第13話 二七日(十一月二十一日)
週末になり、最後の試験が終わった。
青葉はこの試験期間中、巴みずなという秀才に驚かされ続けていた。下書き用紙に何の迷いもなく一度、そして解答用紙に校正を加えながら一度、みずなは制限時間ぴったりに答案を書き上げる。文字は整ったもので、プレッシャーとか、焦りとかいった答案の精度を鈍らせるような感情とは無縁だった。
主席、という結果をみて何となく感じていた、想い人の絵にかいたような才女っぷりを目の当たりにして、青葉は驚きながらも、自分のことのように誇らしく思っていた。
こうしてみずなの回答ぶりを見ていられたのは、大学の試験だからだ。穂乃果によれば、もっと公的な試験――例えば、公務員試験や司法試験の折には、霊体によるカンニングを防ぐために住職が駆り出されるのだという。人のことは信じたいものだけれど、と穂乃果は肩をすくめてみせたものだった。
教室からは学生が吐き出されていく。週末であることも相まってほっとした明るい顔の中に、時々深刻そうな顔が混じっていた。
みずなと青葉も、そんな流れに乗って講義棟から出るところだった。
「終わったねー、みずな」
「そうだねー。思ったより簡単だったから、今回もいい点とれるんじゃないかな」
「へー、そう」
みずなの回答ぶりを見ていると、「いい点」が示すレベルには多分二人の間で齟齬がある。青葉にとってのそれは即ち及第点だが、みずなが見据えているのはもっと高みだ。
ただ、今はそんなことは、どうだっていい。
「んじゃあ、さ。試験も終わったことだし、どこか遊び行こうよ」
こう言える時を、青葉がどれだけ待っていたことか分からない。
試験という目前の課題が片付いた今こそ、みずなの心をこちらに向けるチャンスだ。長い、長い試験期間だったと思う。最後の二日間など、永久に続くのではないかと思えたほどだった。
ノリが完全に生前のそれだったが、みずなは両手を打って乗ってきた。
「あー、私アイス食べたいな」
「え、アイス? この寒いのに?」
「おいしいチョコアイスがいいなぁ。ずっと前だけどさ、連れてってくれたアイス屋さん、まだあるかな? 今日行ってみよ」
「うん……、それでいいなら、いいけど」
みずなは足取り軽く駅の方へと足を向ける。アイスを求める明るい鼻歌が聞こえる。
青葉はそんなみずなを横目に、ため息を吐く。
本当は、もう少し強く止めるべきなのかもしれない。今年の冬は気が早くて、もうマフラーが必要なくらいだった。アイスなんか食べて体を冷やすべきではない。
しかし、結局青葉は、黙ってみずなに従っている。
霊障のトリガーが何なのかは結局分からずじまいだ。今も確かに感じている愛情、それ以上の感情を下手に乗せてしまったら、それが引き金になりかねない。
その結果、みずなとは少し素っ気ないくらいの関わり方になってしまっていたが、みずながその変化に気づいた様子はなかった。
電車で一駅下り、十五分ほど歩く。豆腐のような白くて四角いアパートの正面に、件の店は変わらずあった。
みずなはアイス屋と言ったが、実際にはそれは喫茶店だった。橙がかった間接照明と木を主体に整えた調度品。落ち着いた店内、といえばそれで終わってしまう店の人気は、それを切り盛りする気のいい中年のおじさんの人柄と腕前で持っている。豆の持つポテンシャルを引き出し切って淹れるコーヒーの芳醇な香りは、店の少し先からでも変わらず感じられるほどだ。
ただ、惜しむらくは、今の青葉が匂いを感じられないことで、そのせいで青葉は店の前に到着するまで異変に気づけなかった。
店はあったが、営業していなかったのである。
暗く光の落とされた店内を目の当たりにして、青葉はひざから力が抜けるしびれるような感覚に襲われていた。前に来たのは三か月も前のことだから、店じまいをしていても不思議はないのかもしれない。ただ、そう達観せよというのは無理な話だ。
切なさに胸が潰されそうになっている、そこにみずなが声を上げた。
「見て、法事でお休みだって」
慌てて駆け寄ると、入り口の張り紙には、殴り書きの文字が躍っていた。
ほっとため息が漏れたが、すぐに首を振ってそれを打ち消す。
「……ご愁傷様です」
どこかの斎場で涙しているのだろう店主に、青葉はそっと祈りをささげた。
一方のみずなはもう一度殴り書きのメモを読んで、
「今日だけかなぁ」
そう首を傾げた。
「ゆっくり気持ちを整理して欲しいけど……明日も来てみる? 早めにご挨拶したいし」
「青葉ちゃん、仲いいの? 珍しいね」
振り返ったみずなに、青葉は曖昧に笑い返した。
青葉はこの店に、一年次から時々通っていた。クラシックな店の雰囲気が気に入ったのだ。それに一駅下ることによって、知り合いにあまり出くわさずに済むという利点も大きかった。
やがて、良く来るからということもあってか、店主の方から声をかけてきた。普段の青葉であればわずらわしさが先に立ったところだが、それを感じなかったのは、彼と親子ほども年齢が離れていたからだと自覚している。あなたには興味がありません、というスタンスを取る必要が無いから、気負わずに世間話が出来たのだと思う。
じっと俯いていたみずなが、顔を上げる。
「お葬式は大事だよね。人生最後の、一回きりのイベントだもんね」
みずなが唐突にそう言ったのに、青葉は冷や汗を掻く。
あまり良くない話題だ。倫理的にも少し。
それよりも何よりも、都合が良くない。
葬式とは、死者の肉体を葬る儀式である。そして青葉の死において、それは為されていない。みずながそれを不思議に思っても無理はない。
「葬式はどうしたの」ということになれば当然、青葉の肉体がどこにあるのか、という話になる。それは取りも直さず、青葉の死の状況を語ることだ。
それだけは、避けたい。
「……で、でさ、どうしよう。アイスは残念だったけど、何かしたいよね」
「そうだねー。アイスはもう一回出直すとして、じゃあ、今日は……」
みずなは少し考えていたが、すぐに顔を上げた。
「そうだ、青葉ちゃん知ってる?」
「あてがあるの?」
みずなはぽん、と両手を打って、青葉の顔をキラキラした目でのぞき込む。
「用事があってお寺さんに行ったときに教えてもらったんだけど、あそこ、金曜日の夕方に忌を結んだ人たちが集まってお話するんだって」
「へぇ?」
「思い出話とかして、お別れするときのコワイやカナシイを軽くするんだ、って言ってた」
その瞬間、涙の蒸気で湿気っていそうな、かび臭くて重苦しい情景が青葉の脳裏に浮かんだ。本堂に集まった顔は老若男女みな沈痛に俯いていて、言葉少なに故人の思い出を少し語っては、手にしたハンカチで目頭を拭っている。霊体は棒立ちですすり泣くばかり。
試験の打ち上げにはふさわしくないのでは、と思ったが、それは常人の発想だと打ち消す。
「……そうなんだ。それ、行きたいの?」
「うん。どうして死んじゃった、とか、どういう関係だった、とかは興味ないんだけど、集まってる人たちのコワイやカナシイがどういうものなのか、それはすごく知りたいから」
平然とみずなは言ってのける。
ため息が漏れた。先に話してくれてよかった。そんな空間に、みずなの無神経な輝きは害になるどころの騒ぎではない。
「それ、絶対言っちゃダメだからね」
「なんで?」
「なんで……、何も無くたって、自分が何か実験材料みたいに思われてる、って分かったらあんまりいい気分はしないよ。ましてや、遺族の人たちとしゃべるってことだよね。そう言う人って悲しみで神経質になってるから、物凄く怒ると思うよ」
「ふぅん? そこにイカリが発生するの? でも、サンプルにされるのが欲求に対する不満を生むなら、テレビでやってる体験を暴露するコーナーはどうなの?」
「別に、あれは取り上げてもらうためにやってるんだから」
答えながら、青葉は駅に戻ろうとみずなを促した。不幸があった店主が営む店の前でする話とは、お世辞にも言えなかった。
もと来た道を戻りながら、みずなは首をかしげる。
「じゃあ、自分の体験を取り上げられてオコるかどうかは、カナシミがあるかどうか、ってこと?」
「まぁ、悲しみだけじゃないけど」
「カナシミって、どういう気持ち?」
即座に尋ねるみずなの、瞳の輝きが真っ直ぐすぎて、目を逸らしたくなる。ここ最近の、分からない感情を埋めようというみずなの言動は時々つらい。
「どうしても知りたい?」
苦し紛れの逃げの一手に、しかしみずなは即座に頷く。
「取りあえず、実際に遺族の方々とお話をするまでには、分かっておきたいな。オコらせるっていうのは生産的じゃなさそうだし、青葉ちゃんがそう言うんなら、きっと私の身勝手によって発生するイカリなんだよね。カナシミってどういう現象? どういう状態?」
青葉は仕方なく頷く。
「とりあえず現象としては、涙が出るのが分かりやすいかな。泣いてる、って言って分かる?」
「うん。泣いてたらカナシイのね」
「んで、状態、か……」
青葉はいよいよ答えに窮する。悲しみの正体とは何なのか、ぴたりとくる言葉が見つからなかった。みずなといる時にはそんなものを感じている暇はないし、逆に悲しみに暮れている時には、そんなことを考えている余裕なんかない。
「でも、私もよく分かんないな。無くしたもの、手に入らないものがあって、とりあえず悲しいと思って、それから諦めたり、逆に頑張ったりするけど……」
思いついたことを少しずつひねり出していると、みずなが反応した。
「ん、アキラメって何?」
「思いを、欲求を捨てちゃうこと。それのことを考えないようにしようとすること」
「そっか。じゃあ捨てちゃおうか、取っておこうか悩んでる状態ってことだね。葛藤の結果だってことだ」
みずなの即答が、すとん、と腑に落ちる。
数多の悲しみの、一側面であることは間違いなかった。もちろん、そうでない悲しみもたくさんあるけれど。
濁流の中にあるものはただ溺れるばかりで、それがどんな形をしているのかなんて、考えもしない。悲しみを完全に傍観することができるのは、きっとみずなならではのことだった。
「うん……。うん、そうだね。ずっと抱えながら、悩んでる。ものが重たいほど、加速度的に辛いんだ」
「ふぅん。カナシミも、あんまり良くないんだね」
「うん。下手すると、自分で自分を潰しちゃうくらいにね」
青葉は胸に手を当てて、頷いた。
みずなは、とりあえず納得した風だった。
しばらく歩くと、駅が見えてきた。改札を通り抜けようとみずなはICカードを取り出して、その時無造作に、
「自分で自分を潰すって、そんなこと可能かな」
唐突に言った。
「え?」
「単純に、疑問だったの。持てない荷物は下に降ろすでしょ? 落とすのかもしれないけど。心の中ではそう言うことは起きないのかなって。カナシミに暮れて潰れちゃうってことが、あるのかなと思って。自分で自分を潰しちゃうことって、可能かな」
「うん……」
青葉は言葉に詰まって、俯いた。
一緒にホームへの階段を下るみずなは、恐らくなんてことはない笑顔を浮かべているに違いない。川辺にある彼女はただ、一般論として、潰れるという言葉に反応しているのだ。
持ちきれないなら、持たなければいい。彼女の論理は明快だ。
ただ、実際にはそう単純でないことを、感情を揺らさずに説明するのは難しかった。
思考の中枢にまで食い込んだ思いは、思考そのものを引き摺り込んで沈む。だから、とても重い。自重そのものだ。でも、捨てることなんてできない。自分自身を切り離すことなんて、出来やしない。
だから、もろともに沈みながらも足掻くしかない。今の青葉のように。
そして、霊体の身にあっては、その思いもまた、みずなを巻き込んで何もかも壊してしまうかもしれない。
「青葉ちゃん?」
はっと顔を上げると、すでに電車の中だった。
「どうしたの? ぼーっとしてるよ?」
「うん、ああ、ごめん。私も、そんなことあるのかな、ってちょっと考えてた」
「ねー、不思議だね」
短い駅間を、電車は一息に駆け抜けた。
扉が開くと、みずなは軽快に後ろ髪を揺らしながら歩いていく。青葉の方は顧みることもない。
青葉は自分の胸に手をやった。
未だ胸の中に残るそれは、青葉の生を押し潰してなお、もっと深みへと彼女を押しやろうとしていて。
青葉はそれを膝に抱いて、ただ呻いている。再び、潰されないように。
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