第3話

教室にたどり着いたのと、講師がけだるそうに入ってきたのはほぼ同時だった。出席は取らない講義のようで、すぐに講師の乾いた声が、青葉の右耳から入って左耳へ抜け始めた。

みずなの横顔を見ながら、青葉は何度目かのあくびをしていた。生前にこの空間で座っていたなら、確実に眠りへ落ちていただろう。

それに対して巴みずなの受講態度は勤勉そのものだった。当然のように最前列に陣取り、大学ノートへ一心にメモを取るその姿は、眩しい。

ただただ感心して、同時に辟易するばかりだった。青葉にとって講義とは、レジュメを回収して出席表に名前を書き、及第点を取るものだった。そう出来ない物は、前評判やガイダンスを聞いた時点で可能な限り切る。履修は最低限で、スマートに。

――主席ともなると、やっぱり違うんだな。

 青葉の最愛の人は、特待生枠を勝ち取り学費が免除されている。少し羨ましかったものだったけれど、みずなの受講態度をいざ目の当たりにすると、認識を改めざるを得ない。これを全部の講義でやるくらいなら、学費を払った方がマシかもしれない。

とりつかれたようにメモを取り続けるみずなは、青葉の視線など意に介してはいないようだった。それにかこつけてじっと見つめていても良かったのだが、青葉は教壇に立つ講師の少し薄くなり始めた頭と、黒板に刻まれていく文字に時々目を逸らしていた。

退屈ではあることには間違いないが、ほかの場所に行くつもりはない。そこにはみずながいないからだ。

「……住職の待遇についての議論は、枚挙にいとまがない。昨晩のニュースでも取り上げられていたが、霊体たち――正確には彼らの引力にまつわる死傷事故、いわゆる霊障は増える一方だ。対して住職の数は圧倒的に不足しており、法的な補助の必要性も各界から指摘されている。しかし一方で……」

 講師の淡々とした説明が流れていく。

ちらっ、とみずなの顔を窺うと、表情一つ変えずに、赤の線で長い話の要所、要所を書き留めていた。

 この世に長く留まり続けた霊体は、引力と呼ばれる力を以て、この世に害をなす。現場検証において原因が発見されなかった事故は、諦めと追悼を込めて霊障と呼ばれている。一般市民の青葉が知っているのは、ニュースになって食堂のテレビで流れるほどの派手なものだけだが、もっと小さなものまで含めればかなりの数が起こっているに違いない。

 青葉はみずなのノートを覗き見た。

心なしか、「霊障」と「対策」が大きめな字になっているような気がした。

居心地の悪い思いをしているのは、青葉だけなのだろうか。

 みずなもまた、そうした霊障と目される事故で家族をすべて失っている。みずなの生活費は家族四人分の保険金から出ていた。高校まで暮らしていた実家と、進学に伴って借りたアパートの維持費もそこからだ。

後見人としてついた親戚は、これだけの不幸を経たのだから、せめてこれからは何でもみずなの好きにさせようと心に決めていたようだった。だからなのか、青葉が家を出て転がり込んでも何も言われなかった。

家族の喪失を経てなお、みずなが平然としていられるのには、強がりとか気丈さとかそう言った努力とは別の次元の、理由がある。

みずなだって最初からこうだったわけではないのだ。事故の当時は、大方の人間がそうであるように、みずなは家族との突然の別れを嘆き悲しんだものだった。そのやつれ様ときたら見ていられなかった。四十九日が明ける前日など、このままみずなの方が死んでしまうのではないかと思ったほどだ。

だが、今のみずなは違う。

講義の内容は、霊障に対する法学としてのスタンスを語っている。この内容がもし五年前に実現されていたとしたなら、みずなはもしかすると家族を失わずに済んだかもしれない。

そうしたやるせなさに萎れきっていてもおかしくないはずだ。しかしみずなは、一点の翳りも無く輝く瞳で、講師を見つめている。

 ――みずなは変わったね。

 青葉はタイル地の床に目を落とす。

 青葉の知る限り、みずなは二度、大きく変わった。

 最初は、事故を受けて。

 家族の喪失を経て、みずなはそれこそ死ぬほどふさぎ込んで、四十九日の期間中ずっと家から出てこなかった。

 そして、その忌明け。みずなは唐突にあっけらかんと明るくなった。今のみずなだ。それは底抜けに、まぶしいほどで。翳りの一切ないその輝きは、事情を知らない者からすれば一見すごく元気の良い中学生のそれだった。

 その変化に、周りは最初、戸惑ったものだったが――――

「青葉ちゃん、終わったよ?」

「……んあ、ごめん」

 こちらを覗き込むみずなの、後ろで無造作に束ねた黒髪には、僅かに白い粉末がかかっていた。

「黒板消し?」

「その位当然だよ。ありがとうって言うよね? 教えてもらったら」

即座に微笑むみずな。

「……そうね」

 頷きながら、青葉はふと、この光景を第三者の目から眺めてみる。

随分異様な光景だった。最前列に座っていた真面目学生が、講義が終わった途端、嫌に良くできた一人芝居を始めて笑っている。台詞も妙にこっぱずかしい。

法学の講義だから、青葉の知り合いはいないはずだった。そうすると、みずなが青葉に語り掛けるこの様子は、霊体について実感を持たない人間には、ただみずなが狂っているようにしか見えない。平均寿命が順調に伸び続け、同時に核家族化が進む昨今、下手をすればこの教室の半数以上が、霊体と言う存在と対面したことすらないかもしれない。

「みずな、ちょい声落としてもいいんじゃない」

なんだか青葉の方が恥ずかしくなってきて、そっとみずなに耳打ちする。

「なんで?」

「や、周りの目、とかさ……」

 青葉は言いよどんで、そっと口をつぐんだ。

 みずなは首を傾げて、青葉の言葉を待っている。

 彼女は、それを理解できないのだ。

周りから奇異の目で見られることによる、言い知れぬ不快を。

四十九日が明けて元気になったみずなは、底抜けにアクティブで、柔和で、そのくせいつも冷静で。

何をするにも恐れす、何をされても怒らず、決して涙を流さなかった。

みずなは変わった。

明るくなったのではない。影が無くなったのだと周囲が気づくのに、そう時間はかからなかった。

居心地が悪い。そういう概念すら、みずなには無いのだ。

「……何でもない。どこ行くの? 付き合うよ」

「学食かな」

 教室を出ていく学生たちの流れに青葉たちは乗った。

みずなは鼻歌を歌いながら財布の中身を確かめている。

その後ろ髪を、青葉はじっと見つめていた。

無造作に伸びた髪を、くすんだ緑色のシュシュが束ねていた。それは青葉があげたもので、以来みずなはずっと使ってくれている。

大事に使ってくれてはいるけれども、やはり色落ちもしていて、ゴムも伸び気味でだれ始めている。それを贈った中学のころから、ずいぶん時間が経ったんだと実感させられる。

手を引く側だった青葉がいつの間にか追い越されて、それからずっと追いかけ続けていた後姿の、残酷なアイキャッチだ。薄汚れたそれは、青葉の荒んだ心模様を映しているかのようだった。

 青葉は、みずなの心に何が起こったのかを察していた。

みずなは、『持ち去られた』のだ。

 四人の家族に、それぞれ心の影を一つずつ。負の感情と言い換えてもいいかもしれない。

 何故そんな暴挙を、と青葉は思ったが、美談としてよく聞こえてくる重病を持ち去るケースと根っこが一緒だと気づいた。つまり、当人にとって致命的な障害を引き算して、幸せを願う方法だ。

みずなの家族は、負の感情が心臓病とか癌とかいった病気と同じくらいに、みずなを脅かすと判断したのだろう。

 ――厄介な事をしてくれたもんだ。

 短絡的すぎやしないか、と何度も疑問に思ったものだったが、済んだことはもうしょうがない。

 ふん、と鼻を鳴らしたのを、みずなは聞きとがめたようだった。

「どうしたの? 青葉ちゃん」

 周囲のぎょっとした視線が集まった。

「いや、別に。前向いて。ぶつかるよ」

 みずなは妙に耳ざといことがあるから油断ならない。青葉は肩をすくめた。

 麺類のレーンにできていた長蛇の列を抜けて、窓際の個人席に座ったころには、昼休みも三分の一が過ぎていた。

「みずな、お蕎麦好きだよねぇ」

 青葉が嘆息したのに、みずなが笑い返す。

「青葉ちゃんもいっつも担々麺だったよね」

「味濃くないと食べた気がしなくて」

「もう死んじゃったから関係ないけど、味濃い目の食生活は血圧が上がっていろんな病気のリスクが高まるんだよ」

「うん、分かってはいたけどさ。止められないものは止められないよね。多分、病気になってみないと分かんなかったと思う」

「何が?」

「今まで当たり前にあった、健康って奴の大切さが。私も今噛みしめてるよ。味を感じて、香りを楽しめる体を持ってたことがどんなに幸せか」

 みずなが微笑む。

「お化けが食べられるのは湯気だけだもんね。ねぇ、法要したらさ、どんな味がするのか教えてね」

「ん? うん」

 湯気に味なんてあるのかな、と答えあぐねていると、視界の端に気になるものが映った。

すでに食事を終えたらしい集団が、まっすぐにみずなの方へ歩み寄ってくる。男、三。女、二。あぶれた一人は心中穏やかではないだろう。

 遊びなれた雰囲気。青葉の心に、嫌悪感に似た警戒が走る。

「みずな、知り合い?」

 怪訝な声で聞く。

「うん。法学の中でも組分けあるんだけど、同じクラスなんだって」

「何の用?」

「多分ノートかな」

 平然とみずなは答える。

 学系の垣根なく、ノートやレジュメの一方的な貸し出しは常態化しているらしい。青葉は緊張を一息に吐き出した。

 集団の先頭にいた背の低い男が、みずなに笑いかけた。

「あ、巴さんじゃん。元気?」

 みずなは笑顔を振りまいている。

「うん、みんなも元気そうだね」

「サンキュ、ところでさ、巴さん」

 背の低い男子が、ずいと前に出た。

「ノートコピらせてくれない?」

「どうして? 今日休んじゃったの?」

「そうなんだ。ちょっと二限、お腹痛くてさ」

「五人とも?」

「あー、まぁね」

「すごいね。病院には行った? 何か大変な病気かもよ?」

 臆面もなくそういうみずな。

「みずな、その辺にしときな」

 青葉は反射的に口を挟む。

 負の感情を失ったことで、みずなは相手を怒らせることを恐れなくなった。そもそも、怒りとは、恐れとは。それすらも分かっていないのだろう。

故にみずなは、誰に対しても平等に、臆面もなく淡々と彼女の正論を投げつける。

そんな状態で行われる問答が相手を苛立たせてしまう前に止めるのが、青葉の役目だった。この集団だって、青葉が不在の間にみずなから余計なちょっかいをかけたのではないかと冷や汗を掻いていたのだ。どう見てもみずなとは接点の無さそうな集団だったから、余計に気が張っていた。

ため息をもう一度ついて、みずなのきらきらした両目を覗き込む。

「そんな病気あるわけないでしょ。ともかく、みずなのノートが必要とされてるんだから、分けてあげようよ。取りあえずコピーだけならいいでしょ」

「そうだねー。まぁいいか、今は元気なんだもんね」

 みずなは学生たちの方に向き直った。

「はい、どうぞ!」

「お、おう。ありがとう」

 戸惑いながらも、彼らはノートを持っていった。

青葉は鼻を鳴らして見送る。彼らの徒労をねぎらったつもりだ。講義直後のみずなのノートは、とてもじゃないが読めたものではない。主席のメモ帳はこれからまとめなおすことで、初めて意味を持つ。

それでも、最初から貸さないのは角が立つ。ならば、貸してみて無駄だと分からせるのが正解だ。

みずなを余計ないさかいから守る選択肢を考えるのが、青葉にとっての正義だった。

――ちょっと意地悪な気分にもなったけどね。

 気を取り直してみずなに向きなおると、みずなは子どもっぽくはしゃぎ気味の手つきで蕎麦をすすっていた。

 麺を食むその唇は形の良い山型で、化粧を乗せなくてもすっきりとした桜色だった。小さな口から柔らかな曲線を描く顎を経て、ほんのり上気した白い喉へ。その先は厚手のカーディガンの向こう側だった。視線を戻せば、んー、と微笑を浮かべるたれ気味の大きな目があった。

このまま液晶画面で切り取ってしまいたいくらいだった。携帯電話に初めてカメラが付いたその瞬間から、青葉は手軽に感動を保存できる手段に夢中になっていた。

みずながご飯を食べる様は、たとえどんな物でもとてもおいしそうだった。無垢なその笑顔は、途方もなく愛らしい。

 それをこの距離で堪能できるのは、今は自分だけなのだ。青葉はほくそ笑んだ。

「痛っ」

「どしたの、みずな」

「うん、口噛んだ」

「慌てなくたっていいのに」

 みずながそばを食べ終わる前に、集団はノートを返しに来た。やっぱり無理だった、とか聞こえてくるあたり、彼らの方も承知の上ではあったようだった。

 みずなはノートを受け取りながらずっと、微笑を浮かべていた。裏も表もない、自分のノートが役立ったと信じて疑わない晴れやかな笑顔だった。

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