第4話

 船の点検を終えた英子は港に備え付けられた喫煙用のベンチに座り、冷たいコーヒーを喉に流し込んでいた。すでに一日の仕事は全て終えているが、これといった趣味のない英子にとって家に帰ってもやることはなく、水平線を眺めながらぼうっと呆けているだけでも充分だった。

 樹里亜に向かい、休みは家でゴロゴロしているだけじゃないか、と口にした英子だったが、人の休日に口を挟めるほど自分もたいしたことなどはしていなかった。映画館も、ショッピングモールもない田舎の港町では、こうして何事にも追われずにのんびりとすることが、一番の贅沢だと英子は思っている。

 樹里亜はすでに港を後にしていた。先程の間接キス、樹里亜が隣に座ったときに感じた焼けた肌の艶、汗の匂いに混じった特有の香りが鮮烈に蘇って、英子はその度にわずかな衝動を感じ、そわそわとして己の下唇を指でなぞる。


「英子、またここにいたのか」


 声のした方向に振り向くと、爆竜丸の船長である渕上が姿を見せた。

百八十七センチもある巨体を包むガッチリとした筋肉と浅黒い肌は、五艘の船と数十名の乗組員を率いる海の男の迫力を後押ししている。油にまみれたつなぎを着て、いつものようにギラギラとした眼光を宿した瞳で英子を見ていた。


「渕上さん、お疲れ様です。まだ業者との仕事が終わってなかったんですか」


「いや、俺は今日、漁に出なかった。野暮用があってな」


「へえ、珍しいですね。親の葬式の日にも漁に出ていた渕上さんが」


「それより英子、今日は海に何か異変はなかったか」


 渕上は英子の隣に腰掛けると、煙草に火をつけた。


「いえ、特に何も……もしかして、この間転覆した鈴木さんの船に関してですか。鈴木さん、まだ見つかってないんですよね」


「お前だってわかっているかもしれんが、鈴木はもう生きて戻ってはこない。海で生きているならこれはもう仕方のないことだ」


 英子は何も言わずに再び地平線へと目を向けた。渕上と鈴木は三十年来の漁師仲間だった。この渕上の諦めが決して冷淡なものではなく、海に生きる者の覚悟であることを英子は知っている。亡骸も拾えないことを、一番に悔しがっているのは渕上なのだ。

 渕上はこの港で働く漁師達の中でもボス格の存在であり、誰よりも漁師達からの熱い信頼を集める男だった。英子が初めて乗った船も渕上の統べる爆龍丸であり、右も左のもわからない英子に漁のイロハを叩き込んだのも渕上である。


「結局、鈴木さんの船がなぜ沈んだのかはわかったんですか。海保からはまだ何も言われてないんでしょう?」


「保安庁はもう頼りにならん。まあ、俺がなんとかするさ」


 英子は渕上の顔を覗いた。なんとかする、ということは、何か理由を見出した、ということだ。渕上は自分に何かを隠している。


「それよりも英子、あの娘はどうだ。泣き言なんか言ってないか」


「樹里亜のことですか? 最初はどうなることやらと思ってたんですけれど、よくやってくれてますよ。段々、船乗りとしての姿が板についてきたというか」


「俺も最初は不安だったよ。なんせ箸より重いものも持ったことなさそうな嬢ちゃんだったし、初めて船に乗った日、港に帰ったらしこたま吐き散らかしていただろう。それでも次の日の朝には、フラフラになっても歯を食いしばって港に来たんだから、すぐに泣いて親に電話をかけていた、昔のお前よりは根性があったよ」


 急に昔の自分を引き合いに出され、英子はばつの悪そうな表情を浮かべる。


「でもまあ、ちゃんとやっていけそうでよかったよ。もしかするとあっさり、その辺の漁師んとこに嫁いで船から降りちまうかもしれないけどな」

 

 渕上のその言葉を耳にしたとき、英子の心に冷たいものが降りてきた。思わず衝動的に、まだ吸い始めたばかりの煙草を揉み消した。


「私が船に乗せるって決めた子だから、樹里亜は伸びますよ。そのうち自分の船が持てるくらいにはなってほしいです。男にうつつなんか抜かさないで、今はしっかり私のところで漁師として成長していって、そうだ、将来的にはアッパーカット丸の二号でも任せられれば……」


 何かをごまかすように早口でまくし立てる英子の横顔に、渕上が刺すような視線を向ける。


「英子、これはあまり掘り返すことじゃあないかもしれないが、お前まさか、和美をあの娘に重ねてるんじゃないだろうな」


 英子は何も答えずに、空を漂うカモメを見つめていた。それでも心中は穏やかではなく、細やかな焦りが荒波のように胸のうちを叩きつけている。


「あのよ、夢を託すのは自由だ。でもあの娘を和美の代用品のように考えるのはあの娘にも和美にも失礼だし、何より自分が惨めになるだけ――」


「そういうんじゃないです、考えすぎですよ。私はただ、あの娘に立派な漁師になってもらわないと、お願いしますと私に大事な一人娘を託した、樹里亜の両親に申し訳が立たないだけです」


 渕上の言葉を遮るごとく、言葉をまくし立て、それから大きく息を吐いた。

 和美というのは、英子と同じ日に同じ歳で漁師としての一歩を踏み出した女だった。異なる船に乗ってはいたが、同い歳でしかもこの港には二人しかいない女性漁師、お互いに駆け出しで不安や苦労も多い中で支え合い、気が付けば親友のように仲良くなっていた。船酔いに弱い和美はいつも百ミリリットルの酔い止めを飲んで漁に出ていた。距離を縮めた二人はやがて、将来は二人で一緒の船で漁をしようと誓い合うほどに互いを想う関係になった。

 そんな関係に終わりがきたのは、二人が漁師になって二年、数少ない休日に、英子と和美が二人で海水浴に訪れたときだ。仕事で毎日海を眺めているのに、休みの日にまで海に行くのか、という意見もあったが、二人で遊べるのならばどこでも構わないと英子は思った。

 二人だけの楽しい時間は、小学生の男の子が遊泳禁止区域で溺れている姿を見つけるまでだった。監視員もライフセーバーもいない状況で、泳ぎの得意な和美が真っ先に浮き輪を抱えて海へ飛び込み、溺れている子供に浮き輪を渡すと、子供はなんとか浜辺までいけたが、和美の姿は突然、何かに引きずり込まれるように海面の下に沈み、海上保安庁が捜索にでたものの結局はそれ以来、和美の行方はわからぬまま、おそらく何らかの理由で溺れてしまったのだろうと結論付けられ、遺体はおろか遺品すら見つかることなく捜索は打ち切られた。

 英子は三日三晩泣き腫らし、一週間は漁に出ることもできなかった。いよいよ誰もが、英子が船を降りて漁師の道を諦めるかもしれないと思ったが、英子の可能性を惜しむ者達の後押しによってなんとか漁に復帰することは出来た。

立派な漁師になることが和美への供養に繋がるのだと、英子は自分に言って聞かせていた。自分の船を持てるまでになったのも、そうやって自分に発破をかけていたからこそできたことだった。


「さっきも言ったが、この海でそれなりのことがあれば、希望を抱いた分だけ悲しみを背負うことになる。過剰な期待を背負わせずに、あの娘は伸び伸びと育てていくんだ」


「わかってますよ。つまらない憶測を言いにここに来たんですか」


「そんなわけじゃないが、俺はお前やあの娘を心配して言ってるんだ」


「気持ちはうれしいですけど、大きなお世話ですよ。いちいち口うるさいの、渕上さんの悪いところですよ」


「お前な、先輩の言うことはちゃんと……」


「なんにせよ、渕上さんが考えているようなものではないですよ。それに、樹里亜のことは私が、『船長』としてしっかり守ります」


 英子は立ち上がり、渕上に背を向けた。


「英子、責任感はいい。だが、お前もあまり気を張るな。今では違う船に乗ってはいるが、俺はまだお前を大切な部下だと思っている」


 ありがとうございます、とだけ答えて英子は歩き出した。

 自分が樹里亜と和美を重ねている、と言われて焦ったのは、それが図星であるという自覚が英子にあったからだ。

 自分が和美に抱いていた感情は、おそらく親友に抱くそれとは違う、愛情の形だった。ついに和美に対してそれを口にすることはなかったが、同じ日、同じ歳で、同じ夢を抱いた和美と出会ったのも別れたのも、何らかの宿命のように思えたうえ、樹里亜が自分の元へ訪れたのも、見えない業に魂の引力が作用して、二人を引き寄せた結果であるように思えた。

 そうなると、自分は樹里亜のことをどういう存在として捉えているのかということを考えると、英子の心の燻りが、闇に溶け込むように大きくなっていく。妹のようにかわいがっているか、あるいは娘か。本当に単なる乗組員としてだけ見ているのか。もしも渕上の言うように、樹里亜の中に和美の幻影を追っているのであれば、自分は樹里亜のことを、もっと特別な想いで見ているのか。

灘のような思考が英子の中を巡って、波の音すら聞こえないほどに、英子の意識は己の深い場所を見つめていた。




 船外機付きの二人用貸しモーターボートに乗って、優と伊代は海原へと出た。日差しと風は先程までより弱くなり、優しい凪があてのない二人を包んでいた。


「魚ってなかなかいないんだね」


 海の中を覗き込むように、船体から伊代が身体を乗り出す。


「あんまり顔を出すと、海に落っこちるよ」


 顔を上げた伊代が優の方に微笑みかけると、優の中に深く、暖かな感情がこみ上げてきた。わずかな日差しを海面が照り返し、伊代の顔を柔らかく彩っている。二人は浜辺から数十メートル離れたところでボートを停めた。


「伊代、なんだかいつもより美人に見えるよ」


「えっ、いつも美人でしょ」


 そう言って伊代はわずかばかりの海水を左手ですくい、優に目掛けてかけた。


「ちょっと、やめてよ」


 二人が笑いあっていると、その頭上をトンビが鳴きながら飛び交った。


「優、今日は泊まっていくんだよね?」


「そうだよ。海から送迎バスで五分くらい走ったところに、ホテルをとってあるから。海の見える部屋だってるるぶトラベルに書いてあったよ。晩御飯に魚料理がたくさん出てくるらしいから、楽しみだね」


「ええ~、嬉しい。魚最高~」


「思い切ってこの辺で一番大きなホテルを取ったから。私達は貯金してばっかりだし、たまには贅沢もしないとね」


 伊代が屈託のない笑顔を投げかける。優は普段の生活を思い返す。優と伊代にとって口座の残高を増やすことはひとつの切り離せぬ宿題だった。現実的な側面、女同士の生活だと、人並み以上に貯蓄がないと不安が多いという部分があったからだ。

 休日がなかなか重ならないので、デートでお金を消費することも少なくなった。この日くらいは、お金に糸目をつけないでいようと思ったのだ。たまには何も気にせずに、思い切り羽を伸ばす日も、二人には必要なのだと。

 とはいえ贅沢なホテルも、綺麗な海も、結局は過ぎた飾りにしか過ぎなかった。何もない海の上でも、伊代と穏やかな時間さえ共に過ごせていられるのならば、優にとってこれ以上の充足などなかった。控えめに生きる毎日も、すでにかけがえのないものになっている。

 途端、少しずつ大きくなっていくモーター音が聞こえた。エンジンが勝手に作動してしまったかと思って優が確認したが、そうではない。やがて気づかないうちに、三十八フィートほどの大きなモーターボートが、自分達のボートに近付いていたことに気付いた。ボート同士が触れそうなほどに近づくと大きなボートはゆっくりと止まり、やがて見覚えのある下卑た笑顔が姿を見せた。


「あれれ~? お姉さん達、こんなところにいたんだ。探しちゃったよ~。急にいなくなっちゃうからさあ」


 洋介の顔を認めた瞬間。優は舌打ちをし、伊代は身体をすくめた。先程までの和やかな雰囲気が、急にねとつくような空気をまとい始める。


「ちょっと、そんなにボートを近づけたら危ないでしょうが」優が吠える。


「ごめんネごめんネ~。でも二人ともドイヒーだよ。一体どこ行ってたんだよ。探したんだぞ~。おつかいから帰ってきたら、急にいなくなったんだから。もしかして泡になって海に帰ったのかなと思ったよ。あ、人魚じゃなかった?」 


 優は一分一秒でも、こいつらの近くにいてはならないと思った。優はエンジンに手をかけようとしたが、先に動いたのは洋介のほうだった。


「お・ま・た♪」


 往年の松嶋菜々子のような挨拶をすると、洋介は自分のボートからひょいと飛び降りて、優と伊代の載っているボートへと着地した。その衝撃で小型ボートは大きく揺れ、優と伊代は小さな悲鳴を上げると、慌ててボートの縁を強く掴んだ。洋介は身体のバランスを整えながらも、その笑みは崩さない。


「あんた何考えてんの、バカじゃないの? 勝手に乗ってくんな。これは二人乗りなんだから、さっさと戻ってよ」


「そんなこと言わないでよ。ほら言われたとおりにジュースと食べ物買ってきたからさあ。そっちが俺達を使い走りにしたんだから、冷たい態度を取らないでよ。きっちりお礼してもらわないとさあ」


 優と伊代の間に立っている洋介の右手にはいくつかの缶ジュースとスナック菓子の入ったビニール袋がぶら下がっていた。


「ジュースなんか要らないって。私達に近づくなってハッキリ言わないとわかんないの? いいから帰ってよ。海に叩き落とすよ」


 優の中に強い怒りが募る。洋介の背後で、怯えたように身をすくめている伊代の姿が、洋介に対する怒りをさらに強くさせた。


「いいじゃんか。船は二艘あるんだし。二手に分かれて楽しめばさあ。こんなただっ広い海で、ただダラダラ船漕いでるだけじゃつまんないでしょ」


「お気遣いは結構。私達は私達だけで充分楽しいって言ってんの。水差してんじゃないよクソ。いい加減にしないと人を呼ぶよ?」


「こんな海の上じゃ、叫んだってわめいたってってくるわけないでしょ。おいお前ら、ひとりもらってけ」


 すると、洋介のボートから身を乗り出した二人の男達が腕を伸ばし、怯えている伊代の両腕を掴んだ。伊代が驚いた瞬間にはもう遅く、よいしょ、という掛け声と共に伊代の身体は引き上げられ、いともたやすく洋介のボートへと引きずり込まれた。


「伊代! ちょっとあんた達、一体何すんの!」


 伊代の小さな悲鳴が聞こえた。優が立ち上がろうとすると、洋介が目前に立ちはだかった。いざ目と鼻の先の距離に近づくと、その身体は大きく、ゴツゴツとした筋肉に包まれていた。


「やっと二人きりになれたね。お姉さん、水入らずでたっぷり楽しもうよ」


洋介達のボートが動き出し、二つのボートの距離が離れていく。優が再びエンジンに手をかけようとすると、それよりも早く洋介の腕が伸び、優の手首を強く掴んだ。激しい痛みと圧迫感が走る。


「何すんの、離してよ! 触んじゃねえよクソ!」


「ほら、向こうも三人でお楽しみしたいって。邪魔しちゃ悪いでしょ」


 大きなボートの方から、優の名を呼ぶ伊代の悲鳴に混じって、男達の笑い声が聞こえてきた。


「やめてよ! 伊代に手を出したら殺すから! あんた達三人、絶対ぶっ殺してやるから! 近づくな、離れろクズ野郎!」


 優は洋介の腕を振り払うべく懸命の抵抗を試みたが、洋介の握力は強く、体格差も歴然だった。やがて洋介が押し出すように手を離すと、優は勢い余って倒れ込み、ボートの上で尻餅をついた。


「おいおい、あんまりな言い草だなあ。お姉さん、言ってもそんなに若くないでしょ。女二人で寂しそうにしてるから、一緒に遊んでやるって言ってるんだから、むしろ感謝してほしいくらいだよ。それになに、お姉さん達レズだって? それって男とやったことないからじゃないの? 俺が男の魅力をしっかり教えてやるよ」


「何が魅力だよ、クズ! 離せ! 伊代を返してよ! ケダモノ! 殺す! 殺してやる!」


 泣きわめくような伊代の悲鳴が耳に刺さるたびに、早く助けなければという焦りと、目の前に立ちはだかる男への恐怖が相対する。


「お姉さん、お腹空いてるって言ってたでしょ。だったら俺のウナギをたっぷりいただきなよ。絶滅危惧種で貴重だよ?」


 獣に言葉は通じない。もはや抵抗も意味がなく、威勢だけで立ち向かったところでどうにもならないと踏んだ優は、諦めを抱きつつ最後の策に出た。


「伊代! お願いだから伊代だけはやめて! 私になら何をしてもいいから、伊代には手を出さないで!」


「あいつら筋肉バカだから、俺が言っても聞くかなあ。あ、どうせなら五人で楽しむってのはどう? 最高じゃんか、ねえ?」


 せっかくの懇願にも洋介の下劣な笑みはわずかばかりも揺らぐことがなく、優は絶望の底に叩き落された。このまま二人して、目の前にいる世界一おぞましく醜い生物に嬲りものにされてしまうのか。誰も救いの手を伸ばさないこの海の上で、殺されて捨てられたって気づかれないような場所で、自分達はあらゆる尊厳を踏みにじられ、苦痛の中で魂を切り刻まれるのか。

 伊代だけでも助かるのなら、自分は四肢を千切られても目をえぐり取られても構わなかった。それなのに、どうして伊代までこんな目に合わなくてはならないのか。悔しさが胸から叫びとなって出てきそうだった。

 気が付けば、すでに伊代は悲鳴さえもあげなくなり、男達の笑い声も消えていた。最悪の可能性を想像して、優は洋介達のボートに目を向ける。


「お、あいつら静かになったな。どうやらお姉さんの連れ、もうお楽しみモードに入ったらしいね」


「伊代、伊代!」


優がすがるような思いで伊代の名を叫ぶ。すると、洋介達のボートから、伊代がすっと顔を覗かせた。距離が出来ていたのでわかりにくかったが、その頬には涙が流れていた。


「伊代、無事なの? あいつらは!?」


「い、いない……」


 伊代は小さくかぶりを振った。


「どういうことだよ。おいケンジ、マサヒコ、なにしてんだ返事しろ!」


 洋介が叫ぶ。ボートの縁を掴み、這いつくばるように姿を見せる伊代。酷く混乱し、恐怖と絶望を一身に受けたことが、優には痛いほど伝わっていた。


「無事で、無事でよかった、伊代。あいつらは……あの男達は本当にいないの?」


 伊代は戸惑いながらも、途切れ途切れに言葉を発していた。


「な、なんか……大きくて、くろ、黒いものが……ふっ、船の上を、横切って……そしたらあいつら、急にいなくなって……」、


「は? どうなってんだよ一体……くそっ、とにかく自分のボートに戻るしか」


 洋介が優をまたいでエンジンに手をかけようとした。それを見過ごす優ではなく、洋介の足に力強くしがみつく。


「あんたみたいな野蛮人、伊代のところに行かせるわけないでしょ」


「お、おい。邪魔すんじゃねえよ。落っこちたら危ねえだろうが!」


 優がそのまま思い切り立ち上がると、洋介はバランスを崩して勢い良く海へと落下した。


「あああ! このアマ、なんてことしやが……」


 救命胴衣が膨らみ、海に浮かんだ洋介が吠えていると、突然、洋介の周辺の海面がインクを落としたように赤く染まりだす。

 記憶の中にある臭いが、海面から漂いだした。それが血液の持つ特有の生臭さであり、その赤みが血の色であることを全員が理解した、その瞬間だった。

 猛獣の叫び声のような轟音と共に海面が大きく盛り上がり、洋介の身体が持ち上げられた。小型ボートは大きく傾き、唐突の事態に優は咄嗟で、海に落とされぬよう船体に強くしがみついた。

 やがて盛り上がった海が破裂すると、大量の水しぶきを舞わせながら、内部より巨大な黒い塊が姿を見せた。激しい波がボートを揺らす。大粒の水しぶきが優の全身に降りかかり、いくつもの小石をぶつけられたような痛みを感じた。太陽の光が影を作り、黒い塊の詳しい姿は見えなかった。

 黒い塊に跳ね飛ばされた洋介の身体が宙を飛ぶ。黒い塊はそのまま空中でぐるりと一回転すると、再び海へと沈んだ。波はさらに激しさを増し、優はただただ必死に、ボートが転覆せぬように祈っていた。

 海中に戻った黒い塊は、何事もなかったかのようにそのまま深くまで沈んでいった。海面にはまだ、勢いのついた波が踊っている。

 高らかに舞い上がった洋介の身体が、大きな音を立てて優のいる小型ボート内へと落下した。洋介の身体がボート上を転がり、優と伊代は呆然としたまま、激しく揺れる波を見つめていた。


「痛ってえぇぇ! なんだよ、今のは一体何なんだ」


 全身に痛みを覚えながら身を起こした洋介は、すぐに自分の肉体に起きた異変に気が付いた。洋介の穿いている迷彩柄の水着は真っ赤に染め上がっており、股間の部分から小さな噴水のように血が吹き出している。


「あ……ぎゃああああ! ああ、おああああああああんあんあんあああ!」


 洋介は思わず股間を抑えた。そのとき初めて、自分のものがなくなっていることに気付き、次第にその部分から激痛を覚え始める。

 自分の背後で洋介が叫んでいるのもどこ吹く風、呆然と海面を眺めていた優は、ハッと我に返って、再びエンジンに手を伸ばし、モーターを起動させた。

 小型ボートが伊代のいるボートに近づき、手が届く距離まで接触すると、優は逸る気持ちを抑えきれず、伊代のいるボートへと飛び移った。

 互いの姿を見つけると、二人は強烈な安心感を覚え、強烈な磁力で引かれ合ったかのように、どちらともなく恋人の元へと駆け寄る。


「伊代、大丈夫? ケガはない? 何もされなかった?」


「だ、だい、大丈夫、大丈夫…‥…」


 そうは言っているものの、伊代の身体は小刻みに震えていた。混乱や動揺がまだ、身体を強く縛り付けており、それは優も同様だった。

共に身体は冷え切っていたが、互いに強い温もりを感じていた。ずっとそうしていたかった優だったが、それどころじゃないこともわかっていた。


「早く逃げよう、ここはなんだか危ないよ。なんで、なんでこんなことに」


 優がおぼつかない足取りでエンジンへと向かうと、ボートにもうひとりの来客が這いつくばりながら乗り込んだ。すでに下半身のすべてが真っ赤に染まっていた洋介は、くぐもった声を上げて倒れ込む。

 その光景を見た伊代が悲鳴を上げた。どうにかしたかった優だったが、今は一秒でも早くこの場から逃げ出し、浜辺に着くのが先だと思った。あの怪我では、洋介も伊代に手出しはできないだろうと踏んだからだ。

 モーターを起動させて優が海上を覗き込むと、視界に映ったあるものに全身が硬直した。まだ赤く染まったままの海面から、大きく黒い三角状のものが姿を見せ、船の横を泳ぐようにしてうろついている。


「サメ……ここにはサメがいるの? でも、あんな大きいの、そんな。早く、早く帰らないと……」


 矢継ぎ早に押し寄せる脅威にいい加減吐き気がこみ上げながらも、優は気丈に振る舞い、ボートを出発させた。振り返ってちらちらと背ビレの姿を確認したが、背ビレは優達を追ってくる気配を見せず、その場に佇むばかりだった。


「あああ! 痛ェ、助けて、助けてくれよぉ、早く病院にい……」


 大量の涙を流して顔をくしゃくしゃにしながら、ボートの上を転がりまわる洋介が、懇願の声をあげて優を見つめてきた。股間からどくどくと流れ続ける血が、床を汚く汚している。先程までの洋介の行いを思い返した優の中にふっと激しい怒りが蘇り、衝動に突き動かされるままゆっくりと洋介に近付いた。

 優は足を高く上げ、真っ赤に染め上がった洋介の股間の傷を目掛け、力の限りにビーチサンダルで踏みつけた。ズシャッという鈍い音と共に、洋介が強烈な悲鳴を上げる。


「ぎゃああああん! ヲうヲうヲう」


「こいつ! こいつ! お前が、お前さえいなければ!」


 優は止まらず、そのまま何度も股間を踏みつけ、その度に洋介の悲鳴と、傷口をえぐる音が響き、血が噴水のように吹き出しては優の足を汚していった。


「やめろお! やめろおおお!」


「うっさいんだよ、さっきから! 自分のしたこと考えろよ! 海に捨てられないだけ感謝しろクズ野郎!」


 そう言って優は、血の付いた足を振り上げて洋介の大きな鼻っ柱をめがけ、力任せにトーキックをお見舞いした。洋介はくぐもった声をあげて転がると、股間を抑えつつただただ震えるばかりだった。

 泡を吹いている洋介から離れると、優はひとりで膝を抱えて震えている伊代に近付いて、その肩を抱きしめた。


「伊代、もう大丈夫だから」


 優は振り返り、先程まで自分達のいた場所を見詰めた。そこにはまだ、あの大きな背びれが佇んでいる。

 やはり、背びれはボートを追ってこない。巨大な血溜まりの出来た水面で、じっとしているだけだった。不思議なことに優には、まるで背びれが自分達が無事に沖へと帰るのを見届けているかのように見えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る