第10話

 夜が明けて一番に、青葉は穂乃果を訪ねていた。

「どうしたの? 浮かない顔ね」

 穂乃果はそう言って青葉を本堂に通すと、急須と湯呑みを携えてすぐに戻ってきた。

 時間にして一分足らずの、わずかな隙間。しかしその貴重な間と、穂乃果のいつも通り包み込むように優しい微笑が、不安に揺れている青葉にはとてもありがたかった。

「……隣人が、大けがをしました。何の前触れもなく、突然」

「事故というものは、得てしてそう言うものよ」

 あくまでも表情を崩さない穂乃果の甘言は、青葉の目を現実から遠ざけようとする。

 しかし、青葉はそれに抗った。

「気休めはいいです。これが霊障。そうですよね」

 ここに来たのは、優しい言葉に身を委ねて安寧を得るためではない。霊障とは何か。何が起こっているのか。それを正確に知るためだ。そして、みずなを守らなければならない。

「思い込みは禁物よ、本当にただの事故かも知れないし……」

 そう言いながら茶を一口飲んで、湯呑を下ろした穂乃果の笑顔は、次第に鋭く引き結ばれていって、最後には先週見せた冷たい真顔に近づいていた。

「……まぁ気休め抜きで言えば、その自覚があるなら、十中八九霊障で間違いないわ」

「やっぱり」

「霊体が抱く強い思いは、この世にさまざまな不幸をもたらすわ。悪霊、って言い方が多分ぴったりくるんじゃないかしら」

 青葉は頷いた。霊体の周りには不幸が集う。どこからともなく聞こえてきて、知れ渡っていることだ。

「じゃあ、具体的には、どんなことを思ってしまったら、不幸が起きるんですか」

 青葉が知りたいのは、その一点だけだ。それさえ分かってしまえば、後はどうとでもなる。

 期待を込めたまなざしに、しかし穂乃果は困ったように首を振った。

「……正確には、分からない」

「何でですか」

 身を乗り出す青葉。ごまかしは不要だ、と圧力をかける。

 応えた穂乃果のまなざしは真摯だった。

「調べられないから、よ。それには大きく分けて二つの理由がある。大きい方の理由は、霊体の意志や思考は、もっとずっと強い思いに塗りつぶされて消えてしまうってこと」

「強い思い」

「霊体はこの世に留まれば留まるほど、次第に成仏することしか考えられなっていく。生身の人間で言うところの本能に近いわ。食欲とか、睡眠欲とかと同じくらいに、霊体の思考を縛る。ほとんどの霊障は、それが強くなりすぎて発生しているの」

 青葉はひとまず頷いて、続きを促した。知らなかったことだが、今回の件とは関係ない。

「小さい方の理由はもっと個人的な話。考えてみて。霊障が発生した瞬間に何を思っていたのかは、その霊体にしか分からないでしょう? 仮に、『成仏したい』が霊障の動機じゃなかったとして、不幸が起きるほど思いを募らせた霊体に、『あの時何を思ってましたか?』なんて聞けるケースは、無いと言ってもいい位稀だわ。そもそも係わりのない人には、そこに霊体がいたっていうことを知ることすらできないもの。その場に住職が居合せればまだしも……」

「でも、最終的に住職の方々が成仏させるわけですよね。その時になんとか……」

「成仏への欲求に代表される妄執は、他のものを全て塗り潰して強くなっていく。私たち住職にお鉢が回って来るころには、もう話ができる状態ですらないことが多いの」

 穂乃果はゆっくりと湯呑に視線を落とした。

その視線に深い影が差す。顔が強張っていく。いつも泰然としている住職の気配が、この時初めて揺らいでいた。

「成仏の形も、円満なばかりじゃないってこと」

穂乃果の声が震えている。

普段あんなにも泰然としている穂乃果が見せた激しい動揺が、青葉にそれ以上の追及を許さない。職能と言ってのけた笑顔も雰囲気も捨てて、穂乃果はただ悲しんでいる。

初めて垣間見えた、穂乃果の弱い人間くささだった。

 少し早い灯油の移動販売が、空々しく音楽を鳴らしながら走って行った。

 やがて、穂乃果は顔を上げた。

「……まぁ、そんな状況なの」

 そこに、先ほどまで滲んでいた色濃い影は欠片も見当たらなかった。

無かったことにしようとしている。触れるなということだ。青葉も深く掘り下げようとはせずに、目的へと話を戻す。

「……断言できるだけのデータがない、と言うことですね」

「そういうこと。住職としての知見で言えるのはここまで」

 穂乃果はそう言って、力強い視線で青葉の心を覗き込む。

 少し待ってみたが、穂乃果は本当にそれ以上何も言おうとしなかった。

 青葉はため息を漏らしてしまう。

無礼だとは思っていても堪え切れなかった。

専門家は何でも分かっているべきだ、というのは無知から生まれるわがままだ。工学の徒の端くれとしてそれは納得していたけれども、しかし落胆は隠し切れなかった。

しかし、それを見計らったかのようなタイミングで、

「ただ、ね。住職としてはここまでだけれど、田村穂乃果としてはまだ話せることがあるわ」

 穂乃果が力強く言ったのに、青葉はばっと顔を上げた。

「……というと」

 頷くと、穂乃果は急須を傾けて湯呑みに茶を満たした。

「巴さんを好きだっていうのは諦められそうにないかしら」

 そして唐突にそう尋ねた。

「はい」即答すると、穂乃果は深い溜息をついた。

「……じゃあ、こういう話をしましょうか」

 目を閉じて、穂乃果は居住まいを正した。それにつられて、青葉も背筋を伸ばす。

「唐の時代に、一人の男がいた。好きが高じて小さな料理屋を開くと、腕が良かったのか次第に客足は増えた。ずっと自分でも料理を作りながら、店を大きくして、新しく人を雇って、その結果どんどんお客は増え続け、男は肥えていった。

やがて一帯でその名を知らぬ者はいない、ってくらいになったころ、彼はお屋敷に召し抱えられることになった。領主に食事を供する立場になったのね。彼は自分で料理を作ったわ。でも、領主はそれを一口食べると、『見込み違いだった、お前はすでに料理人ではなかった』と言って、男を野に放った。彼はただ困惑するばかりだった」

 ゆっくりと穂乃果は目を開いた。どうやら話は終わりらしい。

「えっと、どういう意味ですか?」

 青葉は続きを促した。

「男は、ずっと料理を作り続けた。それはなぜだったと思う?」

「料理が好きだったから、ですよね」

「そう。最初はね。でも、お店がどんどん大きくなるにつれて、それは変わって行った。いつしかお金を稼ぐことが、目的になってしまっていたのね」

「それが、現状とどうつながるんですか」

「そうね。ここからが私のしたい話」

 青葉は再び姿勢を正す。

「仏の道でどうか、ってことは置いといて……、人を好きになること、それそのものは罪ではないわ。あなたの愛の形は確かに少数派で、ぱっと理解はされないかも知れない。そう言う意味で悪と呼ぶ人もいるけれど、それは違う。人を慈しむという気持ちに、変わりはないもの」

 頷いてよいのか迷ったが、穂乃果の包み込むような気配に促されて、青葉は頷いた。

「その基盤がしっかりしている限り、どんな表現の仕方があってもいいと思うの。体や言葉、あるいは思考という形で目に見えるようにしなければ、気持ちは見えないから」

「はい」

「ただ、気持ちそのものが目に見えないがために、しばしば人は道を踏み外すわ。気持ちは表現を見ることで推し測ることしかできない。だから、表に見えているものが似ているうちは、気持ちが変わっても気づけない。僅かなサインは、見えないものよ。

それが積もり積もって目を向けざるを得ないくらい表現が変わってしまった時には、もう手遅れ。気持ちはすでに別の何かになってしまっている。気持ちが全く別のものになっても、男は料理を作り続けていたけれど、その変化は料理にしっかりと映っていたわけね」

「……私はみずなのこと、好きじゃないって言いたいんですか。それは疑いようがありません」

 穂乃果の意図に気づいた青葉は、むっとして噛みつくが、

「じゃあ、なぜ今回に限って、霊障が発生してしまったんだと思う?」

 鋭くそう問い返す穂乃果。青葉は、答えられなかった。

「違うのよ。これまでの愛情と、昨日の『愛情』。答えはそこにあると、私は思うわ」

 穂乃果はそう言い切ると、話を締めくくった。

「これから檀家さんがいらっしゃるわ。お話できるのはここまで。少し自分で考えてみて」

「檀家さんが」

「死とは容赦のない今生の別れ。どうしたって人の身では抱えきれないことが出てくるわ。普通、残される側がまいっちゃうんだけど、あなたたちは送られる側がつらそうね」

「いえ、まだ平気です」

 少しばかりの強がりが混ざったのを、穂乃果には感じ取られてしまったようだった。

「まだ、ね。それが妄念に変わりそうになったら、すぐにおいでなさい。霊体といろんな意味で渡り合う力が、住職には備わっている。だからどんな霊体の想いも安全に聞ける」

 その時、また一瞬だけ、穂乃果は寂しそうな顔になった。しかし今度のそれは空気を淀ませるほどの質量にはならず、冗談めかした勧めがすぐに飛び出していた。

「本当は想いの根源を振り払って安らかな心でいるのが、一番楽でおすすめなんだけれどね。それは嫌みたいだし」

「それを諦める気はありません……。とりあえず、ありがとうございました」

 立ち上がって頭を下げると、穂乃果は軽くうなずき返した。

「何事も早めが肝心よ。つらいと思ったら、もう手遅れだからね」

「ありがとうございます」

 襖を通り抜けるまで、穂乃果はいつもの微笑で青葉を見送っていた。

 襖の直前でもう一度軽く頭を下げ、外に出るともう日が傾きかけていた。どれだけここにいたんだろうと腕時計を確認しかけて、止めた。

「……帰ろう」

 焼き芋の移動販売車が、青葉とすれ違ってゆっくりと走って行った。

客引きのスピーカー音声は、いつになく大きく響いていた。

 ――何が、違ったんだろう……。

 穂乃果が示した、一つの論点。想いの根底にある気持ちが、知らぬ間に変わっているかもしれないということ。

 正直なところ、意味不明だった。こうして落ち着いて振り返ってみても、霊障の前後で青葉の思考に変わりはない。ただ、みずなのことを想っていただけだ。

 気持ちと思考は別物だ、と穂乃果は語った。そんなわけあるか、と思う。それなら、気持ちを観測する手段は一体どこにあるというのか。

 ――みずなが好き。それが私の、唯一の気持ち。

しかし、それでも結果は厳然と存在する。昨日に限って、青葉は確かに悪霊だった。

悶々としているうちに、例の柔らかな斥力に顔をうずめることになった。通りを一つ間違えたようだった。

青葉は顔を上げて、もと来た道をゆっくりと戻り始めた。

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