第14話

 この日、田村穂乃果は住職が集まる会合に出ているという話で、人が集まる時間ぎりぎりまで不在だということだった。

 青葉たちを出迎えたのは年若い坊主だった。「四十九日の話し合いに来ました」とみずなが言うと、彼は少し怪訝な顔をしたものだった。

「どなたを亡くされたんですか?」

 坊主はそう尋ねてきた。

青葉はそれを、みずなの隣で聞いていた。同じ寺勤めでも青葉のことが見える、見えないの差があるらしい。

「友人です。隣にいますよ」

 と、みずなは笑顔で答えた。

 坊主はすぐに非礼を詫びて、みずなをお堂へ通し、湯呑を置いて慌ただしく去って行った。

「田村さんは、青葉ちゃんのこと見えてたよね」

「何だろうね。住職って、思ってるよりも特別な人なのかな? みずな、知ってる?」

 青葉が尋ねると、みずなは跳ね返すように答える。

「そうだね。法律の上では、住職を名乗るには認定試験に通らなきゃいけないことになってる。運営してる法人もある。高校教養レベルの筆記試験と、面接で適性試験。それから修行。ただ、面接の内容があんまりオープンになってないから、それを問題にしようとしてる人たちもいる」

「へぇ。それは仕方ないと思うけどな」

「筆記がすごく簡単だし、住職の数が足りないって結構問題になってるから余計にね。面接で絞りすぎなんじゃないかって意見が発言力を持つくらいには、そう主張する人がいるんだよ」

「うーん、お医者さんとか見てると、適性が無い人がなるよりましだと思うけど」

「田村さんは、いかにも住職って感じだよね。何か後光とか出せそうな感じあるよね」

 さもありなん、むしろすでに出ている。

みずなと頷き合った後、ふと思い出したことを口に出してみる。

「そういえば、住職ならではの力っていうのもあるらしいしね。この間聞いたんだけど」

「へぇ、そうなの? 忌結びの仲立ちだけじゃないんだね。何ができるの?」

「さぁ、具体的には。ただ、霊体と渡り合う力だって」

 青葉は先日の会話で唯一、穂乃果が笑顔を崩した瞬間を思い出していた。

『成仏の形も、一つじゃないってこと』

 そう呟いた穂乃果は、普段の様子からは想像もできないほど沈痛な面持ちだった。

「……あんまり、使って気持ちのいい力じゃなさそう」

「そっか。詳しく聞いてみたかったけど、止めた方がいいかな」

「うん、そうだね……」

 ひとまず頷いたが、青葉は何か引っ掛かりを覚えて首をかしげる。

 少し会話を思い出してみて、すぐにその違和感の正体に気づいた。

今さっき、みずなからは出るはずの無い一言が、聞こえたような気がしたのだ。

「今、なんて?」

「それ、聞いてなかったってこと?」

「いや、聞いてた。『止めた方がいい』って言わなかった?」

「うん。何かおかしかった?」

「いや、おかしくない。だからびっくりしてるの」

 みずなはそれを聞いて、満足そうに頷いた。

「よかった。ちゃんと考えた甲斐があった。これ、コワイ、とそれを感じた結果採択される行動を再現できてるよね?」

「うん。多分、大体……。それを考えてたの?」

「そっか。こういう思考なんだね。気持ちの良くないところに触られると、イカリが発生するのは電車乗る前に聞いたね。イカリは、相手との――この場合は、私と田村さんとの関係性を傷つける感情だって聞いた。それは、不利益だね」

「うん。間違いない」

「ところで、コワイっていうのは、ある状況を想定して、その結果を受け入れられるかどうかで発生する気持ちだったね。今、私は人がオコることで、私も、その人自身も不利益を被ることを知った。私は出来るだけ自分と、皆の利になることをしたいから、田村さんをオコらせる結果は私の目的と矛盾するね。だから、それは採択できない。つまり、私は、田村さんをオコらせるのがコワイんだ」

 呆然とする青葉をよそに、みずなはゆっくりと頷いた。

「私は、田村さんを怒らせるのが、怖いんだ」

「……うん」

 青葉が頷くと、みずなは顔を輝かせて笑った。

「あってる? あってる!?」

 みずなが青葉に手を伸ばす。喜びのあまり手を取ろうとしたようだったが、当然、青葉に触れられるわけもなく突き抜けてしまう。

 体勢を崩したのに二人が間抜けな声を上げた次の瞬間には、青葉の胸からみずなの体が生えていた。

 木魚の音でも聞こえて来そうな空白の時間が少しだけあって、青葉の中で高らかに、セットになっているあの金物がなる音が響き渡った。

「――わ、わわわ、ちょっ……!」

 何か言いたいのだが言葉にならない。

「……、……」

 みずなが何か言っているが聞こえやしない。

みずなとの距離が近いどころか、今や自分の中にあった。そんな状況に頭がすっかり沸いてしまって、顔が熱くなる。

感情が高まるのを感じる。

「は、早くどいて!」

「え? 痛い?」

 のんきなみずなの声が、やっと聞こえる。

「いいい、良いから! そう、痛いから!」

 みずなは、ぱっと青葉から離れた。

「青葉ちゃんが痛いのは、私は怖い」

 変な謝罪が聞こえる。

 感情を均しながらみずなを見ると、眉根を寄せて口角を下げたなんだか情けない顔をしていた。

これがみずななりの「怖い」の表現なんだろうか、見慣れない表情だから新鮮味があって、みずなの新しい可愛さを発見したような気になった。

それに何より、面白い。

 笑いがこみあげてきて、霊障に対する恐怖なんてあっさり押し流して、そのまま吹き出した。

みずなもつられて思いっきり笑った。

すっきりとして元気な、そんな笑い声に包まれている。とても幸せな時間だった。

「みずな、私の体を貫通するの、そんなに楽しい?」

「うん。ふふ、だって可笑しくて」

 ひとしきり笑ったみずなは、目の端を拭いながら切れ切れに浅い呼吸を繰り返している。

その様子は、青葉の中でみずな十選に入る名仕草。何とも底抜けに楽しそうで、見ているこちらもほっこりする。他に選択肢がないとはいえ、やはり笑い上戸なのだ。

 笑い上戸なのは、事故の前からだ。いったんツボに入ると、ずっとおしとやかにくすくすと笑っていたものだった。その様子もみずな十選の一つで、今思えば心底みずなが笑っている顔が好きなんだと思い知らされる。

「ちょっと、何がそんなに面白いのよ」

 さすがに突っ込む。

 ひーひー言いながらみずなは呼吸を整えている。悶える様子に手を伸ばしたくなるのを、堪える。また体をすり抜けでもしたら再びツボに入りかねない。

 もどかしさを覚えながら、青葉はお堂を見渡した。

「あ」

 青葉はその時初めて、開いた襖の向こうで立ち尽くす坊主と女に気が付いた。いつからそうしていたのか、坊主の方は憑き者でも見ているような怪訝な目つきだ。

 ただ、女の方は妙に心得た様子だった。

「ほら、人来たからしゃんとして」

 慌ててみずなを促す。みずながようやく顔を上げて、青葉の視線の先へ振り向く。

 そして、意外そうな声を出す。

「……あれ、先生」

「先生?」

 青葉が尋ねると、

「カウンセラーの先生だよ」

 そう言われる。

これが、と改めてその姿を眺める。話に聞く石渡ゆかりと言う女史。内巻きにカールした茶髪、やや濃いめにチークを乗せた化粧。鮮やかな紅のルージュと、凝った意匠のシルバーのピアスが目に刺さる。

本当にカウンセラーなのか。みずなの言葉が無ければそう信じようとはしなかったに違いない。装いから受けるひどく若々しい印象が、カウンセラーと言う職業に抱いていたイメージと乖離していた。もう少しおっとりした、みずなに近い素朴さを勝手に想像していたのだ。

身勝手な思い込みではあるが、本当に信用が置けるのかと首をかしげたくなる。

「その様子だと、お隣に青葉さんもいらっしゃるのかな?」

 ゆかりがそう言う声に、青葉はまた眉をひそめた。低血圧気味な気の抜けた声と、時代錯誤な堅い口調が耳に障る。見た目の通りに、どこか気取りすぎな雰囲気を感じる。不信感がまた一つ募っていた。

「はい。えっと、この辺にいます」

 みずなが青葉の輪郭を手で描いた。ゆかりがそれを見て会釈するのに、青葉も頭を下げた。見えちゃいないけれど、とも思ったが、頑なになる必要もないと思った。

 ゆかりはみずなの正面に座って、ついに大きくため息を吐いて見せた。

「まぁ、当然だ。巴さんたちもいつかここに来るだろうと思っていた」

「ええ、お話を伺って、とても興味深い集まりだと思ったので。先生も誰かを亡くされたんですか?」

 みずなは早速そう聞く。さっきまで大笑いしていた雰囲気のまま、デリケートな話題をずけずけと。

 止めなかったのは、青葉にもそれが疑問だったからだ。ゆかりは霊体の目で見ても一人だった。遺族と霊体の心労を和らげるための座談会に単身で臨むことは、少し不躾な振る舞いにも思える。

 ゆかりは唇を僅かに歪ませて、短く息を吐いた。

「まぁ、そんなところだよ。正直な所、亡くしたのかどうかも、まだ分からないけどね」

 やはり死者を悼む場にはふさわしくないのではないか、と青葉は訝る。ため息と笑い交じりの声は、どこか他人事のようだ。

「分からないと言うと、まだ遺体が見つかっていないとか?」

「いや。恐らく葬式も、四十九日も終わっているんだと思う」

「恐らく?」

 青葉の内心を代弁するようにみずなが聞く。ゆかりは頷いて、青葉がいる空間をちらりと見た。

「集まりの参加者としては、やはり共有しておかなきゃならないね。そう。誰か死んでいるんだとは思うのだけど、誰が、いつ、どうやって死んだのか、覚えてないんだ」

 みずなが下唇に手をやる。青葉は目を見開いて、ゆかりの無表情な瞳を見つめる。

「四十九日……?」

 直観が青葉の口から洩れる。みずながそれを拾う。

「そうなんですか?」

 ゆかりが首をかしげる。

「何が?」

「すみません。それは、四十九日と何か関係があるんですか?」

「ああ、やっぱり青葉さんはそこにいるんだね」

 ゆかりの淡々とした態度が、青葉の直観を裏付けた。

「私は誰かを、忘れている。恐らくは四十九日によって、その人の記憶を奪われているんだな。そいつがどんな顔をしていて、私に何をしてくれたのか、思い出せないんだ」

 そうみずなに語って、ゆかりは唇だけで微笑んで見せる。

「そいつを思い出すための手掛かりになればと思って、専門家の話を聞きに来てるのさ。そう言う意味じゃ、私も四十九日に縛られているというわけだ」

 ゆかりの言葉がどこかとらえどころのなかったことに、一応の理由が付く。要するに、実感の湧かせようがないのだ。相手が死んだかどうかはもちろん、何者であるかすら分からないのだから。

 ただ、と青葉が首をかしげるのと同時に、みずなが口を開いた。

「思い出せないのに、忘れてることは分かるんですか?」

 みずなは柔らかくそう聞く。

 ゆかりの表情がわずかに曇る。青葉ははっと我に返る。みずなの知己だからと油断していたが、みずなの悪い側面が今まさにゆかりへ牙をむいていた。

「みずな……」

「そう。分かる。それがために、忘れているのが忌結び日の結果じゃないかと思っているんだ」

 しかし、青葉を遮るようにゆかりは淡々という。

 みずなが身を乗り出す。

「と、言うと」

「私が忘れているのは、相手から私への働きかけだけなんだ。何をされたかは言うまでもなく、顔は視覚から、声は聴覚から、そいつに働きかけられて記憶するものだ。それだけがごっそり抜けおちている」

「つまり?」

「逆ははっきりと覚えているんだよ。私からの働きかけはみんな、ね。この強引な片手落ち感が四十九日らしいと思わないかい」

 ゆかりはみずなの顔を見ながら言う。

「そいつのことが好きだった、っていうことをね。私の気持ちははっきりと覚えている」

 ゆかりは長く息を吐いた。

「だから知りたいんだ。そいつがいったい何者で、何をしてくれた結果、私はそいつが好きなのか、ね」

 表の通りを走り去る車のエンジン音だけが聞こえている。

 青葉は何も言えなかった。相手の存在すらも曖昧なのに、ただ気持ちだけが残るこの状況を、きっと記憶を奪った側は想像だにしなかったに違いない。そう信じたかった。あまりに残酷過ぎる。逆に、もしも狙った結果なんだとしたら、これほど恐ろしいことはない。

 そんな苦境を巻き返そうとする、ゆかりの決意に青葉は圧されていた。同時に、彼女の無気力そうな態度が途端に哀れにも思えて来た。半分だけ気持ちが残ってしまったが故に、そこにはもう片割れが幻視される。誰も想定しなかっただろう苦しみに、ゆかりは耐えているのだ。

 青葉が言葉を失っているうちに、みずなが身じろぎした。少しだけ俯いて、ひざの横くらいに視線を落とし、そしてゆかりを見上げた。

「好きだから、知りたいんですか?」

 そして、そう尋ねた。

 ゆかりは少し驚いたようだった。青葉も思わずみずなの横顔を見る。そこにあったのは試験に取り組んでいたときのような、真剣な面持ちだった。

「どう言う意味?」

 ゆかりが聞く。

「私も、今、猛烈に知りたいことがあるんです。知りたい人がいるんです。その気持ちを呼ぶ言葉が知りたくて。好き、っていうのはそういう気持ちなんですか?」

 みずなの眼光は鋭い。その横顔から、目が離せない。

青葉は息を呑む。

今聞いたこと、幻聴ではないか? ゆかりが畳に目を落としたのを見ると、どうやら現実に発話された内容のようだ。

やがてゆかりはぽつりと言った。

「逆かも知れない。知りたいと思える相手こそが、好きなのかもね」

「と、言うと」

「それだけ情熱を燃やせるかってこと。相手の分からないことを誰よりも深く理解しようとできるかどうか、ってことなんじゃないかな」

「そうですか。ありがとうございます」

 みずなはそれだけ言って、黙り込んだ。下唇に手を当てて、神妙な顔。

 一体何を考えているんだろう、覗いてみたい。むしろそのまま口にしてくれたらいいのに。意識して閉じていた心が開いていくのを抑えきれない。

 喜びが溢れ出しそうで、口を押えて青葉は畳とにらみ合う。

みずなは「好きがどういう気持ちなのか知りたい」と言った。

みずなが新しい交友関係を築くことは難しいから、それは既存の人間関係の中に好きがあるはずだ。

それなら、と自負があった。みずなは青葉への恋慕を取り戻したのだ。

 みずなの愛情が自分に向いている。有り得ないはずの悲願がいつの間にか実現していたのだ。視界が桃色に染まっていく。頬がヒートアップして蒸気を噴きそうだ。妙に力が入ってしまって、体が前のめりに倒れそうで、喜びで前が見えなくなる。

 抑えきれずに変な声が出そうになった、まさにその時だった。

「あら、お早いお着きで。ご歓談いただいているかしら」

 ふわりと着地した声が青葉を現実を引き戻した。霧が晴れる。お腹は楽になって、ほっぺたは急速に冷める。

 袈裟姿の穂乃果が、襖を開いて穏やかに笑っていた。

 みずなが時計を見やる。

「もう話し合いは終わったんですか? まだ時間まで随分ありますけど」

「紛糾するような話題が無かったの。新しい忌結びを受け持ちました、って報告だけ簡単にあげて、おしまい。ほとんどの集まりはそれだけよ」

 穂乃果はそう言いながら、青葉の方をじっと見ている。

穂乃果の読心力を思い出すと、恥ずかしさで頬が熱くなってしまう。

 何を見ている、と睨み返した時に、僅かな違和感を覚えた。原因はすぐにわかった。穂乃果の瞳が揺れている。視線を合わせなければわからないような、そんな微かな震えではあったけれど、確実に。

 どうかしたのか、と目線にメッセージを込めてみたが、

「じゃあ、もうしばらくごゆるりとおくつろぎくださいな。私は少しだけ雑用がありますから」

 穂乃果は襖を閉じてしまった。

「どうかした?」と聞いてくるみずなに、「いや、何でも」と空返事をする。

煮え切らない気分だった。さっきまでの溺れるような幸せに一石を投じるためだけに穂乃果が現れたように思えて、釈然としなかった。

ただ、ゆかりと雑談を始めるみずなの横顔を眺めているうちに、そんな黒っぽい感情はどこかへ行ってしまった。


 

 みずなはその後、ついに一日中青葉とは口を利かずに床に就いた。安らかな寝息が聞こえてきたのは、丑三つ時を回ったくらいだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る