第11話
同じ頃、大学では、ゆかりとみずなが向き合っていた。
白く磨き上げられたカウンセリング室は、対面する二人をくっきりと浮かび上がらせている。
「どう? 最近」
ゆかりはいつも通りフランクに、対話を開始する。
「そうですね、青葉ちゃんとの初七日の法要が……、終わりました。あとは中間試験が今週末で終わりますね。結果が楽しみです」
果たして、みずなは『青葉ちゃん』の話を先頭に持ってきた。
しかしいつもより歯切れが悪い。
「法要が終わった、と。その時、どう感じた?」
「えっと、やらなきゃいけないことをやれたので、ほっとしました」
「そう。他には?」
「他に……そうですね。青葉ちゃん、どうやって死んじゃったのかなって思ってました」
「確かに、それは気になるね」
「はい。気になります」
少し掘り下げてみよう、とゆかりは思った。
なぜこの人は死ななければなかったのか。どのようにして最期を迎えたのか。それを知りたいと思うことは、人の死に対して起こる反応としては自然なものだ。
ただ、巴みずなという人間について言えば、それは極めて特別な感情である。
人に興味を持たない彼女が、それを知りたいと思う理由は何か。青葉という存在との関係性を探ることは、重要なことのように想えた。
「じゃあ、どうしてだと思う? 何となくあたりはつけてあるのかな?」
「出来る範囲では」
「ぜひ聞かせて」
「交番で、一日前に発生した交通事故の件数が見られるんです。あと、被害者の数も」
「うん」
「私、家族が事故で死んじゃってますから、少し興味があって。毎日見に行くことにしてるんです。今月の分は、昨日の時点で交番の管区内での死亡事故はゼロ、県下では三件でした。
つまり、青葉ちゃんはこの管区内で、車に轢かれて死んじゃったんじゃないってことですね。それに青葉ちゃんが出不精なことを加味すると、青葉ちゃんが事故で死んだ可能性は低いです」
「ふむ」
「じゃあ、病死かな。ひょっとしたら、いなくなってた間は青葉ちゃんが借りてるアパートに戻ってて、その間に突然死してるかもしれない。青葉ちゃん塩辛いの好きだったから、血管系の病気かもしれない。そう思って、お寺さんにもご協力をお願いしてアパートを開けてもらったんですが、部屋は綺麗に片付いていました。ちょっと綺麗すぎるくらいに。お隣さんに聞いてみたら、二週間は帰ってないかもって話でした。それは私の知っている青葉ちゃんの所在と一致します。そうなると、空白の三日間を青葉ちゃんがどう過ごしていたのかが気になります」
「なるほど。そうなると」
「その三日の間で死んじゃったことは疑いようがありません。さっきも触れましたけど、青葉ちゃんは出不精です。でも、もしかしたら旅行に出て、旅先で死んじゃったのかな、とも思いました。でも、それもよく考えたらおかしいんです。私に連絡が来ないはずないからです」
「うん? それはどうして?」
「青葉ちゃんのケータイには、私の番号しか入ってないからです。多分」
「今どきの女の子が、珍しい」
「九月ごろにケータイ変えた時、アドレスの引継ぎしなかったんです、青葉ちゃん。古い端末はどうされますか、って聞かれた時に、『処分してください』って。お家帰って『最近のスマホは待ち受け長いねー。カメラもいいし』って自慢しながら私の連絡先を登録してました」
「ふむ」
「だから、もしそこらに青葉ちゃんの死体が転がっていたら、私に連絡が来てもおかしくないんです。それか、身分証明書から住所が分かって大家さんへお話がいくか、学生証をもとに大学へ確認があるはずです。ご家族は、多分引き取りを拒否するんじゃないかな」
「なるほど。仕事柄学生課にはよく出入りするけれど、そういった話は聞いていないね」
最後の不穏な推測を掘り下げることは、ひとまず避ける。ゆかりは続きを促した。
「と、なると、常に携帯しているはずのケータイや身分証明書が、見つからないか使えない状態に青葉ちゃんは置かれていることになります。でも、ケータイはともかく身分証明書が使えなくなるほど人体を損壊するような事故だったら、多分ワイドショーやニュースが何か言いますから、そうではないと思います。それを見逃さないためにテレビ見ながら勉強してるので」
「うん。そうすると」
「私の予想では、青葉ちゃんの死体はまだ見つかっていないんだと思います。それを隠そうとしたのが誰かなのかは分かりませんが、人の手によって」
みずなはそこまで言って、ちらと腕時計を見た。
「時間、まだ大丈夫ですか?」
「平気だよ。ちょっとお茶でも飲んで落ち着こう。声が掠れてるよ」
据え置きのポットが、ごぽっと熱湯を吐き出した。土気色をした紅がティーバッグからじわじわ染み出してくる。
漂っているのは安っぽい香りだったが、ゆかりは意識的に深呼吸してそれを取りこんだ。クライアントの気持ちを落ち着かせるために用意したアールグレイに、よもや自分が救われることになるとは。
「はい、どうぞ」
みずなの前にもカップを置いて、ゆかりは椅子に浅く腰掛ける。
親友の死を淡々と考察したみずなは、紅茶を口にして柔らかく微笑んだ。
「おいしいです」
「それは良かった。さて、話を切ってしまってごめんね。続きを話そう。つまり、青葉さんの死は自然死や事故ではなくて、自殺か、殺人の結果である。巴さんはそう考えているんだね」
「はい。もしくは死体遺棄です」
「ふむ、なるほど。そうしたら、そのそれぞれに対して、巴さんはどう思う?」
「どう、っていうと」
「難しく考えなくていい。思ったことを、ポンと一つ二つ言ってみて」
「はぁ。殺人であれば刑法百九十九条への、死体遺棄であれば刑法百九十条への明確な違反行為であり、処罰の対象です。早急な捜査と、犯人の逮捕、そして司法の然るべき対処が必要だと思います」
「うん、じゃあ自殺だった場合には、どうだろう」
「自殺……」
みずなは、そこで初めて口ごもった。
「……えっと」
「焦らなくていい。じっくり考えて。時間はまだ充分あるしね」
ゆかりは確かな手がかりを、そこに見出した。
カウンセリングの王道は、抑圧された感情を吐き出させて再認識することで、正常な働きをする自我を取り戻すことだ。そうした思いに触れる時、普通のクライアントはそれを口に出して良いものかどうか、葛藤する。
しかし、巴みずなは、気後れや気恥ずかしさを持たないはず。そんな彼女が言いよどむとすれば、この質問はみずなにとって、全く想定の外だったということに他ならない。
四十九日の影響力がどの程度なのか、についてはまだ結論を出しかねていたが、ゆかりはこの可能性に乗った。友人の死を非情なほど淡々と考察した彼女が、自殺の可能性については全く、考えもしていなかった。そこには無意識の逃避がある。それは取りも直さず、抑圧された感情へ至る糸口であるはずだ。
やがて、みずなは顔を上げた。
「それは、有り得ません」
「有り得ない?」
「はい。自ら死ぬということは、人類の――と言うよりも、生物の選択肢として有り得ません。すべての生物は、生きるために様々な活動を行っているからです」
「そうだね。それは道理だ」
きっぱりと言ったみずなに、ゆかりは頷く。
そして、少し揺さぶってみる。
「ただ、巴さんからそう言われるのは、少し意外だった。私の界隈ではホットなんだけど、法学の分野では、自殺者の漸増はあまり取りざたされないのかな?」
みずなははっとして、下唇に手をやった。
どうやら金鉱を掘り当てたようだった。自殺の可能性に言及しなかったのは、無知の結果ではない。避けたのだ、無意識に。
みずなの視線が宙を泳ぐ。
じっと、みずなの次の言葉を待つ。
きぃん、と耳鳴りがする。防音の利いた部屋に、ただ鼓動だけが聞こえる。
「……仮に、そうだとしたら」
みずながたどたどしく、言葉を紡ぎ出す。
「仮にそうだとしたら、それは私にはない価値観で、理解できないことです。ある種の単語と一緒で、私にはなくて青葉ちゃんだけが持っている概念が、そこにはあるんだと思います」
ゆかりは頷く。
「そう言った隔たりの中に青葉ちゃんの死があるとするなら、私はそれを知りたいと思います。ただ、認識の齟齬を埋めようとはしていますが、概念に対応する状況が多彩で……、私の能力が欠落していることを実感します。もっと効率の良い方法が無いかとも思います」
みずなはそう言い切って、目を伏せた。
少し心を掘りすぎたかもしれない、とゆかりは気が急いていたことを顧みて恥じる。今日、みずなにはあまりに色々なことを話させすぎ、自覚させすぎた。
更にもう一つ、役に立つかどうかも分からない知見を与えなければならないというのに。
少し間を置いて、ゆかりは決意を固める。
「なるほど、知りたいことがあるけれど、自分の能力に不足があって、分からない。そしてできればそれを知りたいと思っているわけだ」
そして、掘り当てた成果を言葉にする。
「ならそれは、苛立ちと呼ばれる感情だ。分かるかな」
「イラダチ?」
「ある欲求があって、それを何らかの原因によって満たすことができないとき、人はその原因に向けて、それを排除しようとする強い感情を抱く。もっと汎用的な言葉を使えば、それは怒りという物の萌芽だね」
「イカリ」
「その通り。怒るともいう。巴さんは今、ある種の感情や、あるいは自殺の裏にある行動理念を理解できない自分自身に怒っている、と言えるだろうね」
「イカリ……、少し整理させてください」
みずなは下唇に手を当てて、俯く。
「イカリ……、欲求……、原因……、障害?」
独白は意外にもすぐに途切れる。
「そうすると、私は、青葉ちゃんにもイカっている可能性があるということですか?」
「かも知れないね。怒っている可能性がある。一応の意思疎通は可能とはいえ、やはり別れはすぐにやって来る。死ぬ前に一言相談してくれれば、と言うのは普遍的な怒りだと思う」
「それを青葉ちゃんにオコったら、どうなりますか? オコるということは、一体どんな作用を持ちますか?」
みずながまっすぐにゆかりを見つめてくる。
どうしたものか、とゆかりは一瞬ためらう。巴みずなは、そこに存在するとわかれば全力で不利益を排除しにかかる。このまま放っておけばどうなるか、想像に難くない。ゆかりとみずなは、最悪の場合、青葉という感情の鍵を手の届かない所に蹴飛ばしてしまう。
「怒りとは、改善の作用を持つ」
ゆかりは言葉を慎重に選びながら口を開く。
「改善?」
「怒りがあるということは、そこに不満が必ずある。それが怒りを表現することによって解消されれば、心地よく生きられるようになる。問題は、その不満の客観性だ」
「と、いうと」
「例えば、相手が絶対的な指標に――道徳とか、倫理とかいったものに反しているのであれば、誰が見ても明らかな不満の種をまき散らしているのだから、怒りはお互いに実りある物になる。一方で、怒りの対象になる不満が個人的なものだった場合には、ぶつけられた相手は戸惑うしかない」
「そうですか」
「おおむね、理不尽な、身勝手な怒りは、更に相手の怒りを呼ぶだけだね。でも、自分本位だからと言って抑え込むのも、今度は間違いなく存在する不満の種を放置することになる。人間は不快な――いや、自分に不利益を及ぼす物からは距離を置きたいものだから、そうした抑圧のもとで関係を維持するのは難しい傾向にある」
みずなは俯いて、何か考え込んでいる様子だった。
みずなの背後の壁にかかっている時計に、ゆかりは目をやる。そろそろ時間だった。
「……ただ、それは全部、青葉さんが自殺だったら、と言う話だね。案外、まだ見つかっていないだけで本当にただの事故かも知れない」
「それは、そうですね」
「怒りと言う物はさっき言ったような側面も持っている。諸刃の刃だね。だから、使うかどうかは慎重に考えてみてほしい。今日は残念ながら時間だから、お家でも、図書館でも」
みずなははっとして腕時計を見た。
「もうそんなに経ちましたか。分かりました。考えてみます。ありがとうございました」
丁寧にお辞儀をして、みずなは出て行った。
緊張が解ける。
と言うより、自縛していた心の枷が。
カルテを取り出しながら、ゆかりはため息を吐いた。
「あー、大失敗した」
顔を覆う。首を振る。
聞き方も、話し方も性急に過ぎた。クライアントに聞かれるままに答え、こちらの見解を押しつけ、彼女の行動にある種の指向性を与えようと誘導したことは、カウンセリングとしてはなるほど大失敗だ。
ただ、それはもう一つ明るい側面も持っている。
ゆかり自身の目的に照らしてみれば、大きな収穫があったのだ。失われた「怒り」とはどういったものであるかをみずなは自覚し、身近な人間関係に適用しようとさえした。そこへ一つの方向性を与えてみたことが、どう出るか。
B5版の対話メモが一ページ埋まる。次の白紙に目をやって、他に何かないかと考える。
「……青葉ちゃんとやらの死は、大事件ってことみたいだね」
メモ帳の消費速度がそれを裏付けている。記録を振り返ってみると、ここ二週間ほどのメモが全体の約半分を占めていた。
――感情の迂回路は、どうやら存在しそうだね。
ゆかりはボールペンを投げ出して、背もたれに身を預けた。
意識レベルを下げていくと、白色の壁に投影されるように、人型の影がぼんやりと浮かんでくるのが見える。何の特徴もない体躯だ。ただ人間であることを示すだけのシルエット。
瞬きをすれば、それはすぐに消えてしまう。
――じゃあ、うまくすれば、あんたが誰か思い出すことも出来るのか?
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