第4話
一日の講義が終わった。まだ日は高いけれど、木曜日はこれでお終いだった。
教室を出る人波は、教室棟を出て左へ向かう帰宅組と、右へ向かう課外活動組で三対七くらいに分かれている。
みずなは、どちらでもない。正面の建物に入っている医務室に向かう、割合でみれば誤差以下の学生だった。
「じゃあ、カウンセリング行ってくるね」
「あー、じゃあどっかで時間潰してるわ。また部屋で」
「うん、またねー」
するすると去っていく青葉に手を振って、みずなは医務室へと入って行った。中はベッドが据え付けられている広めの休憩室と、幾つかのカウンセリング用の部屋に分かれている。
みずなは一番手前のカウンセリング室に入った。
「こんにちはー」
みずなは扉を閉めて、部屋の真ん中に配された椅子に着いた。
向かいに待っていたのは、いつもの女史だった。首ほどに伸びたほとんど黒の茶髪は毛先に緩くカールがかかっていて、彼女の柔らかな雰囲気を一つ演出している。
「はい、こんにちは」
女医はアンニュイで、低血圧気味な声で応えた。耳あたりが良くて、みずなはこの声が好きだった。
みずなは週に一度、この女史のカウンセリングを受けている。
と、言っても、それを受ける意味は、よく分かっていない。ただ母親の遺言だから、という理由で何となく続けているだけだった。これまで専門の施設で受けていたものが、大学でも受けられると聞いて、どっちでもよければ近い方が合理的だなと乗り換えたのである。
担当のカウンセラー、名を石渡ゆかりという女史は、研究の一環として学生に対して無料で面談を行っているらしい。専門はPTSD、心理的外傷のケアだという話だ。
「今日もよろしくお願いします」
みずながそう言う。
それを受けて、ゆかりが頷く。
みずなにとってはただの習慣であるカウンセリングも、ゆかりにとっては一つの仕事だ。カウンセリングの王道である、信頼を預けやすいようなおおらかな声を作って、
「はい。よろしくね」
ゆかりは答えた。そして、
「どう? 最近」
おもむろに切り出す。初動で話すことは、みずなにとって最も印象に残った事柄に他ならない。それを尋ねるのがゆかりのみずなに対する会話の常だった。
「あー、青葉ちゃんが死んじゃいました」
「青葉ちゃん?」
「同居していた友達なんですけれど、突然三日くらいいなくなっちゃって、戻ってきたと思ったら霊体になってました」
あっけらかんとみずなは言う。
「ふむ、大事件だね。それでどう思った?」
「四十九日の相手を私に選んでくれて、嬉しかったです」
ゆかりの平静を、語られる悲劇的な出来事と、表出している感情の平坦さのミスマッチが揺さぶった。とはいえ、ゆかりもその道の者だ。多少の動揺は、瞬きを少し増やすくらいでいなすことが出来る。
「……そう。なんで嬉しかったんだと思う?」
「人生に一度きりの機会だから。結婚とかと同じくらい、嬉しいです」
「そうね。それはとても嬉しいことだ。では、他に何か、感じなかったかい」
「他?」
「例えば、そう……」
ゆかりは内心を表に出さないよう、細心の注意を払った。
「怖い、とか」
「コワイ?」
みずなは、はた、と首を傾げた。
感情に関わる話をするたびに、こうだ。ゆかりは内心、ため息を吐く。
――四十九日、本当に厄介だね。
こと、みずなに対しての面談は、PTSDの治療を目的としたカウンセリングではない。改善など出来やしない。それによって励起される恐怖が、怒りが、そもそもないのだから。
みずなが『負の感情』を失ったのは、思春期のど真ん中だ。その結果として、失った感情のほかにも、みずなは発達に重大な問題を抱えていた。相手の気持ちを慮れないことを中心に、彼女は他人とのつながりが非常に表面的で、希薄なようだった。
そんなみずなに対するゆかりの興味は、四十九日による気質の操作がどれほど強力な影響を、どこまで及ぼしているのか、という点に注がれている。
そして、それを覆すために八方手を尽くしている。今日のように感情を直接呼び起こそうとすることもあれば、失われた社会性をつつくことで間接的にアプローチすることもある。それはみずなにも伝えてある。
ただ、結果は大抵振るわないのだが。
「コワイって、なんですか?」
果たして、じっと考えていた様子のみずなは、心底不思議そうにゆかりを見上げた。
「そうだね。感覚の話をすれば、胃袋がきゅっと縮まって、そわそわして居心地が悪くなる感じ。今回の話で言えば、青葉ちゃんが死んじゃった、ってわかった時、もう会えないんだ、とか、どうして死んじゃったんだろう、とか思わなかった? その延長線上にあるんだけどね」
「どっちも思いましたけど、それがコワイってことなんですか?」
「んー。それは、事実を認識した、ってだけだ。怖いっていうのは、もう一つ先にある」
「……よく、分かりません」
「まぁ、ゆっくり取り戻していこう。他には、何かなかった?」
みずなは首をひねって、
「そういえば、今朝突然カバンの肩紐が千切れちゃって。中身をばらまきそうになりました」
「その時、どう思った? もうちょっと詳しく、教えてくれる?」
「中身は教科書とかノートとかだったから無事でしたけど、車道の真ん中だったので急いで拾ってその場を離れました」
「なぜ急いでその場を離れたんだろう」
「車道の真ん中だから、信号も変わるし、早くどかなきゃって思ってました」
「それはどうして?」
「車が来て、撥ねられるからです」
「ふむ、なるほど、なるほど……」
みずなはあくまでも淡々とした語り口。今日の話題はどちらもみずなのトラウマのど真ん中を貫きかねない内容なのに、むしろ弾んでいるようにすら感じられてしまう。
もっと不安定な状態になってもおかしくないのに、感情が揺れる気配がまるでないからだ。予期される反応がマイナスなことで、その差分でみずなは前向きに見えるのだ。
治療者としてはほっとするのと同時に、残念でもある。
ただ、今日はみずなに与える示唆の種がある。成果としてはましな方だ。
「……その判断を私なら、焦った、と呼ぶ。恐怖に――怖い、に割と近い感覚だね」
「そうなんですか?」
「そうとも。知らなかったなら、一歩前進だ。その感覚を大事に」
「はい。分かりました」
みずなは頷いた。
ゆかりはみずなの背後にかかった時計に目をやった。
まだ少しだけ時間があった。今日のカウンセリングをもっと有意義にできないものか、少し考えたゆかりはふと聞いてみる。
「ちなみに、撥ねられるのは嫌?」
「不利益です。車に轢かれて死んだら、不自由な霊体になってしまいます。それに、死ななくても入院とか、治療とかでお金や時間が無為に消費されます」
「ありがとう。そうしたら、今日はここまでにしようか。次回も、来週がいい?」
「そうですね。お願いします」
「じゃあ、来週もこの時間で。元気でね」
「分かりました。では、失礼します」
丁寧にお辞儀をして出ていったみずなを見送って、ゆかりはため息を吐いた。
――理屈として、不利益を計算する力は残っているのか。
「ふーむ、そこからほじくっていくしかないかね」
最後の質問が、意外な治療の足がかりをもたらしてくれた。
そして、足掛かりと言えばもう一つ。
うすぼんやりとしたみずなの人間関係の中で一つだけ輝く、「青葉ちゃん」とやらの存在。
思い返してみれば、彼女の口から他の人物名が出てきたことはない。
しかもそれが、死んだというのだ。これが何らかのきっかけにならないはずがない。
ゆかりは対話メモの真ん中に大きく、その名前を書き留めた。
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