第7話 初七日(十一月十九日~)
青葉がみずなと忌結びの関係になってから、六日が経った。
「みずなー」
「なぁに、青葉ちゃん」
返事をしながらも、みずなはノートを繰る手を止めない。下唇に手をやるのは、みずなが深く考え、集中しているときに見せる癖だった。
緻密に書き込まれたページの連続。情報の奔流。真面目学生の証。
同じ学生であったはずだが、青葉には耐えられない。
「やっぱ、みずなくらいになると、勉強楽しい?」
大学は後期の中間試験シーズンを迎えていた。学生たちが、例えば図書館だったり、空き教室だったり、そういった落ち着いて勉強ができる空間を求めて――あるいは、過去の試験問題を探して――うろつく時期だった。
みずなはそんな一学生として、特等席である図書館のキャレルを勝ち取っていた。ページをめくる音がつぶさに聞こえてくるくらいに静謐な空間だった。自然と小声にもなる。
「そうだね。楽しい。あのさ、図書館はお話する場所じゃないし今集中したいから、また後で話そ?」
ノートから一度も目を離さずに、みずなはそう言ってのけた。
反論の余地はなかった。本音を言えば、みずなの傍から離れたくはない。しかし静かな図書館では独り言もよく響く。どこからともなく咳ばらいが聞こえてきたような気もする。
それに、いっぺんやり出すと止まらない質なのだ。それは青葉も良く知っていた。
「……分かった。じゃあ、適当に時間潰してくるわ。またお家でね」
「うん。また」
手を振るみずなの向こうの窓をすり抜けて外に出ると、どんよりとした灰色の空が広がっている。午後から降る、という予報に対して、今日の空は少しだけ頑張っているようだった。
みずなも、昔からずっと頑張り屋だった。それは事故の前も後も変わらない。変わったのは、「頑張った」と堂々と言うようになったことくらいだろうか。
「……とは言っても、あの言い方なくない?」
不満が口からポロリと出てしまう。しかしすぐに青葉は苦笑してそれを打ち消そうとする。
宙に浮いていると、気持ちまで舞い上がってしまうようだった。地面に足がつくくらいの高さまで降りると、みずなはああしか言えないんだ、と自然に納得できた。
ただ、納得したからと言って、湧き上がった憤りがスパッと消えてしまうわけではない。それに、可能な限り一緒にいたいという願いも。
悶々とした気持ちはまだ残っている。みずなが戻ってくるまで、何か気晴らしをしたかった。
青葉は腕を組んで、目の前を睨む。
「とはいっても……。何ができるわけでもなし……」
まずは、部屋に戻ってみずなの帰りを待つ案。
しかしそれには、少しだけ欲求不満が過ぎた。
部屋にいれば少しはみずなを感じることが出来るかもしれない。ただ、結局部屋にある物は物でしかない。余計に寂しくなるか、そこにいないみずなに憤るか、どちらにしても気持ちがこじれてしまうような気がした。
部屋で待つ案は却下。次の案を手に取る。
霊体である彼女にできるのは、知り合いに話しかけることと、行ったことがある場所を回ることくらい。物を動かすことは出来ないようだった。
「行けるところ……、って言ってもなぁ」
今、推して行きたいところは無かった。
割と色んなところに行ってはきたし、それぞれとても楽しかったのだが、場所そのものに思い入れがあるわけではなかった。隣にあった彼女と合わせて、初めてその思い出は輝きだすのだ。
そうして自分の短い一生を振り返ってみると、きらめいているのは本当にみずなのことばかりだった。その隙間にくすんでいる記憶の澱には、青葉はできるだけ触らないようにしていた。動かさないでいるから埃をかぶって見えないのかも知れないが、どっちが先か、なんてどうでもいい。
どこかに行くのも、人に会うのも気が乗らない。
そうして、青葉の持つ選択肢は、すべて却下されてしまった。
「……本当、みずなバカだったんだな、私」
誰にも聞こえないんだ、と思うと、独り言にも力が入る。ため息に引きずられて、青葉はブロックが敷き詰められた地面に視線を落とした。
そんなみずなバカの青葉は青葉なりに、この一週間弱を戦っていた。みずなの心への道を切り拓くためだ。ニュースに噛り付いて離れないみずなの傍に付いて、専門にしていた機械工学の知識で補足を入れるのが主な活動だった。
我ながら情けなくなるような戦果だったが、どこかに行こうと誘ってもテレビから一向に離れようとしないのだから仕方がない。青葉が生きていた頃よりもニュースオタクに拍車がかかっているようで、どうしてだろうと首をかしげたものだった。
それに理由を付けるのは簡単だった。多分、試験中だし遊びに行く気分じゃなかったんだろう。
青葉はそう自分に言い聞かせていた。
中間試験は今週末で概ね終わるそうだった。試験が終わってから改めてアプローチを掛けよう、と青葉は決めていた。五週間と少しの日にちが、残されていることになる。
「あれ? 青葉じゃん」
そう、五週間ぽっちが。
試験勉強がしたい。それは分かる。緊張感を保ちたいのも理解できる。ニュースが好き。それもまぁいい。
しかし、それでも青葉は憤らずにはいられなかった。
試験は毎日それっきり。ニュースは生モノ。理解はできる。
だけど、私だって時間制限付きだ。
そう思ってしまってから、青葉は思いっきり自分で自分を刺し貫いたことに気が付いた。
――要するに、私の存在はその程度ってことだ。
「おーい、青葉ー?」
「あー、もう」
飛び出した舌打ち。
「わっ……ガラ悪っ!」
叫び声と、びくっと後ずさった人影を、青葉はその時初めて認識した。
「わ、ごめんなさい……?」
勢い正面を向くと、知らない顔がこちらを覗き込んでいる。
青葉のことが見えているあたり、少なくとも知り合いのようではある。
青葉は反射的に余所行きの仮面をかぶった。みずなと一緒にいる時の気安さで人と話すのは、難しい。
「えっと……?」
「びっくりした……けど、やっぱり青葉だ! 人違いかと思ったじゃんよー、ぼーっとしてないでよ!」
青葉は首をかしげる。
名前を呼び捨てということは、相当親しい間柄のはずだ。しかし、大学に入ってから出会った知り合いには、そんな存在はいない。
「……青葉……、もしかして忘れちゃった? マナセだよ。マナセ」
青葉が怪訝な顔をしているのに反応したのか、マナセは少し悲しそうに迫ってくる。
百六十センチメートルくらいの青葉よりも、少し背が高い。それは多分、ヒールが高めなブーツのせいだ。目鼻立ちのくっきりした鮮やかな顔は、多分、濃い目の念入りな化粧によって化けたタイプ。
と、なるとお手上げだ。数少ない知り合いは、ほとんど化粧を覚える前の顔しか知らない。
――マナセ……、マナセ……。
記憶の中に、該当する人物は一人。中学時代の同級生だ。だが、目の前のアクティブな感じとはどうしても結びつかない。低めの声は面影があるような気がするが、こんなにはきはきとしていなかったような気もする。
「マナセ……、真瀬、さくらさんだっけ」
外れたら謝ろう、と思って聞いてみると、マナセ――真瀬さくらは冗談めかして笑ってくれた。
「えーっ、やっぱり忘れられてた! ショックだわー。ギリギリ思い出してもらえてよかった!」
「ごめん。パッと見分かんないくらい綺麗になってたから。同じ大学だったんだね、偶然」
「一浪してね、今心理学専攻狙ってるところ。来年配属なの、って、それどころじゃないよ!」
さくらはずいと歩み寄って、声を落とした。
「降りてくるところ見てたよ、青葉。本当に死んじゃったの?」
「うん。ごめん、まさか知り合いに会うとは思わなくて」
「相変わらず擦れてるねー……。そっか、死んじゃったか」
いたずらっぽく微笑みかけるその視線は、どことなくみずなを思わせる。ともすれば不躾なくらいに、ストレートに思ったことをぶつける姿勢。違いがあるとすれば、さくらのそれは旧知の気安さに依ったものだという事だ。
――こんな子だったっけ?
青葉は記憶をたどっていた。
記憶の中の彼女は、とにかく目立たなかった。放っておけば一人で黙々とお弁当を食べて、休み時間はずっと本を読んでいるような、そんな感じ。みずなに声を掛けようと言われなければ、クラスメイトとして以上の関わりは無かったに違いない。
入学当初、話しかけるのに乗り気ではなかった青葉に、みずなは珍しく強硬に反論してきたものだった。私と一緒で、皆の輪への入り方が分からないだけだ、と。青葉は半ば以上みずなのわがままを聞くような格好で、さくらに話しかけた。おどおどしながらも嬉しそうだったさくらの様子を見て、みずなの見立ては確かだったと感心した覚えがある。
それから約一年半、事故が起きるまで、すこしたどたどしくはあったけれどさくらは一人の友人だった。
その頃の彼女と、いまの彼女。記憶がよみがえってくるにつれ、その齟齬が気にかかる。
「……真瀬さんは、結構変わったね。明るくなって、はきはきしてる。何かあったの?」
おぼろげな記憶が根拠だから、強くは聞けなかった。さくらが苦笑するのを見てほっとしてすらいる。
「まぁ、私もいろいろ考えたってこと。昔の私じゃいけないって思ったから、受験を機にいろいろ変えてみたんだ」
「うまくいってるの?」
「まぁ、昔よりはねー。そうだ、時間あるなら、ちょっと話さない? 久しぶりに会ったことだしさ!」
渡りに船だ、と青葉は思った。
さくらはこのキャンパスでおそらく唯一、変わってしまう前のみずなを知っている。昔話に花を咲かせるのも、時間潰しとしては悪くないだろう。
「……いいよ。立ち話もなんだし、場所変える?」
キャンパスは東西に長く、南北の面にいくつか出入口があった。図書館はほぼ中央に位置している。西に行けば食堂と一般講義棟。東に行けば理系の住処である研究棟と運動施設、それとカフェがあった。食堂とは別の、軽食を中心に提供する施設で、学内にしては随分落ち着いた空間だと気に入ったものだった。
そこにしよう、と提案すると、さくらは激しく首を横に振った。
「……私が一人でケーキ食べてるさみしい人みたいじゃん。ダメダメ!」
「え? 何か変?」
何気なくそう言った。みずながしばしば昼食を抜いて図書館に籠るから、他に取り立てて誘う相手がいない青葉は一人で食事をとることが多かったからだ。
しかし、その一言は、さくらを踏み出した足もそのままに、その場に縫い付けた。
失言を悟る前に、キッと振り向いたさくらに睨み付けられていた。
ぞっとした。霊体となってから初めて、寒気に襲われた。
刺し殺されるかと思うくらいに、眼光は鋭かった。
「……嫌だっつってんの。こっち来て」
ゆらり、と青葉の横をすり抜けて、さくらは歩いていく。ブーツのかかとが立てる硬質な音が耳に刺さる。
青葉は慌ててその後を追いかけた。
みずなとばかり喋っていて、ネガティブな感情の機微に疎くなってしまっていたようだった。どうやら地雷を踏んだらしい。それも特大のを。
さくらの消息は、中二の二学期が始まったころで途絶えていた。みずなが四十九日から復帰した直後くらいに不登校になって、それっきり。そのあたりの暗闇が地雷原のように思える。
「……ごめん、悪かった」
さくらは振り向かなかったが、険悪な雰囲気が幾分か和らいだ。
「……こっちこそ、ごめん。反射でキレちゃった」
「良いよ。完全に私が悪い」
「や、ごめん。私のこだわりのせいなんだ。変わったつもりだったけど、まだ上辺だけだったみたい」
「変わる……?」
「そ。中学校のボロクソにコケにされた私は、もう死んでなきゃいけないの」
次第に声が小さく、覇気がなくなっていくのに、さくら自身は気づいていただろうか。広めだった背中は心なしかさっきまでより縮んでいるようにも見える。
どうやら本当にまずいものを踏んだらしかった。
「……あのさ」
青葉はさくらの肩に手を伸ばした。
励ましになるかと思ったのだ。遠くなった肩に手が届いても、触れられはしないのだと途中で分かってはいた。それでも、そうしなければならないと、青葉は何かに突き動かされていた。小さな肩は腕を伸ばしたところにあった。
しかし、その瞬間に、さくらは唐突に振り向いた。
危惧していたよりもずっと明るい顔をしていた。
「……それより、さっきの口ぶり。まるで巴みずなみたい。伝染ってるよ」
さくらの口調には勢いが戻っていた。
気分の切り替わりが唐突なら、話題の転換も唐突だった。面食らった青葉は、無難なクッションを挟んで間をつなぐ。
「え、そうかな……」
「絶対、伝染ってるって。中学卒業してからもずっと一緒だったんでしょっ?」
「んん、まぁね」
「そうだよね。巴みずな、ずっと青葉にべったりだったもんね。ああなっちゃってからも、ずっとそうだったんでしょ?」
「まぁ、そうね」
――そうなってからは、むしろ私がべったりだったけどね。
それを口にするのは気恥ずかしかった。代わりに青葉は黙って頷いた。
「ふーん、そっかー。それじゃあさ……」
さくらは空を見上げた。つられて上を向いてみると、今にも泣きだしそうな曇天があった。
さくらは続きを言おうとしなかった。
突然訪れた会話の切れ目。その間に青葉は心の中で小首を傾げていた。
さくらは一体どこに向かっているんだろう。行先もそう、話の筋道もそう。
それに、何だかさっきから言葉の端々に険がある。
――それじゃあさ、何?
そう訊こうと口を開くのと、さくらが顔をこちらに向けたのはほぼ同時だった。
微笑だった。深い微笑。
瞳はキラキラ輝いていたが、どこか先ほどまでとは異質だった。白熱灯とLEDの違いが、近いと思った。輝きを無差別に振りまくのではなく、若干の指向性を持たせて、心の内を収束させた、強い視線だった。
さくらは口角を釣り上げて、良く通る声で呟いた。
「……それじゃあ、今も?」
「……!」
思わず、身を抱く。ひきつった声が出そうになったのを、何とかこらえる。
冷たい。底なしに。
自らの輪郭を確かめるように、青葉は震えながら心を抱く。凍えてしまわないように幽かな体温をかき集める。
「ねぇ、巴みずなとは一緒じゃないの? ひょっとしてもう忌結びまでしてるかな?」
泳ぐ青葉の視線の先を、さくらはちらっと見て笑って見せる。今やそれは、三日月形にくりぬかれて赤く怪しくこちらに笑いかける、道化じみた無機質な仮面の様にしか見えない。
「どうしたの? 一緒にいるなら、ついでに会いたいなぁって思っただけだよ? ……つっても、そっか。居場所を知ってるなら一緒にいるもんね、多分」
声のピッチは平時よりもむしろゆったりとしていて、元気さの裏返しであったある種のとげとげしさが取れている。ただそのギャップが余計に彼女の言葉を平坦に聞こえさせて、ひどくうすら寒い。
この冷たさには覚えがある。青葉もよく使う無表情のそれだ。燃え盛る感情を覆い隠す無表情の仮面は、熱源が熱ければ熱いほど冷たく、そして分厚く平板になる。時として、過剰に。
では、こんなに冷たい彼女は、その裏でいったいどれほどの思いをたぎらせているのか。
青葉の引きつった顔を覗き込んで、さくらは満足げに頷く。
「じゃあ、青葉にお願い。忌結びさせてくれない?」
「……え?」
聞き返す青葉。
「もう、結構勇気いるんだからね。もう一回言うよ。青葉、四十九日させて」
ジーパンにブラウスという快活な取り合わせで、さくらはこちらを覗き込んでいた。いつの間にか、青葉たちはキャンパス西端の裏門まで来ていた。
さっきからずっと、さくらには振り回されっぱなしだった。話題の転換に青葉はやっと追いつく。
さくらは、青葉がみずな以外に見送りを頼むことはないと考えている。そして、二人は四六時中一緒にいるものだと思っている。そうだとすれば、青葉が一人でつくねんと浮いているのは、巴みずなが見つからないからだ。だから、自分にも忌結びの可能性がある、と彼女は考えているに違いない。
無論、答えはNOだ。
しかし、どう伝えたものだろうか。先の声の冷たさが、まだ青葉の心を凍えさせていた。
今もみずなと一緒か。その一言に正直に答えてはいけない気がしていた。
「……ごめん、もう家族にお願いしちゃった」
青葉は咄嗟に嘘を吐いた。
「家族? 青葉、そんなこと頼める関係だったっけ」
「中学のころからもう五年もたったよ。ちゃんとわかり合えたから」
早めに鳴き出したカラスが、空白を空寒く埋めている。
さくらはしばらく青葉の顔を見つめてから、一つため息を吐いた。
「そっかー。じゃあ仕方ないね」
彼女が首を振るのと同時に、虚無が埋まった。さくらの振る舞いに感情が戻ってくる。
青葉は溺れていた人が息を吹き返した時のように、必要のない呼吸を無意識に激しく行っていた。
「……ほんと、ごめんね、真瀬さん」
息も絶え絶えな青葉の様子に、さくらは眉をひそめていたがすぐに明るく笑った。
「良いよっ、出来たら嬉しいなってだけだから」
さくらは言葉を切って、
「誰だってそうでしょ? 最後の時間を一緒にいたい人っているよね」
「それが、私なの?」
「私、青葉にはすごく感謝してるんだ。あんな私に話しかけてくれて、変わりたいと思うモチベーションをくれた。死んじゃってなければもっと良かったけど、それでもこうして最後に会えたこと、何かの縁かもね。頑張ってお祈りした甲斐があったかも」
さくらは再び微笑んで見せる。今度は、なんてことはない弾けるような笑顔だった。
「あと何日残ってる? もしよかったら、またこうやってお話ししよ?」
「うん、それは全然いいけど」
「けど?」
「……ううん、ごめん。口癖」
「そうだったっけ? まぁ青葉も変わるか。そうだよね」
そう言ってふいに空を見上げたさくらは、両手をかざして呻いた。
「やば、降ってきた」
「傘は?」
「無いよー、もう! 盗られた! じゃあ、またねっ!」
さくらは慌ただしく裏門から走り去っていった。
その背中を見送ろうとしたが、出来なかった。ゲートに近づいていくと、ふかふかのベッドに飛び込んだかのような、柔らかくてどっしりした斥力に阻まれたのだ。
一瞬困惑したが、すぐに穂乃果の説明が脳裏に走る。
霊体は生前行ったことのある場所にしか行けない。そう言えば、自宅も、みずなのアパートも、青葉の生活圏は全て正門側で、裏門から出る事は無かったのを思い出す。そっち側はさびれた住宅街が広がるばかりで、わざわざ行く用事も無かった。
柔らかい斥力は、邪魔でもあったが優しかった。青葉はそれにどっぷりと顔をうずめていた。
「何なの、一体」
体中から力が抜けていた。ため息を吐き出す。
さくらはみずなの所在を聞いた。凍えるような虚無でその目的を覆い隠して。そして青葉に忌結びを迫った。
行方不明だった旧友との再会。しかし印象は最悪だった。変わったというさくらの暗い側面ばかりが、あまりに劇的に記憶へ刻まれていく。
それは、嫌だった。さくらはみずなに連なる人物で、その印象が悪くなることはみずなとの思い出をもくすませてしまうような気がした。
「……さくらもこの辺に住んでたんだ」
そう呟いて、無理やりに意識を明るい方向へ切り替えた。
劇的な、言ってしまえば奇跡的な再会ではある。
関東圏に限定しても、大学は無数にある、それに、このキャンパスだってそう狭くはない。そんな中、示し合わせたわけでもないのに、思いがけず旧友と再会した。運命が作用したと言っても差し支えないように思える。
その上、相手は不登校の末消息不明になっていた過去を、一見感じさせないほどに変化していた。
「心理学専攻狙ってるんだ」と語ったさくらの表情ははつらつとしていて眩しかった。
さくらがここに来るまでに辿ったのだろう道筋に、青葉は思いを馳せる。
高校には行けたのだろうか。あるいは、行けなかったのだとしたら高卒資格認定試験をクリアしてきたのだ。
どちらにせよ、どこかのタイミングで、彼女は一度折れてしまった心を立て直した。
並々ならぬ決意と、努力が、彼女をああまで輝かせている。
その光は、しかし青葉の心を焼いて引きつらせた。
降り出した雨は、地面をしっとり濡らす程度だったのがいつの間にか本降りになっていた。雨足は秋雨というには強めだった。小洒落た色付きブロックの歩道が見る見るうちに彩度を失っていく。
この雨は間もなく、ちょっとした水たまりをつくるに違いない。そこに映る自分の顔はさぞくすんでいるだろうと思った。
みずなの傍にあるという事そのものに、現在進行形の努力は必要ない。みずなは誰でも傍に置くし、青葉の目的は四十九日という時間が解決する。
アクティブなさくらと、パッシブな青葉。そう対比すると、とても情けない気持ちになってしまう。
「……帰るかな」
屋根が欲しかった。雨粒が体を貫くたび、心が濡れ細っていくようだった。
今朝みずなと見た予報の通りに雨は降っていた。にもかかわらず、濡れ鼠になって一目散に走る人は少なくない。それは出がけのうっかりのせいか、それとも天気予報を見る習慣がないのか。
青葉は後者だった。こんな風に雨に降られた時は、みずなの傘に入って一緒に帰っていた。みずなの傘は巨大で、二人で入っても少しゆとりがあるほどだった。
正門を出ると、正面には駅に繋がるコンコースが、左右には遊歩道が伸びている。青葉はみずなの自宅がある右へ折れる。
遊歩道に接している大学の敷地からはせり出すように桜の並木が植わっている。しかし、冬も間近な今は枯れ木とほとんど変わらない。雨を防いでくれるはずの葉もほとんど散っている。春先には写真家がこぞって集まる撮影スポットも、今はただの通り道だった。反対側にも同じように道が伸びていて、その先には住宅街があるという話だが、興味はなかった。
「はぁ……」
ため息が足早に歩くカップルに追い越された。
見るともなしにその後姿を目で追った。年のころは高校生くらいか、少しばかり無軌道な恰好が目に刺さった。小さな折り畳み傘へぎゅっと身を寄せ合って、なにか楽しげだ。
「良いご身分だね、こんな時間に……」
まだ日は高い。無意識に腕時計を確認してしまうが、それは九時三十四分で止まっていた。
それは死の時刻なのだろうか。それとも他に意味があるのだろうか。
取り留めもない思考は、中断される。黒字に白抜きのギリシャ数字をあしらった文字盤が、ぼやけて、滲んでいくのだ。
涙があふれ出していた。
「え……」
拭っても、拭っても止まらない感情の雫は、雨にまぎれて消えていく。
何で、と目頭を押さえながら探る。流れる涙に押し流されないように、自分を支えてくれる手がかりを探す。
羨ましいんだ、と、まずはそう思った。寒空の下であればこそ、相手の体温や息遣いは一層実感をもって感じられるに違いない。彼らの距離は明らかに、青葉とみずなのそれよりも近い。
だが、それだけではないと気づく。
後悔だ。
青葉は驚く。死にたくなかった、などと何をいまさら。
ただ、首を振ってみても涙を振り払うことは出来なかった。
それは現象を考えれば当然のことだった。霊体の身になってしまっては、たとえどんなに身近にあってもみずなを感じることは出来ないからだ。自分から、青葉はみずなと無限の距離を取った。その事実を叩きつけられたから、こんなに悲しいんだと気づく。
青葉はその場に立ち尽くしていた。
触れられないという制約はもちろん当たり前のことで、とっくに納得したものだと思っていた。この感情は、心がつながらないことからの逃げだと、振り払おうとした。
しかし、結局雨が降り止むまで、涙が枯れることはなかった。
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