第3話
海水浴に訪れた客の姿がまばらに伺える砂浜には、海の家などといった派手なものはなく波の音と子供の声が響くだけだった。
終わりゆく夏が最後の置き土産のように、陽の光を強く照りつけている。脱衣所でお互いにサンオイルを塗りあった優と伊代は、水着姿になりビニールシートに座って水平線を眺めていた。
本当はもっとお互いに、砂浜や海の中をはしゃぎ回っているものだと思っていたのだが、いざ海に出てみるとあまりの暑さに意欲が失せてしまい、波打ち際に足をつけてその冷たさを感じるのがせいぜいだった。二十代のときならきっと、なんの躊躇いもなく海に飛び込んでいただろうと思うと、優は少しばかり重ねた歳を恨めしく思った。
伊代の方はただただ波を見つめるだけでも充分に楽しめているようで、穏やかな笑みを絶やさなかった。伊代が満足しているのなら、それに越したことはないと思いながら、優は傾いたサングラスの位置を直した。
「あれ、もしかして女同士ってやつ? いいねぇ~。俺も混ぜてよ」
背後から軽薄そうな声が聞こえた。振り向くと、水着姿で色黒の肌に銀のネックレスをぶら下げた、短い金髪の男が立っていた。
「私達に何か用ですか?」
「何か用ですか、だって。いや、綺麗なお姉さん達を見つけちゃったから、ついつい声をかけちゃったってワケ。フゥゥウェエエイ」
「もしかしてナンパですか?」
優が訝しげな声を出した。表情は伺えないが、伊代のほうも身体がいささか強張ってきていることが伝わる。それまでの穏やかだった二人の空気が、突然の来訪者によって一気に硬直した。
「いや、ナンパってほどじゃないよ。ほら俺達って『綺麗なお姉さんに声をかけなきゃ死んじゃう病』じゃん。もう死に損ないの状態で浜辺を歩いてたら、あれれ~なんかイケてる二人組がいるぞ~?って思って、藁にもすがる思いで声かけちゃったんだよね」
「俺達?」
すると、金髪男の背後から似たような背格好の男達がさらに二人、現れた。伊代がさらに怯えたように、他人に尻尾を踏まれた犬のように、優の身体にしがみついた。それは優も同様で、心臓が早鐘を打つ。
男達の粘りつく視線が優と伊代に注がれる。値札を首からかけられたように不快感が迫りくる。
「ほら、なんていうか、夏? サマー? これいつか終わっちゃうって噂じゃない。だったらさ、最後にパーッと遊んじゃいたいなって思って、海にきたら、ほらドン。いました、女神。しかも二人。フィー、これ誘わないのウソでしょって思って。ほら、この海って海の家もないし、音楽も流れてないし、何より家族連れしかいないし、面白くもなんともないじゃん。ね、お姉さん達もそうでしょ。ぼうっと退屈そうに海を見てただけだし。そんなシーをシーするよりさ、俺達とシーシーなことしちゃおうよ。はい決まり、ウェェェイ」
優は周囲を見渡したが、遠くに家族連れがいるばかりで、監視員は不在だった。意を決し、緊張で乾いた口で言った。
「残念だけど、私達ナンパ待ちじゃないんで。他所行ってくれる?」
「またまた。さっきからずっと二人で座ってただけじゃん。どうせ彼氏もいないんでしょ?」
男達の薄ら笑いが日差しに包まれることでさらに強調される。それは突然顔に飛びついてきた害虫のように、気色悪さの中に特有のしつこさを見出させる。
普通に断るだけでは、引き下がらない相手だ、と思った。だからといって感情的になれば、何をしてくるかわからない。力ではとてもかなわないし、時間もかけたくない。優はとっさの賭けに出た。
「この子が私の恋人だから。男いらないんだ。わかったら諦めて帰ってくれる?」
そう言って、伊代の身体を引き寄せるようにして抱きしめた。こうすれば多少なりでも、伊代の不安を和らげることも出来るかもしれないと思ったからだ。
男達は一瞬ポカンとした表情を見せたが、やがてけらけらと小さく笑った。
「ちょっとちょっと~、そういう断り方ってベタだよ。お姉さん、ナンパ慣れしてないでしょ? 堅そうだもんね~、前世はフランスパンかな?」
「本当に付き合ってるから。他所行ってね」
優は引き下がらない。伊代はきっとパニックになっているだろうと思った。
しかし男達は優の言葉を全く信用していないようだった。
「お姉さんも冗談が長いな~。あ、お姉さん達っていわゆるアレ? YMCAとかCQCQとかってやつ?」
「バッカ、お前。LGBTだろ。ヒッヒヒ」
「それそれ。そのPPAPってやつでしょ。今流行ってるもんね~。大丈夫大丈夫。俺達レズとかホント気にしないタイプだから。むしろ俺らからしたら二倍で更にお得、みたいな? ていうか同性と一緒とかぶっちゃけ燃えないし面白くないでしょ」
思わず吐き気がこみ上げそうなほどの不快感だった。この世の害悪をすべてかき集め、一滴残らず絞り出したように濃密な気色悪さ。ただ否定するだけでは到底太刀打ちできない。
優は考え方を改めた。押して駄目なら、引いてみることにした。
「ねえ洋介。ちょっとジュース買ってきてよ」
「俺? 俺の名前は洋介じゃなくてタカシだけど」
「いいんだよ、アンタは斎藤洋介に似てるから洋介なの。ちょっとそこのコンビニで飲み物買ってきて。私たち喉乾いちゃった。あ、あとの二人は何か食べるもの買ってきてね。私達ここで待ってるから」
一瞬、その場の空気が止まった。男達を追っ払うための口実であり、一か八かといった言葉だったが、男のひとりが洋介に対し、どのみちゴムが必要だから、と耳打ちした。すると洋介の表情がさらに下卑た笑みを強調し始める。
「オーケー。ジュースくらい何本でも買ってあげるよ。お前ら、速攻でコンビニ行くぞ」
洋介達がその場を後にして、その後姿が小さくなるのを確認すると、優は立ち上がりながら伊代の手を引いた。
「伊代、大丈夫? 怖かったでしょ」
「うん、大丈夫。まさかこんなに静かな海にも、あんな人達がいるなんて」
伊代の手は緊張から汗が滲み、指先まで冷たくなっていた。せっかくのデートに水を差され、また伊代を怯えさせる結果になってしまったことに、優は洋介達に対し、強い苛立ちを覚えた。
「伊代、洋介達が戻ってくる前に場所を変えよう。今度は日陰にいこっか。確か最寄りのコンビニまで、歩いて五分くらいだったし。あいつらが来るまで時間があるでしょ」
頷いた伊代の手を優が引き寄せ、ビニールシートを回収すると、二人は離れた場所にある日陰を探して歩き始めた。
「ねえ、優。どうしてあの人達に、私達が付き合ってるって言ったの? ナンパを断るためとはいえ、ちょっと驚いちゃったんだけど」
「ごめんね、ひとりで勝手にあんなこと言っちゃって。あれくらい言えば、信じなくとも自分達に興味が無いんだと思って引き下がると思って。なんかあんまり効果は無かったみたいだけど。嫌だった?」
「イヤというか、ちょっと複雑で……知らない人に二人の関係を、簡単に言っちゃっていいのかなと思って」
「簡単になんか言ってないよ。本当の事を言ったって、ああいった下半身に脳みそが付いてるような奴らは私達のような関係は信じないだろうし、四回死んでも理解もできないでしょう。嘘か冗談だとしか思わないって。仮にあいつらが私達の言葉を信じて、変な目で見てきたってそれがどうしたのって。私達は後ろめたいことをしているわけじゃないんだから、堂々としていようよ」
「優は強いね。そういうところ、好きだよ」
「そんなことないよ。すごいビビったんだから。ていうかあんなやつら死ねばいいのに。死ねばいいのに!」
伊代は自分の手を伝わる優の握力が、ぐっと強くなったのを感じ、優の抱いていた怒りや不安は自分が思っていた以上のものだとわかった。一ミリだって自分達に非があるわけではない、悪いのはすべてあの男達なのだとはわかってはいたが、自分も怯えてばかりいないで、もう少し強ければ伊代の負担の肩代わりもできたのに、と自分を責める気持ちがどうしても溢れてきてしまう。
砂浜からだいぶ離れ、岩場までたどり着くと、小さな洞穴があった。日陰になっており、風当たりもよく、何より人が訪れない。二人はそこにビニールシートを敷いて座った。
人目を気にしなくていいとなると、伊代は先程のこともあり安心したようで、優の肩に身を寄せてきた。優は伊代の手を握った。サロンが開けるまでになったとはいえ、元来は人見知りの激しい性格だった伊代にとって、あの男達は余程の恐怖だっただろう。
しばらく二人で肌を寄せ合っていると、強い安心感からか余計なことを考えるようになった。優が視線を下ろすと、自分の腕に密着した伊代の胸の谷間が見える。水着という普段とは違う装いと、首筋に滴り落ちる汗が、優の情欲を刺激した。
二人の視線が重なると、どちらからともなく唇を重ねた。先程の恐怖からの開放感が、二人の互いに対する欲求を膨らませ、情動を激しく揺り動かしている。寄せては返す波のリズムが心地良い。
優が伊代の首筋に唇を寄せると、伊代はわずかばかりに抵抗した。
「だめだよ、誰かに見られたらどうするの」
それでも優は止まらなかった。伊代も、実は本気で止める気などなかった。
「だめだって、優。あっ」
◆アワビのステーキ(二人前)◆
材料
・アワビ……二枚
・バター……五グラム
・醤油……30cc
・白ワイン……80cc
・オリーブオイル……適量
一、 殻から外したアワビは肝を外し、塩と片栗粉で揉んで水洗いし、汚れやぬめりをしっかりと取る。
二、 熱したフライパンにオリーブオイルを垂らし、アワビの片面を強火で焼く。
三、アワビをひっくり返し、白ワインを入れたら中火で一分蒸し焼きにする。
四、残った油に醤油、バター、潰した肝を入れてソースを作り、完成。
※仕上げにフライドガーリックをまぶしてもOK。
乱れた水着を直しながら、二人は少しばかりの反省をしていた。頭の悪い若者ならばともかく、二人とももう三十路なのだ。いくら開放的な気分になったからといって、野外で事を致すのはさすがにどうなのか、と。それでもお互いに、普段よりも「盛り上がって」しまったのは確かだった。
「優ってば……こういうことはもうなしね」
「気をつけます……」
さらりと伊代に窘められ、優は自己嫌悪に陥る。とはいえ先程の伊代は、とても可愛らしかった。優にとってはいつも愛くるしい存在ではあるのだが。
そのとき、優はなんだか強烈な視線のようなものを感じ、思わず周囲を見渡した。
「優、どうしたの?」
「いや、なんか……多分気のせいかも」
一瞬、洋介達がここまで来てしまったのではないかと思ったが、耳を澄ましても聞こえてくるのは、波と風の音だけだった。こんな状況、もしも誰かに見られてしまっていたら最悪なのだが、これがあの下品な男達だったらと思うと生きた心地がしない。
ふと、波が少しだけ大きく揺れた気がした。なにか大きな魚でもはねたのだろうかと思い、気配の正体もそれかもしれないと考えると、優の不安は杞憂に変わった。
「気持ちが敏感になってるのかな」
「ねえ、向こうにボートがあるよ。ちょっと行ってみようよ」
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