第16話

 気が付けば、あたりは暗くなっていた。

 少し経ってから、青葉はそれが自分の視覚から入力されている情報であることを認識した。物理的に世界は光を失っている。しゃがみこんでいるらしいことが、周りの物の高さから分かった。

 続いて、聴覚が戻ってくる。ブラスバンド系サークルの時間に非常識な音量が、フェードインしてくる。どうやら、大学まで戻ってきたようだった。

 そうして周りを見てみると、ここは大学図書館の裏手の、うっそうとした遊歩道であることが分かった。

 この道を行くと理系棟のはずれに出るのだが、それを知っている学生は少ない。今は頭上を覆う木々が冬支度をしていていくらかマシだが、夏場は思わず足を踏み入れるのを躊躇してしまうほどの茂りようなのだ。

 そんな道をなぜ知っているのかと言えば、道があれば調べずにはいられない彼女のおかげだ。


 ――みずな……


 もう、声にもならなかった。

 みずなが倒れている光景がフラッシュバックするが、もう反応できるだけの気力もない。ただ、心が憔悴していくばかりだった。

 空を見上げても、まばらに星が出ているばかりだった。月はない。

 みずなは一体どうなっただろうか。

 おそらく、店主が呼んだ救急車に乗って、近場の総合病院に運ばれているはずだった。今頃は処置が終わったか終らないかくらい。間もなく、みずなは然るべき部屋に移されるだろう。

 病室か、あるいは……青葉は震えて身を抱く。

 事実を追うのは、簡単だ。

 けれど、それに付いてくるはずの感情は、心の奥底に沈んだままだった。

 会いに行こうと思えば、みずなの傍にはいつでも行ける。

 それでも、ただこの場から動きたくない。動けそうもない。

 ため息が漏れ出す。

「お、ようやくお目覚めかな、青葉」

 それに背後から低めのはきはきした声が応えたけれど、青葉は振り向くこともしなかった。

「……何?」

「つれないね。一時間ばかし付き合ってあげてたってのに」

「そう」

 さくらは乾いた短い笑いで、間を繋いだ。

「どうしちゃったんだか、いつもクールで飄々としてた青葉が」

「……クールじゃない」

 呻く。

 つい先刻、クールであり続けることが出来なかった結果がよみがえる。青葉は強く身を抱いた。

「まぁ、それだから、その様子を見れば大体予想はつくけどね」

 さくらは青葉の正面に回り込んだ。

「巴みずなのことでしょ」

「だったら何」

「図星だ。そしたら、真瀬さんは大いに傷ついたよ? 巴みずなとは、まだ出会ってないもんだと思ってた。清水ジャンプした四十九日の告白も、無駄だったわけだ」

 大仰に手を広げて、そう言うさくら。

「ごめん……」

 ――嘘ついた。

 そう言いかけて、青葉はまた体を縮こまらせた。

「うん。いいよ。それはいい」

 さくらは、かがみこんだままの青葉に、視線を合わせて言った。

「お疲れさん。何があったの? 真瀬さんに話してごらん。心理学専攻志望だから、それなりに勉強してるよ、話の聞き方」

 さくらの包み込むような微笑みは、穂乃果のそれとよく似ていた。似ていたが、何かが決定的に違う。しかし、それが何なのか分析できるだけの気力は、青葉にはなかった。

「私……」

 ただ、その温かさに誘われるように。

 慟哭が引きずり出された。

「私、みずなを殺しちゃうよぉ……」

 青葉はさくらにもたれかかって、ただ泣いた。鬱積していた気持ちが堰を切ったように溢れ出していく。

 清らかな涙ではない。人に聞かせられる叫びではない。けれど、真瀬さくらはそれをただ受け止めていてくれた。感じられるはずの無いさくらの体温が心を温めて、どろどろした感情の流速を上げていく。

 繕わなくていい。

 作らなくていい。

 さくらの肩に青葉は身を委ねた。

「……おお、よしよし。全部教えて。何があったのか。私はただ聞く。傾聴、そして感情の解放だよ」

 さくらは青葉の震える頭を抱くように腕を回した。

 青葉には、たださくらの背中とその向こうの暗がりが見えるばかりになった。

 お天道様の代理人、月も今日は不在だった。

 真瀬さくらが浮かべた凄惨な笑みを見咎めたものは、いない。

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