鏡を取り出して、アッパーカット丸の状況を伺った。
船体の文字が読み取れるほどはっきりと姿を見せたアッパーカット丸の船体は、一定のリズムを刻むように小刻みに揺れていた。
船体の上で何かが暴れているのかもしれない。そう考えた渕上は、バッグのジッパーを勢い良く開けると、中から黒光りする大きな鉄の筒を取り出した。
忌まわしき獲物を撃退するために、今日一日をかけて手に入れたロケットランチャーである。重火器の扱いは素人同然の渕上であったが、揺れる船の上で重いものを扱う技量に、狙った獲物は逃がさない眼力は、下手な軍人よりもはるかに自信があった。
「待ってろよ、英子。すぐ助けに行くからな!」
渕上は勇んで繰り出すべくエンジンスイッチに手をかける。そのとき、ゴトンという音が後部で聞こえ。渕上は振り向いた。
全身をびしょ濡れにした何かが、船の上を這っていた。暗闇で一瞬、その姿を確認できず、渕上はてっきり大型の魚かなにかが飛び込んできたのだと思ったが、よく見るとそれはとても見覚えのある姿だった。
「鈴木、お前鈴木なのか?」
「ふ、渕上? 渕上か? 俺は……俺は生きているのか?」
「鈴木! お前どこに行っていたんだ! 喰われたんじゃなかったのか!」
目をかっと見開き、慌てふためいた様子で尻もちをついたまま船上をバタバタと暴れまわるそれは、たしかに行方不明になっていた鈴木だった。渕上も鈴木も、共に混乱していた。
「く、喰われ……ああ、あああああ!」
突然、大きな悲鳴をあげた鈴木が、立ち上がるのも必死な様子でバタバタと船上を這い回る。
「どうしたんだ、鈴木。混乱しているのか? っていうか、お前はどこで何をしていたんだ!」
「し、知らない。自分がどこにいたのか。でも、生きていたのか。俺は生きてるんだな、幻じゃないんだな。おお、おうおうおう」
まるで獣のような嗚咽を漏らしながら、鈴木は大量の涙をこぼした。鈴木ほどの勇敢な男が泣いている姿を、渕上は見たことがない。
「いいから落ち着け鈴木。一体何があったんだよ」
「わからないんだ。船の調子が悪いなと思って、確認がてら、夜に船を出していたら、なんか大きくて黒いものが、急に俺の船に体当たりしてきて……船がすぐに沈んで、俺は死ぬのかと思っていたら、その大きくて黒いやつが、俺の首根っこを咥えて、俺を洞窟のようなところに連れていって……俺はそこに、監禁されていた」
「監禁? お前、どこかに閉じ込められていたのか?」
「その洞窟から出ようと思っても、あの化物が付近をうろちょろしていて……まるで俺をじわじわと怖がらせて楽しんでいるかのように…‥…いっそ一思いに喰われたほうが楽だってくらい、あいつは折に触れて俺に恐怖を植え付けようとしていたんだ」
暗闇の中でよく見ると、あれだけ黒々としていた鈴木の頭髪には、びっしりと白髪が生えていた。
「お前、どうやって帰ってきたんだよ」
「それが、その化物が俺を咥えて……ああ、俺はもう喰われるんだと思って。でも気が付けばここにいて」
「なんにせよ生きていてよかった。大丈夫だ、その化物は俺が仕留めてやる」
「や、やめておけ! お前に太刀打ちできるような相手じゃねえ!」
しかし、という渕上を、大慌てで鈴木が制する。
「そ、それよりも聞いてくれ。俺はもう、漁師をやめる! 海にはあんな化物がいるんだ。恐ろしくて、賢くて、強くて……きっとこの海の神かなにかだ。俺達に怒りをぶつけてきたに違いない。もうこんな仕事、俺にはできねえ」
「馬鹿野郎、海の男が何を情けねえこと言ってんだ。海に出れば説明もできないほど恐ろしいことがついて回るのは、昔から知っていただろう!」
「と、止めてくれるな、渕上よ。俺は船を降りるぞ。息子にももう、漁師を継がせようとは思わん。水素水バーでもユーチューバーでもなんにでもなれ。こ、こんな恐ろしい仕事、あいつにさせられねえ。もう樹里亜ちゃんを口説いて、無理に結婚させようとするのもやめる!」
「お前、そんなことしてたのか」
「ははは、情けねえか。笑いたきゃ笑え、俺はこの海を捨てるぞ!」
そのとき、少し強めの波が爆龍丸五号の船体を打った。そのわずかな衝撃でさえ、恐怖に震え上がる鈴木を脅かすには充分だった。鈴木は跳ねるように渕上へと飛びついた。
「ぎゃあああ! アイツだ! アイツが俺を殺しに来たんだ!」
「おい、やめろ。危ないだろうが」
バランスを崩した渕上が後ろに倒れ込むと、手元から滑り落ちたロケットランチャーが床にぶつかった。
ボシュッという音と共に煙が上がり、ランチャーの先端から砲弾が星空を目掛けて飛翔していった。
月の光が差し込むホテルの一室で、伊代は椅子の上で膝を組んだまま、静かにテーブルを眺めていた。部屋の中には重苦しい雰囲気が漂っており、シャワーからあがったばかりの優は濡れた髪をタオルで拭きながら、意気をすっかり失った恋人の姿を、まともに見つめることができなかった。
洋介達の襲撃と巨大サメからなんとか逃れた二人は、貸しボート店にサメの存在を説明するも、最初は信じてくれなかった。しかし、優の足についた血液と洋介の惨状を見て状況を把握し、すぐに警察へと連絡してくれた。ちょうど、遊泳禁止の時間が迫っていて海水浴客がほとんど引き上げていたこともあり、これと言った混乱は起きなかったものの、洋介は病院に運ばれ、今頃は海水浴場で調査が始まっている頃だ。
しかし、傷ついた二人の心がすぐに調子を取り戻すわけではない。サメではなく、洋介達に襲われたことだ。最悪の事態は免れたものの、その尊厳は酷く踏みにじられていた。特に伊代のほうはダメージが深刻で、ホテルの豪華な晩餐も、大浴場にも興味を示さず、優の誘いでなんとかシャワーだけは浴びさせたものの、口を閉ざして落ち込んだままである。
優は静々と伊代の隣に座ると、その頭を抱えながら肩を撫でた。
「怖かったよね。もう大丈夫だから。明日は早く、二人の部屋に帰ろうね」
伊代は何も言わずに、優の胸に顔を押し付け、頭を擦り付ける。伊代が優に甘えるときに、よく取る動作だった。
心身に染み付いた恐怖が拭えなかったのは伊代だけではない。優もしばらくは、体の震えを止めることができなかった。すぐに伊代を慰めることが出来ず、自身も誰かに慰めてもらいたかった。余裕が無かった。ホテルの食事も、無理に詰め込んだが味気なかった。
せっかくの二人の休日が、最悪の形で汚された。吹き荒れるような毎日から摘み上げたささやかな喜びを、下劣な力でねじ伏せられた。もしもあのサメがいなければ、自分達は今頃どうなっていたのか。指先まで浸透する悔しさに、優は破れそうなほど強く下唇を噛んだ。
「今日はもう寝よっか。あんなこと、急いで忘れちゃおうよ。明日からはきっと、幸せなことがいっぱいあるから」
抑えきれない衝動が、優の指に思わぬ力を込める。己の肩を撫でるその指の力に気付き、伊代は顔をあげて優を見詰めた。あの出来事以来、ようやく二人の視線が交わった。さめざめと泣き続けていた伊代の両目は赤く腫れていた。
「ごめんね。優も辛いのに、私ばっかりいつまでも……」
「仕方ないよ。全部あいつらが悪い。私達は誰も何も悪くない。泣きたかったら泣いてもいいから」
「ううん、もう大丈夫。あんまり悲しんでいたら、せっかくの二人の時間がもったいなくなっちゃうから……」
強がりながらも肩を震わせている恋人の姿を観ると、優はいたたまれなくなり、胸を締める悔しさがさらに色濃くなる。守ってあげたかった。なぜ自分には力がないのか。なぜ力がないだけで、不当な力に屈しなければならなかったのか。伊代もまたきっと、同じことを思っているだろう。己の非力を嘆き、けれど、非力であることが悪いわけではないことを。
あのサメが羨ましかった。自分達を脅かす者達を、鋭い牙で闇の底へと引きずり込んでやりたかった。
二人は抱き合って、互いの背をさすりあった。いつもと違うシャンプーの香りが、二人の鼻をくすぐる。それでもいつもと変わりない体温に、全身で記憶している感触に、幾許かの安心感を覚えた。
「ありがとう、ちょっと元気出た」
「私も。伊代、ご飯食べてなかったけど、お腹は空いてない? ホテルにコンビニがあったから、ゼリーとカニパン買ってきたけど」
「じゃあ、ゼリーもらおうかな。心配かけちゃってごめんね」
少しずつであるが、二人はようやく穏やかさを取り戻した。とりあえず今夜はゆっくり眠りにつけるだろうと思った。
伊代が時間をかけてゼリーを飲み終えるのを確認すると、優は立ち上がってバッグを漁り、手のひらサイズの小さな箱を取り出した。
「伊代、ちょっと来て」
優は伊代を呼びつけると、窓を開けてベランダへと出た。海が見える、というのが売りとなっているだけあって、眼前には月明かりを反射する広大な海が広がっていた。二人に恐怖を与えた場所だとは思えないほどに美しかった。
「本当は夜の浜辺で渡そうかなとか、くさいことを考えてたんだけれど、そうはいかなさそうだから、せめて海の見えるところでと思って」
そう言って優は小さな箱を開け、中から銀色の小さな指輪を取り出した。指輪は月の光を集めるように輝いて、二人の間を彩っている。
「これからどんな困難があっても、二人でいられるようにと思って、ペアリングを買ったんだけれど……もちろん、薬指用のやつ。伊代に受け取ってほしくて……これからも私と、ずっと一緒にいてください」
優がゆっくりと伊代の薬指に銀のリングをはめると、伊代は涙目になって、感激のあまりおもむろに優に抱きついた。
「優! 私もずっと、優と一緒にいたい!」
「よかった。絶対、伊代を離したりしないからね。ずっと大好きだよ」
「ありがとう、すごく嬉しい。私も大好きだよ、ゆ――」
そのとき、海の方向からドゴンという爆発音が鳴り響き、鈍い光が辺り一帯を照らし出した。
二人が海へと目を向けると、大量の煙と爆炎が海上数十メートル上空を舞っていた。灰色の煙が星空に広がっていく。
「ねえ、優。見て、花火だよ。綺麗だね」
「え、いや、あれ花火なのかな……」
夜の空を広がる爆炎が海面を照らすと、そこに見覚えのある大きな背ビレが見えた。くるくると動くその背ビレ、気のせいか優にはそれが、まるで自分達に拍手を送っているかのように映った。
百合ップルvsメガ・シャーク ななおくちゃん @nanaoku
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます