第15話

明けて土曜日。二人でそれぞれ気持ちを弾ませながら覗いてみると、喫茶店は営業を再開していた。

店に入るなりアイスを注文したみずなに、店主は苦笑いして見せた。決まったことをやり続けるのはつまらないと考える店主は、季節に応じていろんなメニューを出しているそうで、アイスもその一つだったという。

だから、この寒い中でそんなものを提供しているわけもなかった。

店主はこの時期の新作であるというキノコパイを勧めて、はきはきと笑って見せる。とても優しい笑顔だ。

今まではさして意識したことも無かったけれど、それに今気付くことができたのは、きっと念願が叶って気持ちにゆとりができたおかげだろう。彼の無邪気な微笑みは、浮かれた気分と周波数が合うのだ。

「わぁ、すごい! 美味しそうだね!」

 パイを見たみずなの喜びようときたら、今にも飛び上がりそうだった。

「うん……そうだね」

「二つ下さい!」

「ちょ、みずな」

「はい、二つね」

 青葉の方を一瞥して、店主はパイを取り出しにホットケースの前で屈む。

「みずな? 私食べられないよ?」

「うん、分かってるよ。雰囲気だけでも味わってほしいなと思って。両方私が食べるよ」

 みずなが微笑んだのに、青葉は思わず心臓のあたりを押さえてしまう。何気ないいつもの微笑みのはずなのに、相手の気持ちを一つ想定するだけでこんなにも見え方が変わるのだ。にわかに、特別な意味を持ったものに見えてくる。

「はい、お待ちどおさま」

 戻ってきた店主は気さくに笑った。

 プレートは二つに分けられていて、片方にはパイと一緒にみずなが注文したブレンドコーヒーが乗っていた。そちらがみずなの分、もう片方は青葉の分ということか。

「あ、あとこっちにお冷置いといてもらっていいですか」

 青葉はみずなのプレートを指さして言った。

店主はグラスを置きながら、もう片方の手でメニューを青葉に差し出した。

「お嬢ちゃんは、何も飲まなくていいのかい」

「あー……」

 何気なく言う店主の様子に、肝心なことを青葉は思い出して言葉を濁した。

店主は青葉が死んでしまったことを知らないのだ。

 身内の不幸をつい先日経験した彼に、どう伝えるべきか。

言葉を選んでいる間に、みずなが両方ともプレートを受け取ってしまった。

「大丈夫ですよ。青葉ちゃんは死んじゃったので、飲んだり食べたりできないんです」

 いただきます、と言って、みずなはテラス席へと向かっていく。

 残されたのは、凍った空気と店主。そして青葉。

「……本当かい?」

「触ってみます?」

 冗談めかしてフォローを入れてみたが無駄だった。店主は目頭を押さえて首を振った。

「そうか……、いや、突然すぎて、驚いた」

 鼻声だった。

「……私もです。生きてるうちにお別れを言って回っておけばよかったんですが」

「いや、まぁ、でも、知れてよかった。こうして顔を見せてくれただけで十分だよ。誰かが言ったものだが、四十九日はそのための時間だって話だしな」

「本当に、そう思います」

 いい具合に客足が途切れていた。もう少しだけ話ができそうだった。

「ご愁傷様です」

「ああ、妻がね。長年ってほどでもないが、でもずっと支えてくれていた。会社辞めるって言った時も何も言わずに付いてきてくれた。実は今、厨房にいるんだ」

 店主がちら、とバックヤードを見る。

「お互いに、最後の時間ですしね」

「少しでも一緒にいたいと言ってくれた。嬉しい……、いや、やっぱりつらいものだな。そこにいる分、余計に」

「それは?」

「あれともう一度別れなきゃならないのがな、苦しいんだ」

 一瞬考えて、腑に落ちた。

 通常の流れであれば、別れの区切りは二回ある。まず、肉体が死に、それを葬る。その後四十九日を経て、何事もなければ今度は霊体と別れることになる。

「そう言えば……、当然だと思っていましたから、特別考えたことはなかったですね」

「時々思うんだ。一発でスパッといなくなった方が、分からなくてもやもやすることはあっても、悲しみは少ないんじゃないかってな。いなくなってしまうと分かっていながら、隣にいるあれといつも通り過ごすなんて……」

 店主は言葉を詰まらせた。

「いや、すまん」

「……いえ」

 店主は足元に視線を落としてつらそうにしている。

 その想いには、青葉も覚えがあった。家族が死んだと聞いて、そして実際に霊体と過ごし始めてから、みずなは急速にやつれた。

 もし、事故の後に家族が現れることがなかったとしたら、みずなは一体どうなっていただろうか。

 少し引っ込み思案だけれど、誰かの気持ちを察することに長けていて、物事を考えることが好きだったみずなは、どうなっただろう。もういなくなってしまった家族のことを考えすぎて、潰れてしまっていただろうか。

 みずなの家族は、そうなるだろうと思ったのだ。そうして寄ってたかって娘に手を掛けた結果、今のみずながある。

 気にくわない。みずなが悲しみを一人で抱え込んで沈んでしまうというなら、分かち合って支える人間がいればいい。その位置に青葉はいたつもりだったが、みずなの家族はそうは考えなかった。

「お前のような奴に娘は任せられない」と言われたのも同然だ。悔しさが沸き起こって、下唇をそっと噛む。

 店主の方が、先に顔を上げた。

「見送りはあの子が?」

「……あ、はい。ええ」

「さっきのは素なのか?」

「ちょっといろいろあって、あの子は良くない気持ちが分からないんです。驚かれたと思いますけど」

「ああ、そうかい。苦労するな」

「本当に」

 青葉は頷きながら、みずなの姿を探した。

 二十席ほどの店内にはいない。日差しを浴びて輝いているテラスの方まで目をやると、この寒空の中みずなは外に座っていた。膨れたパイの天面を押しては離しながら、時々体を震わせていた。

「ったく、何で外に座るかな」

 青葉がむくれるのに、店主は鼻をすすりながら青葉を外に促した。

「待たせちゃ悪いな。いや、済まないね。おっさんのぼやきに付き合わせてしまって」

「いえ、とんでもないです。お話が出来てよかった」

「そう言ってもらえると嬉しいね。今何日目だい」

「あと三十九日です」

「いつでも顔を出してくれよ。お供えくらいはさせてもらうからさ」

「じゃあ、その時はみずなを連れてきますね」

「逝ってしまう前に、ぜひうちの常連に仕立てておいてくれよ」

「オッケーです。任せといてください」

 微笑みを返すと、店主はとうとう顔をくしゃくしゃにして奥へ引っ込んでしまった。盛大に鼻をかむ音に、店中の注意が一瞬集まった。純粋な人なのだと改めて認識させられるけれど、少しだけ気恥ずかしかった。

 逃げるようにみずなの前の席へ着いた。ちょうどパイをへこませていたみずなは、柔らかく微笑んで見せた。

「何話してたの?」

「お悔やみ。ごめん、冷めちゃったかな」

「私猫舌だし、ちょうどよかった。さー、食べようかな」

 みずなの細く白い指が、スプーンを取った。目を引くのは、中指の節にぷくりと膨れた大き目のペンだこだ。青葉はそれをみずなの努力を雄弁に語る勲章のようなものだと考えていた。欠点だとは思っていない。

 サクッ、と軽快にスプーンが膜を突き通す。中のシチューはまだ幽かに湯気を立てていた。

「わぁ、すごいいい匂いだよ、ほら!」

 青葉も顔を近づけてみた。

「んん、やっぱり匂いは分かんないみたい」

「そっか」

「でも、いい匂いなのは分かる。みずな見てれば」

 こんなに目を輝かせているみずなは――思い返してみれば、そう珍しくもない気がする。ただ、青葉にとってはその表情を拝めただけで十分に眼福だった。

 銀のスプーンが優しくクリーム色のシチューを掬い上げる。キノコと言うのはどうやらしめじだったようだ。

「熱いと思う?」

「さぁ、どうだろ……」

「いただきまーす」

 みずなの形の良い唇が、スプーンを呑みこんだ。

 と、同時にみずなは目を白黒させはじめる。どうやらまだそれなりに熱かったようだった。

「あー! 何で冷まさないの! ほら、水飲んで!」

 グラスを手に取れないのがもどかしい。

 手をこまねいている間にみずなはやっと水を口に含んで、はにかんだ。

「あはは、もう行けるかなと思って。ありがとう、お水用意しといてくれて」

「気を付けてよ。もう私が流し込んであげるわけにはいかないんだから。小学校の頃から何にも成長してないからね、今の動き。本当に気を付けてよ」

「はーい」

 スプーンが次の一杯を掬い上げた。薄い桜色の唇がきゅっとすぼめられて、細く鋭く息を吹きかける。小さな口をいっぱいに使ってシチューをほおばり、スプーンが引き抜かれると、みずなの頬がとろんと落ちた。

「あー、美味しい。すごくキノコのいい香りする」

 形ばかりの咀嚼ののち、舌がもごもご動いてシチューをかき集め、口の奥へと押しやる。応えて、喉元がしなやかに脈打った。

「ねぇ、青葉ちゃん。二七日はこれでやる? ……青葉ちゃん?」

「……え? ごめん、何?」

「法要のお供え物の話。もののついでに田村さんに聞いたんだけど、湯気が立てばなんでもいいんだって。だからお米じゃなくても、青葉ちゃんの好きな物でやれるよ」

「へー、そうなの? じゃあ次はこれでお願い」

「おっけー」

 冷たい外気にさらされ始めたシチューは急速に冷えるようで、みずなは一つ目のパイをぺろりと平らげていた。

 青葉はそれが、少しだけ、残念だった。

 みずなが熱いシチューに目を白黒させたその一瞬だけ、二人が昔の関係に戻ったような、そんな錯覚があった。みずながいつも何かに困っていて、青葉がそれをフォローする。事故の日までは、二人の関係はそうして回っていた。

 同い年だったけれども、青葉はずっとお姉ちゃんだったのだ。

今となっては見る影もないけれども。

ため息を吐く代わりに、青葉はみずなの頭に手を伸ばした。

「ん? どうしたの、青葉ちゃん」

 みずなが首をかしげるのに、急に恥ずかしくなって俯く。

「や、ごめん。懐かしくなって。昔はよくこうしてたよね」

「そうだっけ。よく覚えてないや」

 予想した答えではあったけれど、こうして言われてみるとやはりがっかりしてしまう。今度はため息をこらえきれなかった。

黙っていると、少し経って、みずなが切り出した。

「ねぇ、青葉ちゃん」

 気づけば二つ目のパイも無くなっていた。

「青葉ちゃんは、カナシかった?」

「何が?」

 何の気なしにそう訊き返す。

 みずなは紙ナプキンを畳んでトレーに置いた。

「死んじゃった時のこと。青葉ちゃんはカナシかった?」

 ふと警戒が頭をよぎる。なぜ今、それを聞かれるのか。しかしすぐにそれは打ち消される。みずなの知りたがりは、青葉に対する好意の証であるようだったから。

「……そりゃ、悲しいよ。そのパイも食べられないし、みずなにも触れないし。まだ諦めきれないよ」

「うん、わかった。でも違うの。そうじゃなくて、死んじゃった瞬間の話をしてる」

 みずなの、聞きなれたいつもの調子の声。単純に、ただ知りたいのだと分かる。

 青葉は心の中で、みずなに詫びる。

「死んだ瞬間なんて、何も思ってなかったよ。突然だったから」

「じゃあ、事故で死んだってこと?」

「そう。撥ねられて。体は結構きれいだったけど、打ち所が悪かったみたい」

「どこで?」

「名古屋」

 青葉は、用意しておいた答えを淡々と吐き出した。嘘を吐くことへの罪悪感は、もしかしたら顔に出ているかもしれない。でも、そう言う心理戦をみずな相手に想定する必要はない。

「わぁ、名古屋行ってたんだ! 味噌かつ食べた? しゃちほこはどうだった?」

「両方楽しみだったけどね」

「何か写真ある? あったら見てみたいな」

「ごめん、無いんだ。ホントに身一つで行ったから。お財布だけ」

「ケータイも? カメラ自慢してたでしょ?」

「うん。置いて行った」

「青葉ちゃん家に?」

「うん」

「そっか」

 みずなの声のトーンが、気持ち下がる。

 ――あれ?

 冷たくなったコーヒーを、みずなは一口飲んだ。

「ケータイはどうしたの?」

「だから、置いて行ったってば」

「それは嘘だよ、青葉ちゃん」

 かちゃり、とカップがソーサーに触れて乾いた音を立てた。

「え?」

「それは、嘘だよ」

「ちょっと、待って。何が嘘なの。どうして嘘つく必要ある?」

「うん。それは分かんない。けどケータイを置いて行ったっていう嘘をついているのは事実。お部屋、見に行ったんだよ」

 どくん、と心臓が跳ねた。

 みずなは続ける。

「ほとんど私んちで生活してたからかもしれないけど、びっくりするくらい何もなかったね。大家さんもびっくりしてたよ。冷蔵庫も、エアコンも、洗濯機も、机も、本棚も、何もなかった。八畳の部屋に、布団が敷いてあるだけ」

 何もね、とみずなは念を押す。

「え、待ってよ。何で、部屋にどうして入れるの!?」

 危うく揺らいだ心は、まず目についた疑問にすがった。

「それはね、忌を結んだから」

 そう言って、コーヒーをかき混ぜだすみずな。

 青葉は気色ばんで身を乗り出す。

「それとこれと何の関係があるの」

「死亡認定、ってどうしてるか知ってる? もちろん、死体が見つかって、身元が分かれば間違いないんだけど、実はもう一つ基準があるの。その霊体が忌結びしてるかどうか、だよ。大抵は死体の確認による死亡認定が先だから、あんまり世の中には知られてないけどね。その時には、関係者以外で、霊体を見ることができる人――つまり、忌結びに携わった住職による認定が必要になるの。あの後、田村さんに呼び出されて色々聞かれたんだよ。あのお経だけじゃなくて、お役所で手続きとか必要なんだよ。本当はね」

「……それが、何?」

「忌結びは法的手続きを伴い、従って法的な力も持ってる、ってこと。何で青葉ちゃんの部屋に入れたかっていうとね、忌結びしたことによって、青葉ちゃんに係る権利と義務を引き継いだから。保証人として入ったの。遺産の分配とか、そう言う話にも食い込めるんだよ……、まぁ、それはいいや」

 かちゃり、かちゃりとコーヒースプーンがカップにあたって、耳障りな音を立てる。

「話を戻すと、青葉ちゃんの部屋にはケータイはなかった。つまりさっきの話は嘘。そうすると、名古屋に行ったって話も、本当かどうかわからなくなってくる」

 みずなの真っ直ぐな視線に耐えかねて、青葉は俯いた。

どうしてもみずなの表情はこわばって見えるし、声音は冷たく胸を刺す。いつもと変わらないみずなのはずなのに、そうはとても思えない。

「……記憶違い。持って出た。けど事故で壊れたのかも」

「それも違う。繋がったから。ケータイは壊れてないよ。また一つ嘘だね」

苦し紛れに重ね塗りした嘘も、あっけなく剥がされる。

 みずなはやっとスプーンから手を離した。

「あのね、青葉ちゃん。今、私は怒ってるんだと思う」

「え……」

 虚を突かれた。

「嘘をつかれたから。私は、死んだ瞬間にカナシかったか聞いたよね。その死の状況を青葉ちゃんは偽った。つまり、何も感じなかったっていう答えも、嘘。それは、私の知りたい情報を隠してるってこと。私は知りたいと思う。青葉ちゃんは教えてくれない。青葉ちゃんの存在が、私の欲求の妨げになっている。だから、私は青葉ちゃんに怒ってる」

 いつもの微笑から飛び出す、「怒った」という非日常。それが容赦なく青葉の胸に突き刺さる。

「もう一回言うね。私は、怒った。何でそれを言ったかっていうと、客観的に見て、意図的に真実を隠そうとした青葉ちゃんの方に問題があると思うから」

 みずなの一つ一つ事実を積み上げていく話し方が、周到に袋小路に追い込まれているような、そんな窮した気持ちを呼び起こしている。

「昨日再確認したけれど、私は多分、青葉ちゃんのことが好き。だって、こんなにも知りたいから。青葉ちゃんのこと。私には分かんない気持ちも、何もかもひっくるめて、青葉ちゃんのこと知りたいと思ってる。だから余計に、怒ってる。改めて聞くよ。青葉ちゃん、死んじゃった時どう思った? そしてどうして、どのように死んだの?」

 波涛のように押し寄せるみずなの詰問。

みずなの声が頭の中いっぱいに反響する。

みずなには、青葉を責め立てようとするつもりはないのだろう。みずなは、青葉のことを好きだと言った。今、こうして問い詰められているのはその結果だ。

けれども、そのフレーズが持つ幸せな意味はどこかに行ってしまって、青葉の耳にはものすごい質量を持った圧力だけが押し寄せている。

好きであるということは知ることだ。しかし、一切の遠慮のないそれは暴力と変わりない。

 何を、どう答えればいいのか。みずなの求める真実は、あまりに非現実的すぎて、そしてみずなにだけは聞かせられないというのに、気の利いた正しい嘘が思い浮かばない。

「嘘ついたのはどうして? 名古屋に行ったっていうのは本当? それから……」

 焦りが、みずなの語り口が。

青葉に両耳をふさがせる。

「……嫌」

 青葉が絞り出せたのは、それだけだった。

「……? …………?」

 みずなは首をかしげて何か言う。

 そのあまりに無遠慮で、無邪気な動作が、それ故に。

 みずなはそうなんだ、という青葉の行動を大きく規定していた枷すらも、一瞬で引きちぎらせた。

「嫌って言ってんでしょ!?」

 みずなが目を見開く。

青葉は叫んだ。

「教えない! 教えないったら!」

 自分のちぎれそうな絶叫が、未だみずなの残響が鳴り響く頭の中を過熱していく。

「今まで何の興味もなかったくせに、今更、死んじゃった今更、死んじゃったから私のこと知りたいなんて言わないで! 死んだから好きになったなんて言わないでよ! そんなんじゃ私、あんまりじゃない、惨めじゃない、馬鹿みたいじゃない!」

 振り下ろした両手がテーブルをすり抜ける。

「ずーっと、ずーーっと、死んでまで愛されようとしてる私が、馬鹿みたいじゃない!」

 滲んだ視界の端に、店主が駆け寄ってくるのが見える。

 過換気で倒れそうなくらい激しい呼吸がひどく耳障りだった。

両頬に伝う涙の筋は、冷たいのか熱いのかよく分からなかった。

過熱した頭が現実逃避を始める。

 心という器の中で吐き出せずにいる想いは、外圧を受けて圧縮され、熱を持って発火する。

 ならば悲しみとは、思いを外に汲み出して、冷却するための機構だ。涙も、泣き声も、皆そのためにある。

 冷却材が激しく流出するならば、それはそれだけ元の熱量が大きいということだ。

 とめどなく溢れる涙が、それを示している。これほどの悲しみに対応するのは、これまた激しい怒りだ。


 そう、激しい。


「……しまっ」

 急速に、本当にものすごい勢いで思考が凍り付く。みぞおちのあたりがぎゅうと絞られる。

「青葉ちゃ……」

 みずなは立ち上がろうとして、椅子の手すりに体重をかけた。

 手すりが折れた。

 みしり、バキッ、とマンガみたいな音が鳴って、支えを失ったみずなは背もたれに全体重を預ける形になる。

 腰くらいの高さしかない背もたれに。

 そこを支点にして、みずなの頭がひっくり返る。

 鈍い湿った音。

 騒音。

 店主の怒号。

 みずなが倒れていた。

「……あ」

 みずなは倒れている。

 店主が携帯電話を取り出して、叫んでいる。

 周りの客も集まってきた。

 みずなは、起き上がらない。

「……あ……、あ……」

 狼狽する青葉に聞こえてくるのは、みずなの声ばかりだった。

「どうして死んじゃったの?」

「どうして教えてくれないの?」

「どうして嘘ついたの?」

 みずなは眠っている。

 眠っているのに、その口がぎこちなく、言葉を紡いでいる。両手で顔を覆ったはずの青葉には、暗闇の中ではっきりとその様が見えている。


「……嘘つき。もう知らない」


「……あああああああああああああああああああああああああぁぁ!!!」

 みずなの顔がふっと消えた。

 暗闇の中を、斥力にはじき返されながら、青葉は走った。

 認められない、認めたくない。

 私は、みずなを殺してしまう。

 好きだと言っただけのみずなを、青葉の嘘が打ち据えた。

 それを、仕方がないじゃないかと受け入れかけている自分が、どうしようもなく嫌だった。青葉は悶えながら走る。

たった一つだけの、しかし巨大な嘘。青葉は死を偽った。みずなとの関係を守るためだ。

それを容赦なく掘り返そうとするみずなに、怒り以外の何を投げつければいいのか。

しかし同時に、そう思ってしまうことは、ずっと想っていたみずなそのものを否定することだ。板挟みになった状態が苦しくて、青葉はただ走った。

やがて速度が鈍るにつれ、霊体にも走り疲れて動けないということがあるのだと、青葉は知った。

もはや深い闇の底へ沈み込んでいく感覚しかない。どこまでも、自重に任せて、深く、深く。

感覚が遠ざかる。

世界とのつながりが、薄れていく―――

煌めきが、消えていく―――――― 

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