第2話

 夏も終わりに近付いた八月の末になって、ようやくお互いにまとまった休みを取ることができた優と伊代は、過ぎゆく夏を噛みしめるために、二人で小旅行へと向かった。

 高校で教員を務める優にとっては、教え子たちが遊びに明け暮れる夏休みも、溜まった仕事を粛々と処理するための期間である。教職に就き始めた頃は夏を謳歌する生徒達を、羨ましく思い恨めしそうな目を向けたこともあったが、八年も勤めれば、生徒達の声に惑わされずに静かに仕事が出来ることがかえってありがたく感じられる程度には諦めを抱くようになっていた。

 この日はようやく取れた三連休の初日だった。恋人の伊代とかねてより計画していた一泊二日のささやかな旅だ。

 陽の光を弾く緑が生い茂る海沿いの路線を走る、まばらな客足のローカル線に揺られながら、窓の外に目を向けていると、目の前に座っていた伊代が読んでいた文庫本を閉じる。その頬は緩みきっていた。


「すごく嬉しそうだね」


 視線を恋人に移して優が話しかけると、伊代は少女のようにはにかみながら、この日のためにと自ら施した自分の爪の色を眺める。


「海なんてもう何年も行ってなかったし、それに二人で行く久しぶりの旅行だし。最後に行ったのはいつだっけ」


「同棲を始めた頃に、熱海に行ったとき以来かも。あれからすぐ忙しくなっちゃったよね」


 車窓から漏れる陽の光が、伊代の爪を光らせる。浜辺をイメージしたという白と水色のグラデーションが映えたデザインは、ネイリストである伊代にとって自信のこもった代物である。

 去年の春に伊代がビルの一室で開いた小さなネイルサロンは、料金の安さと確かな技術で地元の若い女性から高い評判を呼び、毎日予約で一杯になるほどの繁盛店となっていた。土日もなく働いているので、伊代も平日の定休日を除いては容易に休みを入れることができない。

 公務員とサービス業ではなかなか互いの休日を合わせることができない。二年前から同棲を始めた二人だったが、在宅時間がすれ違うことこそないものの、休日が重なることは極めて稀だった。優にとっても伊代のネイルサロンが繁盛することは嬉しいものの、以前と比べて二人の時間が減ったことには一抹の寂しさを感じる。

 しかし、優以上にそんな状況を憂いがちだったのが、寂しがりな伊代のほうだった。伊代にとっては海や旅行といった内容よりも、まとまった休日に落ち着いて二人で居られることに意味があり、何よりの喜びだった。


「それにしても優、××だなんてところ、よく目をつけたよね」


「うちの学校にそこ出身の先生がいて教えてもらったんだよね。めぼしい観光スポットはないけれど、海は綺麗で緑もあるし、静かなところだよって」


 二人が向かっている××は、二人の住む街から電車を乗り継いで二時間ほど揺られたところにある田舎町だった。漁業が盛んな一方、小さな海水浴場があり、一部のサーファーからは人気のサーフィンスポットとして知られている穴場の海岸もある。初日は海水浴を楽しみ、二日目は港の方へ行って市場を楽しむ予定だった。


「なんだかんだで私達も三十路でしょう。そうなると人気の多い海への泳ぎなんて、なかなかいけないしね」


「別に気にすることないと思うんだけど」


「伊代はいいよ。私と比べて肌も綺麗だし、スタイルもいいから。私なんて水着なんて着ようものならもう、単なる度胸試しになっちゃうから。それに人が多いと疲れるしね」


 優が持ってきた水着は、四年ほど前に買ったパレオ付きのシンプルなデザインのものだった。あれから多少体重は増えてしまったが、段ボールから取り出して試着してみると、特に問題はなさそうだった。

 一方の伊代は優よりもウエストが細く、胸も大きく、足も長い。どうせなら新しい水着が欲しいと、先週仕事終わりにショップへ駆け込み、可愛らしいデザインのワンピース水着を買ってきた。

 子供のように屈託のない笑顔を見せながら、買ったばかりの水着を披露する伊代の姿を見ていると、優は海に行くことを決めて良かったと思った。こうして目の前で微笑んでいる姿も、優にとっては何よりの褒美である。

 元々は教え子の姉だった伊代と知り合った四年前には、ここまで笑顔を見せることがなく、むしろ気難しい性格で誰に対してもそっけない態度を取る人間だった。たまたま同じビアンバーに通っていたことから仲良くなり、とんとん拍子に恋人へと進んでいった。それから伊代の性格は殻を破ったように柔和なものになっていき、伊代の家族からは公認の仲であるため、優と出会ったことで伊代の性格が柔らかくなったことを感謝されたのも一度や二度ではない。

 三十代の女二人で海になど行くと、周囲からは寂しいものだと思われてしまうだろうか。それでも今の自分達に、これ以上の幸福はない。優はそんなことを思い、こみ上げてくるものをひとしきり噛み締めていた。

 ふわりとした潮の香りが、窓の外からこぼれてきた。




 昼の出荷作業を終え、小型漁船・アッパーカット丸の仕事は終わった。この日の漁はほどほどの出来だった。日付が変わってもまだ月が空に昇っている頃にはまた仕事が始まる。港の男達は各々のやり方で今日の労をねぎらう。

 アッパーカット丸の船長、船越英子はひとり船に残ると、明日の漁のために船体のメンテナンスを行っていた。この最後の居残り作業が、英子のいつもの仕上げだった。わずかなメンテナンスの怠りが、大きなトラブルに繋がりやすいのが漁の世界であることを英子は知っていた。なによりつい最近、漁師のひとりが船を転覆させ、行方不明になったばかりである。

 計測器のチェックを終えると、操舵室のイスに座って一息吐いた。窓から見える水平線の向こうには、隣の県がぼんやりと見えた。

 高校卒業と同時に漁師となって十八年になる。男の群れの中に混じって海の世界で死に物狂いに働き、気が付けば自分だけの船とその乗組員をひとり抱えるほどには、漁の中で身を立てられるようになっていた。海の男達は優しく、自分が女であるという理由だけで除け者にしようという輩も全くいないでもなかったが、一生懸命に働いてさえいれば適切に振る舞ってくれた。性別ではなく働きぶりや根性のようなものが、この業界での絶対的な評価基準だった。

 煙草に火をつけて港の方に視線を移すと、卸の業者が魚の入った発泡スチロールを運び出し、トラックに詰め込んでいた。

 ふと、背後から足音が聞こえたので振り返ると、汗と泥に塗れて汚れたTシャツに、両袖を腹部で縛ったつなぎを身につけた若い女が操舵室に入ってきた。


「どうしたの、もう帰っていいんだよ」英子が言葉を投げる。


「お疲れ様です、英子さん。遅れてすみません。点検手伝いにきました」


「もうほとんど終わってるし。さっさと帰ってお風呂入りなよ。樹里亜。今日思いっきり泥かぶったでしょ」


 樹里亜と呼ばれた若い女の日焼けした頬、ショートカットの髪には灰色の泥が所々にこびりついている。化粧っ気のないその顔には、そんな汚れなど気に留めないような笑みを携えていた。


「どのみち帰ったってすることないんで。それにちょっとでも船について勉強しておきたいですし」


「そう。でも本当にもうほとんどやることないからさ。そこに入ってる仕様書でももう一回目を通しておきな」


 若い女――寿樹里亜は書類用の引き出しから分厚い船の仕様書を取り出すと、椅子に座って読み始めた。手垢に塗れた仕様書は、英子はもちろんのこと、樹里亜もすでに何度も読み通しているものだった。船のトラブルはいつでも、とっさに対応できることが求められるので、仕様書の中身は何度覚えなおしても困ることはない。

 英子が視線を樹里亜に移すと、袖をまくったシャツから伸びた浅黒い肌が汗を弾いているのが見えた。肉付きが良くなった、と思った。アッパーカット丸に乗り始めた頃は握れば折れそうなほどにか細かった樹里亜の腕は、毎日の肉体労働ですっかり筋肉を纏っていた。わずかに見えた樹里亜の腋を視点が捉えると、英子はバツが悪そうに視線を戻し、新しい煙草に火をつける。

 まだ肌も白く、身体も細かった樹里亜が英子の船に乗りたいと言ってきたのは五年ほど前のことだ。その年、英子は初めて自分の船を持ち、他人の船のいち乗組員から「独立」した。三人乗りの小さな船であったが、自分だけの船・アッパーカット丸を手に入れた。女漁師の存在はこの地域では珍しく、地元のローカル局が取材に来た。日曜の昼間に放送する三十分ほどのドキュメンタリーを撮影させてほしいとのことだった。最初は恥ずかしくて無理だと断った英子だったが、ただでさえ後継者不足に困っている漁業にとって、いい宣伝になるのではないかという組合長の提言に促され、躊躇いながらもこれを了承した。

 英子の生活に二日ほど密着し、その一日や漁のシーン、簡単なインタビューなどを混じえただけの簡素な造りではあったが、やはりテレビに自分が映っているのは気恥ずかしいものがある。漁師仲間達は大いに盛り上がっていたので、結果的にはこれでよかったな、と思った。

 これに反応したのが、たまたまその番組を観ていた樹里亜だった。当時十八歳だった樹里亜は大学進学を視野に入れた最後の高校生活を送っていたが、受験勉強の息抜きのつもりで観始めた三十分のドキュメンタリーに、大きく心を揺さぶられた。テレビに映る英子の姿、ひいては漁業の世界に強く惹かれてしまい、受験勉強に手を付けることもできないほど夢中になってしまった。

 樹里亜が英子のもとに訪れたのは、放送から一ヶ月も経たない頃だった。漁師になりたいので高校を卒業したら、貴女の船に乗せてくれ、とのお願いだったが、もちろんあっさりと頷けるわけがない。ちゃんと親には話したのか、漁の世界がどれだけ厳しいのかわかっているのか、単なる勢いや興味本位だけではどうにかなるような世界ではないと、自分でも少し厳し目に伝えたつもりだったが、漁師になりたいという樹里亜の気持ちは揺らぐことがなく、英子も英子で話をしているうちに、樹里亜の気持ちがとても強固なものだとわかった。元々、漁師不足の解消を目論んでテレビに出たのだから結果的にはありがたい話なのだが、だからこそ、当事者である英子の中には樹里亜の気持ちを簡単に後押ししてはいけないという責任感があった。なにより樹里亜は親に話を通していないらしく、そんな無責任な人は乗せられないとも忠告した。

 樹里亜が大学進学を予定していたと知り、英子は諭した。人生は何が起こるかわからないのだから、大学へ行けるのなら念のため行っておきなさい。大学を卒業してもまだ漁師になりたいという気持ちがあるのなら、またこちらに来なさい、と伝えた。納得したようなしないような顔をした樹里亜だったが、英子と約束ができたということは自分のしたいことを肯定、了承してもらえたという事実であり、それは樹里亜にとっての自信に繋がった。

 それから時が経ち、大学卒業を間近に控えた樹里亜が再び英子の元を訪れた。樹里亜の漁業への思いは、小さくなるどころか日増しに強くなるばかりだった。両親にも話を通し、万全の状態でやってきた樹里亜を、英子の船は受け入れた。周囲からは驚きや戸惑いの声も上がったが、性別などは何も問題ではないことなど、英子の働きぶりから港の漁師全員が知っていた。

 重い荷物は持てない、船酔いはする、それもまともな運動すらしたことのない素人だ。当然といっては当然だが、樹里亜の存在はひどく足手まといだった。命と密接に関わる仕事だけに、英子は樹里亜に厳しい教育を施したが、それでも樹里亜はやる気だけは折ることなく、初めての漁に出て一年弱、樹里亜はようやく使い物になる程度には成長した。その根性だけは漁師仲間の間で評判になり、樹里亜は一目置かれる存在になった。


『いい子でしょ。私が認めた子だから』


 他の船の漁師から樹里亜を褒められて、英子がそう答えると、樹里亜は頬を染めて照れる。そういった部分に若さが残っているところが英子にとってはまた愛くるしい。

 一回り以上も年齢が違うからか、樹里亜は英子のことを歳の離れた姉か母親のように慕っている。もっとも漁師になったのも、英子への憧れが強かった面が大きい。何かにつけては英子について回り、あらゆることを学ぼうとし、それでも決して甘えを見せようとはしない。英子もそれを突き放さない。程よい距離感が互いに心地良かった。


「ねえ、樹里亜。そろそろまとまった休みでもあげようか」


「休みですか?」樹里亜が仕様書から顔を上げた。


「だってあんた、週に一度くらいしか休みもらってないし……いや、私があげてないのがいけないんだけど。連休があるのって年末年始くらいでしょ。たまの休みだって、家でゴロゴロして身体休めるくらいしかしてないって言ってたじゃんか。あんたくらい若い子がそれじゃ厳しいだろうし、街の方へ行って友達と遊ぶとか、実家に帰るでもいいし、羽を伸ばしてきなよ」


 樹里亜が仕様書を畳み、英子の方へ身を乗り出してきた。


「大丈夫ですよ。そろそろタチ魚が獲れて忙しい時期ですよね。そんなときに休んでられないです。それに仕事だって慣れてきて体力だってついてきたし」


「でもあんただって、やりたいこといっぱいあるでしょう。そんなんじゃ、恋人だってまともに作れないんじゃないの?」


 ここまで口にして英子は、思わずデリカシーのないことを言ってしまったと思った。交際相手の存在をつっつかれることの煩わしさは、長くこの仕事をしている自分が一番理解しているはずだった。


「遠慮しないでお休みをもらいなって。親御さんに顔見せたのだって、正月のそれっきりでしょう。きちんと連絡は取ってる? 向こうだって心配して……」


 英子が言い終わる前に、樹里亜がそれを制すように、樹里亜の隣の椅子へと移動した。肘と肘が触れそうな距離にまで近づき、樹里亜の汗の香りが英子の鼻をかすめる。


「私は今、英子さんと漁をしているときが一番楽しいです。恋人なんていらないですよ」


 微笑みながら樹里亜がそう言うので、英子は少しの間を置いて呆れたように息を吐いた。

 樹里亜が嘘のつけない愚直な性格であることを、英子は充分理解している。おそらく遠慮などではない正直な言葉なのだろう、と思った。


「樹里亜がそう言うなら、わかった。でも、もし休みが欲しくなったら、いつでも言いなよ」


ありがとうございます、と頭を下げる樹里亜に、英子は再び視線を向けた。健康的な肌が汗の玉を弾いている。樹里亜の体臭がふわりと鼻腔をくすぐり、英子は思わずむせそうになるほど煙草の煙を強く吸った。初めて自分のもとを訪れたときに感じた顔立ちの幼さはわずかばかり残り、いよいよ大人としての輪郭が萌芽している。

 恋人なんていらないという樹里亜の言葉に、英子は少しばかりの安心を覚えていた。樹里亜に対し、お気に入りの器にこびり付いた焦げ跡のように、わずかながら煩わしい独占欲のようなものを抱いている。自分でもそれがおかしく、自分の船の乗組員なのだから、自分のものなのだという傲慢でも抱いているのかと、英子は自分を責めた。


「英子さんの気遣いがあったから、私は漁業をやめずにいられたんです。楽しいって思いながら、仕事をできるようになったんですよ」


「そうかな。結構厳しくしてきたつもりだけど」


「そういうところが好きで、この船を選んだんです」


 英子は新しい煙草に火をつけた。普段は一日に二本も吸えばいいほうだったが、今日はもう五本も吸っている。いくつもの波の音が響いている。樹里亜がこの船に初めて訪れたのが、まるで昨日のことだったかのような時の速さを感じていた。


「すみません、英子さん。煙草、ちょっともらっていいですか」


 樹里亜が申し訳なさげに訊ねてきた。


「あんた、吸ってたっけ」


「いや、吸わないですよ。で英子さんが美味しそうに吸ってるから気になって」


 英子は一瞬、きょとんとしてみせた。あまりにも早いペースで吸うので、樹里亜の目にはそう映ってるように見えたのか。元々は男社会の中で、「なめられないように」という理由で吸い始めた煙草だったが、今ではただ気を落ち着けるための習慣になっているので、味などは二の次だった。


「別に美味しくて吸ってるわけじゃないよ。待って、一本あげるから」


「あ、いいですいいです。これをちょっとだけください」


 そう言って樹里亜は、二本の指で煙草をつまんでいる英子の手首を引き寄せて、唇を近づけるとそのまま煙草を口にした。樹里亜の吸った分だけ、唇が触れた分だけ、火がチリチリと言いながら草を燃やしていく。七ミリほど灰が伸びたところで、口の中から煙を漏らしながら、樹里亜はゆっくり唇を離した。


「やっぱりあんまり得意じゃないですね。思わずむせそうになりました」


 樹里亜は笑みを携えながらもどこか渋い顔でそう言った。


「あ、ごめんなさい。間接キスになっちゃいますね」


「別にいいよ。煙草の回し飲みなんかしょっちゅうなんだから」


 英子は煙草を吸った。頭の中で、樹里亜が吸ったことにより草が燃えていく、そのわずか七ミリの光景を思い出していた。

 煙草を灰皿で揉み消して、英子は視線を窓の外の水平線に戻した。

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