第8話

 何もする気になれずに、青葉は結局部屋に帰って、みずなの帰りをじっと待っていた。

 部屋の壁が、迫ってくるようだ。床面積はみずなの実家にあった彼女の部屋と対して変わらないはずなのに、感覚として随分狭く感じる。暗闇に押しつぶされそうだった。

 霊体の青葉には、明かりをとることができない。考えてみれば当たり前のことだったが、青葉はそれを初めて実感していた。スイッチには触れられず、カーテンを開けることも出来ず、人感センサーは存在を認知してくれない。青葉は、そう言う存在になり果てたのだ。

 しかし、と青葉は自嘲する。思い返してみれば、死ぬ前後で状況は変わっていない。みずなは青葉のことをしゃべる置物くらいにしか認識していないのだ。

「今までと一つも変わんない、けどさ……」

ため息を聞いてくれるのは、ベッドの上に座っているクマのぬいぐるみだけだった。茶色と白で一対、全高四十センチメートルくらいの彼女らとは長い付き合いで、中学一年のみずなの誕生日に贈ったものだ。ニュースを見るときにみずなが抱いているのは、決まって白いほうだった。

「代われるもんなら、お前らと代わりたいよ」

 青葉の存在は、ぬいぐるみ以下だ。

あちらはみずなに話しかけることができず、こちらは触ることができない。普通ならどちらが優位かは微妙なラインだけれども、話しかけても気持ちが伝わらないとなれば、触れるぬいぐるみたちの方がいくらかマシなように思えた。共に過ごす同居人として、少しばかり妬けてしまう。

でも、ぬいぐるみがうらやましいだなんて。真っ赤に染まった頬を彼らに見られないよう、青葉は抱きかかえた膝に顔を埋めて、思考を手放した。

『最後の時間を一緒にいたい人っているよね』

 すると蘇ってくるのは、印象的だったさくらの言葉だった。

 それは、青葉の視点で言えばみずなに他ならない。

 では、それをみずなはどうとらえたのだろうか。

 この四十九日を引き受けたのは、みずなの意思だ。一生で二番目に嬉しかった、とも言った。

しかし、それには歪なバイアスがかかっている。みずなは要請を断らない。断るという発想がそもそもないはずだ。

 と、なれば。みずなにとって青葉の存在など、ノートを借りに来た学生と同等だ。無理やりラベルを貼るとすれば、幼馴染。発展して、友情。

「友達か……」

 そう、友達なのだ。

 みずなの気持ちは、恐らく今、そこで止まってしまっている。

 それが余計につらい。かつて確かに、好きあっていた。それ故に。

 事故がみずなを変えた。現象だけ見ればそうなる。しかし、それだけでは納得できない気持ちも確かにある。

 影を落としているのは、家を出るきっかけになった父親の言葉だった。

 言うに事欠いて、それはみずなの愛情を、イカれた気の迷いだと言い切った。それにつき合う青葉も同様で、狂っていると。そんな関係は、ありえないと。

 もし今後もそれを続けるというなら、人間ではないお前は当然娘ではなく、従って家から出てもらうとさえ言われた。

 だから、言われたとおりに青葉は家を出て、みずなのところへ転がり込んだのだ。誰一人として追いかけては来なかった。以来家族とは連絡を絶っている。

 それほどに反発して、ずっと認めなかった言葉だが、みずなの現状を見せつけられて決意が揺らいでいた。

 事故の結果としてある今のみずなが、正常でないとどうして言える。

 あるべき姿に、戻っただけなのではないか。

 青葉は天井の角っこをぼんやり見上げた。暗闇が澱んでいた。何も見えない。

「……そんなの、違う……!」

 怒りが沸き起こるのを感じた。

 ちっぽけな怒りだ。世の摂理と戦うには。常識となぐり合うには。

 それでも、青葉は怒っていた。

 ――それだけで、私はみずなと一緒にいられないんだ。

「……ちくしょう!」

 振り下ろした手は、空しく床をすり抜けた。お前は無力だと世界が嘲笑う。

「……ざっけんな!」

 もう一撃が、もう一撃が何の感触もなく床を通り抜けるたびに、感情が昂る。

 同じ女に生まれた、っていうだけで。一緒に永遠を過ごすどころか、この思いを抱いて逝く権利すら与えられないんだ。

 ――なら、掴み取るしかないじゃない……!

 熱い涙だった。

 霊体はその身と引き換えに、この世へただ一つ、想いを残すことができる。それが霊体に与えられた、常世の者には与えられない権利である。何もできない青葉が、唯一アクティブに振るうことの出来る力。

 無限の距離を一っ跳びで渡る、最後の業。

「私は……、私は……!」

 そのことを思うと、少しだけ身の内に熾った熱が和らぐようだった。燃え盛る心を、少しずつ鎮めていく。

 みずなを手に入れるのは、私。

 みずなが手に入れるのも、私。

 後には、胸の内を排熱する荒い呼吸だけが残った。

 一つ、長い長い息を吐いて、青葉はゆらりと顔を上げた。隣の部屋が騒がしかった。くぐもったうめき声と、慌てて何か叫ぶ声。男女だ。

 ぼんやりと騒ぎが聞こえている。

やがてサムターンが軽快な音を立てたのに、青葉はピクリと身をよじった。

「ただいまー」

 部屋に躍り込んできたみずなは、流れるようにテレビを点け、白いぬいぐるみを抱き込んで座った。

 ちょうど、九時のニュースが始まるところだった。

 青葉は目の端に残った涙の残滓を、こっそり拭き取った。

「おかえり、みずな。勉強捗った?」

「もう、ばっちり。あとは明日もうちょっとだけ読めば、完璧かな」

「ふぅん。それはよかったねぇ」

 本音は半分。粘ついた口調に乗せた当てこすりは、みずなには伝わらない。

「青葉ちゃんは、何してたの?」

「ああ……、真瀬さくら、って覚えてる?」

「……ああ、いたね。それで?」

起こったことをそのまま話そうとして、青葉は思いとどまる。

果たして、どこまで伝えて良いものか。さくらの態度から感じた異様な冷たさは、その裏に隠れている激情は、いったい何物なのか。青葉には図りかねた。

「青葉ちゃん?」

「……ああ、ごめん。みずなのこと、ちょっとしゃべってた」

 青葉は結局、正直にすべてを話すことにした。

「えっ、私?」

「そう。その子がみずなのこと、探してるみたい」

「何の用かな」

「それは結局教えてくれなかったけど……」

 そう言えば、さくらはあの直後に、唐突に話題を変えた。青葉に忌結びを迫ったのだ。その真意もまた不明だったし、今思えば唐突さが恐ろしかった。

「……いろいろ、ちょっと怖かった。声かけられたら、気を付けなよ」

 大きく変わった真瀬さくらの特徴を伝えると、みずなは、分かった、と頷いた。

それは、多分さくらの外見がどういったものかイメージが出来た、という意味だ。怖かった、の部分は、きっと伝わっていない。

しかし、怖いという言葉以外に、ぴったりくる伝え方が見つからない。

じっと見つめていると、みずなはもう一度深く頷いて口を開いた。

「じゃあ、青葉ちゃんは、私とその……、真瀬さんが会ったら、コワイ気持ちになる、って思ったんだ」

「え?」

 不意を突かれて、間抜けな声が出る。みずなの返事は完全に想定の外だった。

「私が、コワイって思うかも知れないんだよね?」

 みずなが繰り返したのに、頷く。

「うん、そうだね」

「なんで?」

「え?」

 再び、想定外。みずなは声が届かなかったと思ったのか、再び言った。

「それが、私にとって不利益かも知れないってことだよね?」

「……うん。かも、ね」

 青葉が答えると、みずなは下唇に手をやって、俯く。

 青葉は戸惑っていた。みずなの真意は、一体なんだろうか。なぜ、「怖い」を掘り下げる。さくらのことではなく。

 やがてみずなは得心いった様子で、再び頷いた。

「うんうん、なるほど。そこで感覚の主体が遷移してるんだね。私のことを良く思ってない人と会うと、私が良くない気分になるだろうな、と青葉ちゃんは想像して、それを自分の身に起こったとして置き換えた結果、青葉ちゃんはその状況になりたくないと思った。コワイと思ったのね。だから、真瀬さんと会うのは、私にとってはあまり良くないかもしれないんだ」

「うん……。そうだね」

 頷くみずなは、神妙な顔をしている。いつもニュースを見ている時の微笑よりもずっと輝いている。笑顔だけならそう珍しくもないけれど、深く関心をたたえたこんな瞳は久々に見る。

「どうしたの? 突然」

 そう聞いてみると、みずなはテレビの画面をじっと見つめながら、はにかんだ。

「うん、コワイって何だろうって。分かりたいなと思って」

 遠くの方で、救急車のサイレンが鳴っていた。

「分かりたい?」

 青葉は訝る。それはみずなが負の感情を失ってから、初めて見せた意思表示だった。

「そ。カウンセラーの先生とお話してても、青葉ちゃんと話してても思うんだけど、私、何か足りないじゃない。皆が常識的に使ってる言葉、幾つか分かってないみたいでしょ」

「そうだね」

「だから、分かりたいなぁ、と思ったんだ」

「……なるほどね」

 納得しかかる。こうしてみずなの口から聞いてみると、知識欲の塊のような彼女が今までどうしてそうならなかったのか、不思議なくらいだった。

「でも、なんで今なの?」

 青葉が素直に頷けなかったのは、その一点だけ。先週も感じたことだ。中学、高校とネガティブな感情に触れる話題には事欠かなかったはず。それが、なぜ今になって。

みずなの横顔は、いつも通り穏やかな微笑に戻っていた。

「うん、えっとね……」

 みずなは視線を泳がせている。言葉を選んでいるのだ。

 それが青葉を余計に緊張させていた。神妙な顔にもなる。みずなの盤石な無感情性を、あっけなく打ち崩した何かが存在する。それをみずなが、語ろうとしている。

緊張に喉が鳴る。

「あのね、私さ……」

 みずなが言葉を継ごうと唇をいったんつぐんだ、その時だった。

 耳障りなサイレンが折悪しくフェードインしてきた。

二人を包みこみ始めていた薄い殻に似た神妙な雰囲気は、あっけなく破られてしまう。

 みずなが外を向いて首をかしげてしまう。

「何だろ、うちかな」

「救急だ。何だろ……」

 歯噛みしながら、青葉も調子を合わせる。

「見てこようか?」

「んー、お願いしていい? ちょっと、こっちの方が気になるから」

 テレビの画面には、ニュースキャスターが大写しになっていた。

「昨日、三重県の山中で身元不明の女性の遺体が発見された事件について、警察は今日、所持品などから遺体を神戸市在住の……」

 努めて無感情なニュースキャスターの声。それを真剣に聞くみずな。

 一瞬にして、いつものみずなの部屋に戻ってしまった。

「……分かった」

 みずなに背を向けて廊下を滑りながら、青葉は眉間を押さえた。

「……何なの、もう」

 扉を通り抜けると、隣の部屋から担架が運び出されるところだった。その上には、鮮やかな茶髪をした若者が呻いていた。

 苦しみようが尋常ではない。何が起こったのかと全身を観察すると、

「――ひっ」

 彼の足の甲には深々と包丁が突き立っていた。

随分と深い。担架が揺れるのにもびくともしないほどに。

「突ぜ……! あっ……!」

それに追いすがる若い女は取り乱すばかりで、何を言っているのかほとんど聞き取れなかった。

「……ふーん。隣ってカップルだったんだ」

 衝撃的な光景を受け入れがたくて、思わずそう口に出していた。

今月の頭にはそんな気配がなかったあたり、ごく最近連れ込んだようだ。

 バックドアを閉じて、サイレンを響かせながら救急車は走り去って行った。その残響を背中で聞きながら、青葉は若者の部屋の方へと滑り寄った。

「にしても、包丁刺さるなんて……。どんな状況よ」

 青葉は扉にそっと手を添えた。当然、入ったことなんてないから、中の様子をうかがい知ることは出来ない。

 みずなは多分、現場の状況や事故の程度は知りたがる。こんな小規模な事故はそもそも報道に載らないか、載ったとしてもずいぶんぼやけたものになる。子細なことが知れる立場なら知りたいと思うのが、みずなだった。

 しかし、青葉にこれ以上の情報は得られない。

 結局の成果は、隣の二人はパジャマで包丁を振るうくらい懇ろだった、ということ。

そして、下手すると貫通しているくらいに、包丁は深く突き刺さっていたことくらいだった。こちらは、重傷、とぼやけてしまう前の貴重な見聞には違いない。

「ツイてないね……」

 包丁がシンクの高さから落ちたとして、多分骨を砕くだけの運動エネルギーは無いだろう。骨と骨の隙間を、あれは見事に貫いたのだ。

それに、そもそも包丁が真下を向いて落ちることそのものが、稀なように思える。

 偶然が折り重なって発生した、最悪のケース。

「……え?」

 自分の思考をなぞってみて、とたんに、ぞわ、と背筋に冷たい寒気が走った。

 青葉はそんな不幸を言い表す言葉を知っている。

 霊障だ。

「待って、何で」

 そうであるとすれば、恐るべき関係性が示されたことになる。

みずなが好きだという気持ちは、引力になる。日常生活に支障が出るくらいの不幸を、誰かに与えてしまう。

 青葉は震えあがった。

「え……、じゃあ、そしたら……」

 青葉は思い至る。

 青葉は、みずなを殺してしまう可能性の塊なのだ。なぜなら、青葉にはそれしかないから。

 吐き気に青葉は身を折った。

 自らの魂そのものを吐き出せと言わんばかりの、激しい吐き気だった。

自分の存在意義そのものが、相手を傷つけるとしたなら。

 いったい自分は、どう存在すればいいだろう。

 みずなに会いたかった。いつも通り横顔で、話を聞いてもらいたい。

 そう強く思ったけれど、それ故に青葉は立ち上がれなかった。

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