第5話
夕陽がすっかり沈んだ頃、英子は再び海へと訪れていた。家に帰って寝ようにも、昼間の渕上との会話以来、心身が高揚してなかなか寝付けなかったのだ。港からは人の姿はなくなり、少し離れたところにある居酒屋から時々、酔っぱらい達の大声が届いてくるだけだった。
気持ちの寄る辺が、まるで自分の指からすり抜けていきそうなときは、いつでもこの港に来て、自分を見つめ直していた。仕事で毎日訪れている場所であっても、この海に飽きるということはない。和美が亡くなったときにも、立ち直るための一番の後押しは、和美と同じ時を生きたこの海の存在だった。
いつもの場所に停めてあったアッパーカット丸に飛び降りると、煙草に火をつけて甲板に置いてあったクーラーボックスに腰掛けた。
昼間から、考えているのは樹里亜のことだけだった。あの弾むように若々しく、いくつもの可能性を秘めている部下の存在を、自分ははたしてどう受け止めればいいのか。
無論、それがどのような答えであったとしても、樹里亜に対する態度などを変える気など、英子は持っていなかった。樹里亜を船に乗せることが決まった翌日、英子の元へ菓子折りを持って訪れた樹里亜の両親が、この子を頼むと頭を下げたときに、何があったとしても自分の都合で、樹里亜の芽を摘んだり、漁師の道に不安を与えたりするようなことはするまいと誓っていたのだ。
一番星の見える空に向かって、英子が大きく煙を吐き出すと、突然アッパーカット丸の船体が大きく揺れた。英子が振り返ると、そこには私服姿の樹里亜が立っていた。
「樹里亜、なんであんたまで港にいるの?」
「ちょっと寝付けなくて。風も気持ちいいし、海でも見ていたらリラックスできるかなって」
Tシャツにデニムというシンプルな出で立ちで船を訪れた樹里亜は、そのまま英子の後ろで腰掛ける。
「そういう英子さんこそ、こんなところで何をしてるんですか」
思いがけない来客に、気持ちが少しばかり焦りを見せた英子だったが、それを悟られぬよう、煙草を携帯灰皿で揉み消しながら答えた。
「なんでもないよ。海を見てただけ」
「英子さん、ぼうっと海を見てるの好きですよね。仕事が終わるといっつもそうしてる。そういうときって、何を考えているんですか?」
「漁のことだよ」英子は樹里亜の目を見ず言った。
「私にはそれ以外、考えられることなんてないし」
英子が乾いた声で答えた。樹里亜の視線を背中に感じた。つい先程まで、自分の存在が頭を占めていたとは、全く気付いていない様子で。
「ね、ちょっとだけ船を出してあげようか」
そう言って英子は立ち上がった。
「星空の下でクルージングデートしてあげるよ。いつも乗ってる船なんだけど」
「本当ですか? お願いします」
振り向かずとも、樹里亜の表情が屈託のない笑顔を見せていることが浮かんで見えた。英子がエンジンをかけると、アッパーカット丸はゆっくりと海原へと繰り出した。
「暗い海なんていくらだって見てるのに、状況が変わるとこうもロマンティックに映るものなんですね」
「今日は特に星がたくさん出てるからね。おばさんが相手じゃ味気ないんじゃない?」
「そんなことないですよ。今、人生で一番最高です」
「樹里亜は大げさだねえ」
モーター音の中に二人の笑い声が交じる。五分も走っていると、港からずいぶんと離れた場所まで来る。町あかりがぽつぽつと広がる静かな港が遠くに見えた。適当なところで船を停めると、夜空を映した海が二人を包み込んだ。
英子はクーラーボックスからよく冷えた五百ミリリットル缶を二つ取り出す。
「飲む? ノンアルコールビールだけど」
「やった、いただきます」
海は風が吹くとはいえ、まだ蒸し暑さは残る。よく冷えたノンアルは二人の喉を心地よく通った。
「樹里亜、最初はお酒苦手だったよね。缶チューハイさえ受け付けなかったのに、いつの間にか飲めるようになって。やっぱり、男達に舐められないようにって思って鍛えたの?」
「そういうわけじゃない……ということもないんですけれど、それよりももっと大きな理由があって」
「うん?」
「英子さんが、仕事終わりに美味しそうにビールを飲んでいるのを見て、羨ましいというか。私にとって英子さんは目標にしてる人だから、私もこうなりたいなって思って真似をしたくなって」
樹里亜が照れを見せながら言った。嬉しい言葉ではあったが、そのようなことを直接言われると、英子はなんだか気恥ずかしくなり、心なしか火照ったように感じた身体を諌めるように、急ぎ調子でノンアルを胃袋へと流し込んだ。
「樹里亜、本当にお休みはいらないの? 若いからって、あんまり無理するのもいけないんだよ」
「無理、してないですよ。私は本当に、樹里亜さんと漁さえしていれば」
「樹里亜には立派な漁師になってほしい。そのためには、根を詰めすぎないで、適度に羽を伸ばして身体を休めて、漁以外の喜びもたくさん知ってほしいんだ」
樹里亜はしばらく押し黙り、しばらく考え事をすると、やがて口を開いた。
「すみません、英子さん。突然ですけれど、変な話をしていいですか」
「どうぞ」
「実は私、結婚を勧められていたんです」
樹里亜の思いがけない告白に、英子は思わずノンアルを吹き出しそうになった。なんとか堪えながら話を続けさせる。
「結婚って……もしかして、親御さんに?」
「ううん、鈴木さんから」
鈴木と言われてすぐにはピンとこなかった英子だったが、二人が共通で知っている「鈴木」はひとりしかいないことを思い出した。
「鈴木さんって、船が転覆して行方がわからなくなってる鈴木さん? どうしてあの人が樹里亜に結婚なんか」
「ほら、鈴木さんって自分の船に息子さんを乗せているじゃないですか。二十代後半の人だったかな」
英子は記憶を掘り下げる。鈴木の息子と言えば、快活な父親とは違って物静かで、いつも消え入りそうな声で挨拶をしてくる男だった。
「はいはい、あの子がどうかしたの?」
「実は息子さん、漁師をやめたがってるみたいで。漁師を辞めて都会で水素水バーを開きたいと言ってるんですよ。鈴木さんは息子さんに、いずれは一人前の漁師になって自分の船を継いでほしいって思っているらしいんですけれど。鈴木さんがそう伝えると息子さんは、漁師の仕事に理解のある人が嫁いでくれれば、漁師を継いでもいいって答えたそうなんですね。そこで鈴木さん、私に目をつけたんです。歳も近いしちょうど良かったんでしょうね」
感情や抑揚を見せるでもなく、樹里亜は水平線を見詰めながら淡々と語る。その一方で、英子の気持ちには焦りのようなものが積もり始めていた。
「まさか、そんなバカバカしい話。女を何だと思ってるの。当然、樹里亜は納得しなかったんでしょう」
「もちろんです。私はきちんと伝えました。困ります、私はまだ、結婚なんて考えられません、って。ましてや、話したこともない男の人となんて」
英子は小さく安堵の息を漏らした。しかし、樹里亜はまだ話を続ける。
「だけど私、一瞬悩んだんです。もしかしたら、受け入れてしまってもいいかもしれないって」
「どうして? そんなことして樹里亜になんのメリットがあるの?」
感情が昂ぶっていた。英子は樹里亜の顔を覗き込み、責めるように言った。
「樹里亜は漁師になりたいんでしょう? 向こうに嫁いだら、家事に専念しろって船を降ろされるかもしれないじゃない。仮に漁師として続けていくことを認めてもらっても、乗るとしたら間違いなく鈴木さんのところの船だし……」
そこまで口にして英子は我に返り、思わず飛び出しかけた言葉を飲み込んだ。
『もう、私の船には乗れないじゃない』
樹里亜はたしかに自分の船に乗せてくれと言って、漁師になり、実際に自分の船に乗っている。しかし、漁師としてこれから先の未来、誰の船に乗ろうが、それは樹里亜の自由なのだ。自分の船を持つ日だってあるのかもしれない。まさに英子自身がそうであったように。自分に憧れているのなら、尚更だと。
ならば、止める理由は英子にないはずだった。それなのに止めるということは、英子のほうが樹里亜を手放したがっていないということになる。英子は自分のわがままと思い上がりを、なんとか樹里亜の前で口に出さずに済んだ。
樹里亜は話をさらに続けた。英子には、月明かりに照らされた樹里亜のその横顔に、わずかな憂いがひそんでいるように映った。
「実は私、好きな人がいるんです。でもその人には決して、想いを伝えられないというか、伝えてはいけない人で。もし伝えてしまったら、私はもうその人と一緒にはいられなくなる。最初から、諦めるしか道のない想いなんで」
英子は胸の奥深くを握りつぶされるような感覚を味わった。
昼間、樹里亜から恋人はいらないと言われて安心していた自分を情けなく感じると共に、納得もした。樹里亜はもう大人なのだ。恋のひとつも抱いていてもおかしくはない。樹里亜がどうやら複雑な状況にあることを考えると、恋人が不要だと自分に言ったのは、強がりだったのかもしれないと思った。
「だから鈴木さんから結婚の話がきたときに、この話に乗ってしまえば、自分の気持ちにも諦めが着くんじゃないかと思ったんです。条件だって決して悪いわけじゃなかったし。ひどい話ですけれど、自分の中で整理をつけるために、叶わない恋から逃げるために、鈴木さん達を利用しようと思ったんです」
樹里亜の表情に、わずかな懺悔の色を感じ取った。ノンアルを喉に流し込もうとしたが、すでに手元の缶は空っぽだった。
「だけど鈴木さんが、いなくなっちゃったじゃないですか。息子さんも、誰に邪魔されることなく自分の夢を追えるようになって、不謹慎な話、私はそれで踏ん切りがついたんですよ。こんなタイミングで逃げ道がなくなったなら、もうあとは進むだけだって。だから私は考えを改めたんです」
少しずつ語気に感情が込められだした樹里亜の言葉を聞きながら、英子は焦りとも諦めともつかない思いのまま、手元のアルミ缶を握りつぶしていた。
「たとえその人に私の気持ちが届かなくても、私はその人の傍にいられるように努力しようって思ったんですよ」
「そっか。樹里亜はすごいよ、そんなことを決められちゃうなんて。そこまで想ってもらえる人がいるなんで、その人は幸せ者だね」
言葉が軽い、と英子は思った。樹里亜の言葉ではなく、自身の口から出たそれが、である。樹里亜の真剣さに対して薄情な対応など絶対にしたくはなかったが、心からの真実を口にしていても感情が追いついてこなかった。想われ人が誰なのか。なぜ想いを告げられないのか。聞くだけ野暮であるし、仮に樹里亜が教えると言ったとしても、英子は聞く気にはなれなかった。
樹里亜は立ち上がると、照れたような表情を浮かべて英子の前に立った。
「今日はなんだか変な気分ですね。誰も見ていないから、気持ちが開放的になってるのかも」
「そうだよね。樹里亜がそういうこと離してくれるなんて珍しいし、私は嬉しいよ。ようやく仕事以外での頼りがいを認めてもらったのかな、とかいって」
樹里亜は少しだけ周囲を伺う様子を見せると、英子の喉元あたりに視線を向けて言った。
「私が好きなのは英子さんです」
飾りのない言葉が英子に投げつけられる。英子は一瞬、身体をピクリと反応させるだけで、ただ黙っていた。
自分でも不思議なほど、英子は驚きを見せなかった。心の準備ができていたわけではないが、胸のうちのどこかで、そんなことを望んでいた部分があり、そうではないかという憶測もあった。
すぐには何かを考えることはできなかったものの、真っ先に沸き上がったのは「困る」という思いだった。英子にとっても本来なら喜ばしいことであるはずなのに、諸手を挙げて気を良くすることができなかった。それは樹里亜を恋愛の対象として見ることを諦め、また諦めざるを得ない状況でもあったからだ。
「それは、本気なの?」英子が尋ねる。
「本気です。もちろん、告白することで英子さんに嫌われたり、嫌われなくても、もう一緒の船に乗せてはもらえないかもしれないと思いました。それでも私、英子さんが一生の憧れであることも、一人前の漁師になって、胸を張って英子さんと同じ海で生きていく夢も、変える気はないんです」
英子は頭を抱えた。樹里亜が真っ直ぐな目で見つめてくるだけ、どのような言葉で対応すればわからなくなってくる。
「そんな、樹里亜。だって私は……私達は……」
「ごめんなさい。迷惑なことはわかってたんですけど、もう我慢できなくて。ほら、私が頑固で、諦めが悪くて、無鉄砲なことは、英子さんが一番よく知ってますよね」
頭の整理が追いつかない英子のおぼつかない態度を見て、樹里亜が口を噤んだ。英子はくしゃくしゃに丸められた紙のように、自分の脳の中身が読み取れない。適切な言葉を引き出せない。
「樹里亜。まさかとは思うけれど、最初からそうだったの? 出会った頃から? 私の船に乗りたいって言ったのも」
「そんな。最初は本当に、ただの憧れでした。ただの、っていうのもおかしいですけど、私の目標だったんです。それは今も変わらないんです。ただ一緒に漁に出ているうちに、私の中で英子さんへの想いが強くなっていって」
樹里亜も興奮していた。その語り口は普段のそれよりいささか早めだった。
「受け入れてもらえないのはわかっているんです。でも、英子さんの視線とかを感じたり、褒めてもらえたりすると、勘違いしてしまうというか、わずかな期待を抱いてしまったりして。だったらここできちんと、ケジメをつけておこうと思って。そのほうが、きっと漁の仕事を続けるためにもいいって」
英子は樹里亜に聞こえぬように小さなため息を吐いた。
返事はもう少し待ってもらおうか、とも思った。しかし、英子の中では樹里亜の想いを受けいれてしまってはならないということはすで大前提にあった。時間をかければその分、樹里亜に期待を抱かせてしまう。自分の気持ちまで変わってしまうかもしれない。どう回答すれば樹里亜を傷つけず、どう折り合いをつければ自分が傷つかずに済むのか。
せめて同じ船に乗っていなかったら、せめて対等な関係であったなら。せめて自分が樹里亜に特別な感情を抱いてなかったら、いずれかの「せめて」が英子を悩ませている。
和美が生きていたら……と考えた。自分がもし、渕上の言うよう樹里亜に和美の影を見ているのならば尚の事、樹里亜の気持ちを受け入れるのは樹里亜に対して極めて無礼なことだ。
自分の元へ挨拶に来た樹里亜の両親の顔を思い出した。厳格な両親であり、樹里亜が漁師になることに激しく反対していたあの二人は最終的に、よろしくお願いします、と頭を垂れてきた。大きな不安を孕んだ並々ならぬ思いがあっただろう。英子はその肩に、樹里亜の未来を託されていた。
自分には樹里亜を、立派な漁師にする義務がある。そのためには、自分の都合や感情に左右されてはならない、と。たとえそれが自分の気持ちを諦める形になったとしても、果たさなければならないことなのだ。自分には和美を守れなかった。せめて樹里亜だけは、死に物狂いで守らなければならない。
今の自分に、樹里亜の想いを受け入れることはできない。だからといって樹里亜を船からおろすことはないだろうが、樹里亜ならば以前の二人のように、何も変わらず頑張って漁師の仕事を続けてくれるだろう。そう考えた英子は腹をくくり、その旨を樹里亜に告げることにした。
「聞いてね、樹里亜。あなたの想いはきちんと伝わった。とっても嬉しい。それは嘘じゃない。けれど、やっぱり私は樹里亜をそういう目で見ることは――」
震えた声の英子が言い終わる前に突然、アッパーカット丸の船体後部が海中から何かに押し上げられたように、船体が前方へとわずかに傾き始めた。
不意をつかれた事態に、英子は思わず身体のバランスを崩して足を滑らせる。
「うわ、ちょっと、何……」
前のめりになった英子の身体は、そのまま樹里亜の身体を巻き込んで覆いかぶさるようにしてボートの上に倒れ込んだ。
英子の唇が、なにか柔らかいものに触れた。前歯には固いものとぶつかった軽い衝撃があり、英子はすぐに自分が倒れた拍子に、樹里亜と唇を重ねてしまっていたことに気がついた。
急いで身体を起こして唇を引き剥がすと、樹里亜は呆気にとられた表情を浮かべていた。
「あ、ごめん! 樹里亜、大丈夫? 私、そんなつもりじゃ」
英子の話が聞こえていないのか、目も合わせずに呆然としていた樹里亜は、やがてゆっくりと身体を起こすと自分の唇を細い指で撫でながら言った。
「……嬉しい。英子さん、私とおんなじ気持ちでいてくれたんですね。しかも、私の告白受け入れてくれただなんて、私、とっても嬉しいです!」
「え?」
濡れた瞳で笑顔を浮かべながら、勢い良く立ち上がった樹里亜は、英子にタックルをお見舞するかのような速度で抱きついた。普段の漁で鍛え抜かれた英子の身体にも、なかなかの衝撃が伝わる。
樹里亜がなにか勘違いしていることに気付いた英子が、その身体を引き剥がそうとしながら弁解を続けた。
「ち、違うのよ樹里亜。これはね、ちょっとした事故で。いや、おんなじ気持ちっていうかそれは、その……」
「でも、突然押し倒してキスをするなんて、強引すぎますよ。私、今のがファーストキスだったのに。でも海の女はやっぱり、これくらい力強いのが当たり前なのかな……ほら、英子さんって漁でも結構力技なところあるから」
気分が高揚している。堰を切ったように、樹里亜は言葉を吐き出し続けた。なにかひとりで納得しているようであり、英子の言葉に耳を傾ける姿勢を見せなかった。
英子は英子で、樹里亜の身体を引き剥がすのは簡単だったが、ゼロ距離で味わう樹里亜の感触を手放し難く、心臓は早鐘を打っている。
「ちょっと、ちょっと待ってよ樹里亜。話を聞いてくれない? 私は」
「でも私、英子さんだったら全然強引でもOKです。そういう勇ましいところも、英子さんの魅力なので。はあ、でも嬉しい。両想いだってわかっていたなら最初からウジウジせずに告白していたのに。危うくよくわからない男に嫁ぐところだった。夢みたい。こんな幸せなことがあるかな」
「ねえ樹里亜。ちゃんと聞いて。だから私はね、あなたのことを」
「英子さん、私、貴女の船にいてもいいですか? これからもずっと英子さんの船で、英子さんの隣で漁をしてもいいですか?」
「えっ……いや、それは、全然いいんだけれど」
すると英子の身体から離れた樹里亜は、喜びのあまり甲高い嬌声を上げた。
「嬉しい……!! 不束者ですが、末永くよろしくお願いします」
「やっぱり樹里亜なんか勘違いして……いや、勘違いではないんだけれど、あれ、なんかおかしいな……」
全身で喜びを表しながら、感情の赴くまま歓喜に打ち震える樹里亜を見ていると、英子の中の戸惑いや諦めが、強い風にさらわれていくように散り散りになっていく。樹里亜の若さが持つ勢いに、そのまま英子の心まで飲み込まれそうになり、飲み込まれてもいいのではないかという思いまで芽生えていた。
しかし、そういうわけにはいかないのだ。きちんと説得を試みようと英子が動き出すと、再び船体が持ち上げられるように揺れ始め、またしても床に倒れ込んだ二人だったが、今度は先程とは打って変わって、樹里亜が英子の身体にまたがる格好になってしまった。
すると、樹里亜は勢い良くTシャツを脱ぎだして、上半身は汗の染み込んだタンクトップ姿になり、まっすぐと英子の瞳を見詰めた。月明かりに照らされた樹里亜の姿を見上げる形になった英子は、その艶かしく怪しい魅力に、思わず生唾を飲み込んだ。
「ちょっと、樹里亜、貴女何してるの」
「大丈夫です。私、もう覚悟はできているんで。どうぞ英子さんの好きなように……でも、初めてだから優しくしてくれたら嬉しいです」
「いや、そういうことじゃなくて! ああっ」
餌を与えられた犬のごとく、樹里亜が勢い良く英子の首元に唇を這わせる。柔らかな感触が英子の敏感な部分をすべり、英子は自分の耳が熱くなっていくのを感じていた。樹里亜の体臭が英子の鼻腔をくすぐると、やがて熱は全身へと行き渡り、脳の奥がチリチリと焼け付く感触に見舞われた。
「英子さん。私ずっとこうしたかった。私の大海原はもうこんなに面舵いっぱいで大漁なんです。英子さんだって、とっくに一本釣り状態なんでしょう?」
このままでは樹里亜のペースに飲み込まれてしまう。それだけは避けなければ、と英子は思った。すでに英子の自制心はタガが外れかかっている。樹里亜が唇を離す。胸元のゆるくなったタンクトップからは、日に焼けた樹里亜の胸の谷間が覗き、英子は頭を殴られたような衝撃を受けた。
「私も自信はないけど、精一杯頑張るんで、悦んでもらえたなら……」
「待ってよ、樹里亜。落ち、落ち着いて……」
樹里亜の手が英子のシャツに伸び、引き締まった腹部をさする。互いの身体はすでに、指先まで焼け付くような熱が通っていた。
「はあっ、英子さん……!! ヨーソロー!!」
「ちょっと待って、樹里亜、その、私、あー」
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