川岸
水音がかすかに耳を撫でている。ゆりかごの上に丸まっているかのように、心地よく体が揺らされている。
みずなは目を覚まして、横になったまま視界を巡らす。頭がぼんやりしていて、強く縛り付けられているように、思考の自由がきかない。
空はゴマ豆腐を敷き詰めたような灰色で、しかし晴天だった。太陽が空の天辺で眩しく輝いている。左右には、横たわったみずなの体より少し高いくらいまで、木材が組み合わせられていた。
さらさらと水をかき分ける音が聞こえる。
どうやら小舟に乗っているらしい、と気づく。一人乗りの、本当に小さな舟だ。
みずなが身を起こしても、立ち上がってみても、それは少しも傾ぐことはなかった。
「――ここ……そっか」
みずなはつぶやく。
瞳に飛び込んできた景色は、これまた灰色尽くしの、水平線まで広がる水の流れだった。大陸で流れる川は時として対岸が見えないほど幅が広いと聞いたことがあるが、まさにそんな光景だった。舟はその緩やかな水流に沿って進んでいるようだった。
今まで流されてきた方を振り返ってみる。ただ灰色の世界が広がるばかりで、何もない。
進行方向に目を凝らす。同じだ。何もない。目をこすって細めてみても、見えるのはただ無感情な景色だった。
八方を見渡して、みずなはつぶやく。
「死んじゃったか、私」
ペタンと座り込んで、見るともなく冷たく輝く太陽を見上げる。
かつて彼女の家族が語った死後の景色と、ここは酷似していた。一面の蕎麦色の景色に、小舟が一艘。こうして進んだ終点で、人は霊体になるのだと聞いた。
「えっと、何されるんだったかな……」
四十九日の最中に言われたことだった。ただ、肝心なことなのにどうしても思い出せない。軋みを上げる脳の中で、記憶が断片的にしか引き出せない。
下唇に指をあてがう。がんじがらめにされた記憶の中から、答えを思い出そうとする。耳元で血管が脈動するのが、頭の中から記憶を汲み出すポンプの音のようだった。
その時、凪いでいた水面がパシャ、と跳ねた。
『みずなはそんなこと聞きたくないって言ってる!』
突然、怒号が聞こえた。
みずなは顔を上げた。進行方向に、小さな緑色の光が浮いている。
『変なこと言ってこれ以上みずなを怖がらせないでよ!』
緑色の光が叫ぶ。水面に平行に広がるそれは、見様によっては蓮の葉のようにも見える。
声は、少し若いけれど青葉のものだった。
それを聴いて、みずなは思い出す。
死後の世界のことなんて聞きたくなかったのだ。家族がみんな死んでしまって、それだけで悲しみでいっぱいいっぱいだったところへ、家族はそれを聞かせようと頑なだった。みずなの未来を思うあまりの執拗さだったのは、分かっている。それでもつらいものはつらかった。
それを、青葉が止めてくれたのだった。霊体になっても巨大だった父親に猛然と食って掛かったその姿はまさに物語の王子様さながらだった。頼もしくて、格好良かった。青葉がそばにいてくれて良かったと安堵した。
そして同時に、それがどうしようもなく父親たちとの離別を感じさせて――
「――悲しい?」
蓮の葉のような光は、舟が通りすぎると光を失って水底へと落ちていった。
みずなは頭を抱える。
熱い。脳の今までに使ったことの無い部分が、発火しているように熱い。涙が止まらない。体が震える。
今、とても悲しい。これが悲しみか。はっきりと分かる。
蓮の葉が演じて見せた記憶に、心が呼応していた。間もなく家族と会えなくなってしまうこと、その喪失の予告が頭を支配して、とても悲しい。
噛み殺した泣き声が漏れていた。みずなは驚いていた。
それは自分のものとは思えないくらいにくぐもって、湿気っている。
『悲しい』とは、こんなにも熱く身を焦がす気持ちだったのだ。青葉との会話で定義した、即物的な物差しでは到底測りきれなかった熱量を感じる。不快な熱量を。
嫌だったのだ。家族の死を悲しんでいるのは。事故を起こした霊体への恨みを引きずるのは。このまま放っておいたら、私は黒い感情以外のことを感じられなくなってしまう。
だから頼んだ。家族に、最後に私の嫌な気持ちを全部、持っていって、と。
蓮の葉が切れ切れに四十九日の光景を演じて見せている。その一つ一つが、みずなの逃避を形にして晒し上げる。
そして、四十九日が終わり、家族はみずなの感情を持って消えていく。
父親が怒りを。母親が悲しみを。
祖母が恐怖を。
そして最後に残った祖父は、唐突に、
『あの小日向とかいう娘はおかしい。それに入れ込むお前もだ。今、真人間に戻してやる』
すでに負の感情を失っていたみずなには、それに抗うという発想すらなかった。
そして、みずなは別人になった。
『みずな、四十九日お疲れ様。昨日はどうだった? 水入らずで、なんか変なこと言われなかった?』
家族が旅立った翌日、家に訪ねてきて心配そうに聞く青葉に、みずなは、
「うん、みんながちゃんと向こう側に行けて嬉しいよ」
ただ笑ってそう答えた。
『みずな? どうして笑ってるの?』
「嬉しいからだよ。他に何かあるかな……青葉ちゃん、なんでそんなにびっくりしてるの?」
記憶をなぞりながら、みずなは肩を強く抱いて蹲る。
蓮の葉が咲いた。
『みずな? さっきすごい勢いで真瀬さん走って行ったけど、何か知らない?』
「うん。青葉ちゃんと同居してるって言ったら、どこか行っちゃった」
『そう……なんだろうね。ものっすごい怖い顔してたけど』
「コワイ?」
青葉のため息を最後に、その記憶は終わった。
蓮の葉が咲いた。
青葉のやさしい声が聞こえる。へらへらと自分が笑う。青葉が悩ましげに顔をゆがめる。
蓮の葉が咲く。
青葉の声が聞こえる。
蓮の葉が咲く。
青葉の苦悩が見える。
蓮の葉が咲く。
青葉が、泣いている。
「――青葉ちゃん!」
叫んでいた。蓮の葉が見せる幻影に手を伸ばした。蓮の葉は形と質量を持っていて、触れることができた。しかしその上で微笑む青葉には、触れられなかった。
よみがえってくる思い出は、青葉のことばかりだった。
それは逆も同じことがいえるのだと、みずなは気づく。青葉も同じだけの時間を、みずなを見て過ごしていたのだ。
青葉はずっと、変わってしまったみずなと戦っていた。五年間もずっと、暖簾よりも手ごたえの無いみずなの心を動かそうとし続けていたのだ。
みずなは船べりにもたれかかってすすり泣く。徒労の苦しみを、今は想像できる。
新たな蓮の葉が咲く。
『ぬいぐるみ?』
優しく青葉が聞く声がする。はっとする。十三歳の誕生日のことだ。
「そう! ぬいぐるみがいい!」
熱情を載せて台詞をなぞる。
『あはは、みずなっぽい。どれにする』
「これと、これ……! 二つでもいいかな……!」
『いいよ。折角のプレゼントだし。でも、何で?』
「私と……! 青葉ちゃんで二つ!」
みずなはうつむいて顔を真っ赤にして、
「……大好きだから、一緒にいたくて」
青葉もそれには吹き出してしまって、首まで真っ赤になって、
『……! みずな、時々恥ずかしいこと平気で言うよね』
そして、みずなの手を取って、レジへずんずん引きずっていく。
そして気恥ずかしげにぼそりという。
『……私もだよ』
呼吸が引きつる。温かく安心できるようで、気づけば灼ける様に熱くて、ぼぉっとしていれば即座に取り込まれてしまいそうに心の容積を占めるこの感覚。
青葉のいう好きとは、胸を覆いつくすこの気持ちが、そうなのか。
蓮の葉が咲く。家族がまだ健在だったころの、みずなの部屋だ。
カーペットに二人はペタンと座り込んで、ひざが触れそうな距離で向かい合っている。顔を真っ赤にして俯く青葉の様子が、中学一年生の春先のことだったと思い出させる。みずな自身もうっすらと上気した頬を押さえている。
二人の関係を最初に切り出したのは、青葉だった。
『……私、みずなのこと、好きだ』
青葉が絞り出すように言うのに、
「は、はい……よろしくお願いします……!」
勢いそう答える。胸がつぶれそうに苦しいのに、とても暖かくて心地よい。
「で、でも……、今までと何が違うのかな……。両想いって」
消え入りそうな声になって言う。
『わ、分かんない、けど』
焦った様子を見せながら、震えながら青葉がぐいと顔を近づけてくる。
『していいことはあると思う……! いい、かな?』
答えは青葉の唇の中に飲み込まれる。柔らかな温かさが感覚を占める。視界いっぱいに青葉が広がる。青葉の匂いが胸に満ちて、胸が灼ける。こみあげてきた気持ちが目じりから溢れる。青葉の背中に手を回して、その温度にまた頭がはじけ飛びそうで、ぐいと引き寄せると青葉が驚いたように身じろぎして――
「わあああああああああああっ!!」
顔を覆う。天を仰ぐ。迸る絶叫が絶望を煽る。
青葉はみずなが好きだった。みずなは青葉が好きだった。
それから、この感覚を失って、五年も経ったのだ。
『みずな……』
現在の青葉の声だった。テレビ番組に見覚えがあった。青葉が霊体となってやってきた日のことだと気づく。
「……な、なぁに、青葉ちゃん」
震える声で聞き返す。
『みずな、好きだよ』
青葉の声も震えていた。
「うん……、そうなん……だ」
かすれた声をみずなはやっと絞り出して、船底に身を投げ出した。力が抜ける。身を引きちぎるような荒く激しい呼吸が胸を上下させる。
五年間だ。青葉の気持ちを、踏みにじり続けていた。
そしてついさっき、踏みつぶしてしまった。喫茶店での光景が思い出される。青葉は泣いていた。「死んでまで愛されようと」とも言った。青葉を深い悲しみに突き落としたのは、みずな自身だったのだ。
――謝らなきゃ……。
どうにかなるかはわからない。そう思う気持ちは結局、自己満足でしかないのかもしれない。それでも、そうせずにはいられない。そうしなければならない。
――帰らなきゃ。でも、どうやって。
蓮の葉が咲く。青葉の優しい声に顔を上げたみずなは、その上に一匹の白い蛇が乗っていることに気づく。
白蛇がしゅる、と真紅の舌を出した。まるで、みずなに囁きかけているかのように。
みずなは船べりに右足を乗せた。踏み込んでみて具合を確かめる。舟が傾ぐ気配はない。
「……今、帰るから」
つぶやきを舟の上に残して。
みずなは跳んだ。小さな蓮の葉に向けて。まるで吸い込まれるように、みずなの描いた放物線は蓮の葉に着地する。蛇の姿はいつの間にか無かった。
上がった呼吸を整えながら、蘇った青葉の記憶と一つになる。展開される光景をただ受け入れる。これも謝ろう、と胸に刻む。
決然と前へ。一歩足を踏み出すと、蓮の葉が新たに開いた。
一歩一歩みずなは進む。
青葉とともに。青葉の許へと。
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