第6話
かちゃり、とサムターンが軽快な音を立てた。
みずなの住むアパートの一室は、今日から再び、少しの間だけ二人の部屋になる。玄関の扉に迎え入れられて、部屋に入るなり明かりが点くのを体験すると、青葉の中にその実感が改めて湧いてくる。
三日ぶり、と自分で言ったのだが、とても信じられなかった。部屋中に満ちるみずなの気配を感じるのも、ずいぶん久々な気がする。
「そういえば、青葉ちゃんはどこ行ってたの?」
このドキドキする衣擦れの音を聞くのも、久しいような気がする。部屋着に着替えながらみずながそう尋ねてきたのに、青葉はそっぽを向きながら短く答えた。
「お寺さん」
「へぇ、何しに?」
「まぁ、ちょっと、人生相談みたいな。死んじゃってるけどね」
「私にしてくれれば、何でも相談に乗るよ?」
「なんていうの、知らない人の方が話しやすいこともあるのよ。カウンセリングはどうだった?」
青葉は話を逸らす。
「お話しするのは楽しいよ。もうちょっと先生の話も聞きたいかな」
「そっか。どんな話してるの」
「今日は、青葉ちゃんが死んじゃったこと」
「え、なんでそんな話になったの」
「最近どう? って聞かれたから。この一週間では一番、一生のうちで二番目にうれしかったから」
「ちょっと、どういうこと、それ」
青葉が茶化したのに、みずなは大まじめに応える。
「だって、人生で最後の時間を、くれるってことでしょ? 嬉しいよ。私は」
青葉は何も言い返せなかった。
「……そっか」
テレビからは、午後七時のニュースが淡々と流れていた。
『昨日未明、東京都港区で身元不明の女性の遺体が発見された事件について、警察は今日、殺人の可能性を視野に入れて捜査を進める方針を明らかにしました……』
「あらら、怖いね」
青葉が思わずこぼしたのに、みずなはやはり首をかしげるばかりだった。
「これがコワイの? ちゃんと見つけてもらえて、捜査が入るから良かった、って思ったよ」
「それは一側面として、間違いないよ。でも、私は女の人が死んでて、捨てられてること自体がすごく怖い。明日は我が身かも知れないでしょ。いや、私はもう死んでるけど……、ほら、みずなかも知れない」
「それは飛躍じゃないかなぁ。女の人に起こったことと、青葉ちゃんに起こることは全く別の話だよ」
「そうかもね。他人の経験を自分の身に起きたらって置き換える、っていう点で飛躍はあるかも。でも、それを体験したらどうなるのか、どんな気持ちになるのか知りたくない気持ちも、怖いってことだから」
青葉が示して見せると、みずなは「ふーん」と頷いてテレビに視線を戻した。
「知りたくない気持ち、か。私にはちょっと思いつかないな」
「そうね。みずなは何でも知りたがるもんね」
「うん。そんな私にも、コワイって思うことあるのかな。何だろう、私のコワイって。青葉ちゃんは何だと思う?」
「そんなの、みずなにしか分かんないよ」
「じゃあ、青葉ちゃんのコワイは、いったい何なの? ランク付けできるか分かんないけど、一番コワイ」
唐突に聞かれて、青葉は気の利いた返しが思いつかなかった。
「……なんで?」
「青葉ちゃんとはずっと一緒だったし、私と似てるんじゃないかと思って」
理屈とも思えない、もはやこじつけに近いロジックをずけずけと持ち出すその瞳は、しかしどこまでも純粋に、コワイを求めて輝いている。巴みずなとは、そう言う存在だった。知りたいことがあれば、躊躇なく何でもして調べ上げる。
だからこそ、青葉は「なんで?」と聞いたのだ。「何で今なの? 何で怖いを知りたいの?」と。ただ、それを今更言い直しても、みずなの興味はすでに青葉のコワイに向いている。
空間を埋めるニュースキャスターの声は、妙に空々しく聞こえた。
――そんなの、言えるわけないじゃない。
青葉はたまらず、みずなに背を向けた。
「青葉ちゃん? どうしたの? 何かいた?」
みずなの声が飛んでくる。耳に当たって落ちる。
「……多分、みずなには分かんないよ」
跳ね返すようにそう言って、失敗した、と思った。
「本当? どういう事なの? それ」
振り向けば、きっとみずなは期待に満ちたきらきらとした目でこちらを見つめているに違いなかった。だから、青葉は振り向けなかった。
この涙の意味だって、きっと伝わらないから。
「みずなは、知らなくていいことだよ。この世のだれも、きっと知りたくないことだから」
「知りたくないことなんて、あるのかな」
「あるの。さっきも言ったよね。知りたくない気持ちが、怖いなの」
「ふぅん。やっぱり分かんないや」
ニュースが終わり、テレビも、青葉たちも沈黙した。
背後では、みずながカバンの中身を出す音がしていた。ニュースの後は、ノートのまとめなおしをする時間だった。
「みずな」
「何?」
だから、みずなの集中を切ってしまわないように。今言っておかなければならなかった。
青葉は生唾を飲み込んだ。
「みずな、好きだよ」
「うん? そうなんだ」
帰ってきたのは、五年も聞かされ続けた、呪わしい生返事。
事故が起きてからのみずなは、必ず淡々とそういう。
青葉は頭を抱える。事故の前日、そうなる前のみずなと最後にあった日には、幸せな二人が確かにそこにいた。
それが故に、冷淡な現状との絶望的なコントラストがぎらついていた。
「……ちょっと散歩行ってくるね」
呻いて見せると、「いってらっしゃい」とみずなは行儀よく返事をする。
青葉は逃げるように壁を抜けて、浴室へと駆け込んだ。
耳障りなざらざらした音が心を蝕んでいく。呼吸が上がっていた。する必要もないのに。
怖いものは何か。みずなの何気ない問いを思い出して顔を覆った。
一番怖いのは、この距離だ。肩が触れ合うほど近くにいても、みずなの心は遥か彼方で、道行すら掴めない。
そして、そのまま置いて行かれるんだ、という不安が青葉の胸を締め上げていた。自分がそこからいなくなった時、みずなは何事もなく、何も感じずに日常に戻って、自分のことなんか顧みずにニコニコ生きるに違いない。それが、堪らなく恐ろしかった。
青葉は排水溝に身を折った。
零れ落ちた涙は、真下へ続く暗闇に呑みこまれてただ消えていった。
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