風浪

笹山

風浪

 夕陽に染まる薄い雲を映した湖面は、凪いでいた。八月の中旬、昨日からの大雨は昼前には上がったが、代わりに照りだした太陽が、辺りの湿度と気温を高めていた。湖のほとりに取り残されたように置かれたベンチに私は腰を下ろした。

 黙っていても滲んでくる汗が粘つく空気と交じり合って、自分の体と外気の境界線が曖昧になる。私が「休日は気に入った天気でなければ家から出ない」という信条を曲げてまで、人目を避けつつこの湖まで来たのは、ひとえに昨晩の電話のためだった。

「自殺の手助けをしてほしい」

 そう電話口の彼女は言った。

 彼女が誰なのか、今となっては覚えていない。友人なのか、恋人なのか、それとも家族なのか、上司か部下か同僚か、ともかく自殺幇助をしてくれと頼まれるくらいなのだから、いくらか親しい人であったように思う。

「鎮静剤を一瓶飲むから、死ぬか気絶するかした私を湖に沈めてくれればいい」

 気障なやり方だと思った。それから甘えたやり方だとも。自殺にしてはあまりに静かなやり方だ。それで苦しむのかは判らないが、首吊りや飛び降りの恐怖には及ばないだろう。それにまた、湖というのもしっくり来ない。海ならわかる。海は自殺にはいい。だが湖は、どちらかというと殺す場所だ。

 私は、自殺の理由については聞かなかった。自殺の理由を聞いたとしても、私は彼女にそれをやめさせようとはしなかっただろう。ひとつは、理由がどんなであっても、彼女の中で自殺するしかないとなった以上、私にはどう説得のしようもないからだ。彼女から自殺という希望を奪ってまで、彼女の今後の生活を善くしていける責任など、おいそれと負えたものではない。そしてもうひとつは、私自身の首を吊った経験が、彼女の心情や思想に、なにか共感するところがあったからだ。


 私は額の汗を手の甲でぬぐいながら、湖面や湖を取り囲むように茂った針葉樹の林を眺めていた。陽が落ちきって西の空が青くなり始めた頃、静かな足音を立てながら、彼女がやってきた。私は電球式のランタンのスイッチを入れて、立ち上がって彼女を迎えた。

 だが、なんと話しかけたものか判らず、私は当たり障りのない言葉を選んで言った。

「暑いな」

「ほんとう」

 苦笑いのようなものを浮かべて彼女は言った。それから浅くため息をついて、「もううんざりだよ」

 彼女の顔は普段より綺麗に見えた。ランタンに照らされた顔は青白く、陶磁器のように滑らかだった。唇に濃い紅を差していて、それがいっそう彼女の静かな面持ちを魅力的に見せていた。

 使うものは彼女がすべて持ってきていた。彼女は肩から提げたボストンバッグをいかにも重そうにベンチに下ろした。

「それは?」

「着替え、それとおもりとか縄とか」

「今から着替えるのか」

「まあね」と言って、彼女はボストンバッグから、綺麗に折りたたまれた白いシャツと黒いロングパンツを抜き取った。私は彼女に背を向けて、ボストンバッグの傍らに背を下ろし、煙草に火をつけた。

「待った?」と彼女が後ろから声をかける。

「いや」

 元から彼女はこの時間に来ると言っていたので、私が早く来すぎただけだ。

「ごめん。こんなことを頼めるのはあなたしかいなくて」

「いや」

 私は違和感を感じていた。なにかがしっくり来ない。この状況に、私の気持ちが寄り添っていかない。いや、気持ちの上では自殺の手助けというだけのはずなのに、状況がその範疇にないのだ。そしてその理由を、とうに私は知っていた。

「薬で死ぬのか、溺れて死ぬのか」、私は声に出して言った。

「それが問題だ」、彼女は茶化すように言った。彼女にもわかっているらしい。

 つまり彼女は、彼女が自発的に飲んだ鎮静剤で死ぬのか、それとも私が湖に沈めたことによって溺死するのかという問題だ。それは見方によっては、単に私が彼女を殺すということになる。私が違和感を感じているのは、私が彼女を殺していいのかという問題ではなく、それで彼女が、自殺だと納得できるのかという問題だ。そしてまた、彼女のその自殺の手段が、私にとって納得できるのかという問題だ。

「気にしないで。あなたに殺されるとは、考えてない。よく言うでしょう、自殺行為だって。殺されると分かっているのに、その状況に身を投げ出すのは、それは自殺なの」

 そんなものか。私はとりあえず納得することにした。

 微かに風が吹いてきた。湖を取り囲む林は、いまだ静かなままだ。

 襟を整えながら、彼女が回りこんでベンチの前に来た。

「煙草ちょうだい」

「吸ってたっけ」

「いいえ。ただせっかくだから」

 私は胸ポケットから煙草を出して彼女に渡した。

「ゴールデンバットかあ、あなたらしい」

「いまは君に似合ってる。入水自殺にはいい銘柄だろう」

 太宰治が好んだ銘柄だ。

「なに、怒ってるの」

 怒っているというほどではないが、確かに私は、なんとなく苛ついていた。その苛立ちの原因は分からなかった。

「美味しくない」彼女は咳き込んだ。ランタンの光を受けた紫煙が綺麗だった。


 錘をつけにかかった。風情も何もない、ただの鉄アレイだった。よくこの重さのものを持って来れたものだと苦笑しながら、私は鉄アレイに縄を巻きつけた。それからもう一方を、彼女の脚に巻く。

「下手に浮かんでこないように、しっかりね」

 ベンチに座る彼女の足元に跪き、その細い足首に二重三重と縄を巻く。蒸し暑さが残る空気の中で、ときおり触れる彼女の脚はひんやりとしていて心地よかった。

「痛くはない?」

 そう聞きながら見上げた彼女の顔は、さきほどまでより一層白く、凄みのある美しさをたたえていて、私は思わず目を背けた。彼女はそれに答えず、じっと湖面を見つめている。私は再び縄を締めながら、また、収まりかけていた苛つきがじわじわと頭の中を占めつつあることに気づいた。

 彼女がなぜ死のうとしているのか。それは誰にも救えないことだったのか。そうだ、救えたとしてもそれから先救い続けるのは荷が重過ぎる。いや一度助けたあと、その先は彼女に任せるべきなのか。それは無責任というやつではないのか。

 そしてまた、なぜ彼女はこんなにも安易な手段を選んだのか。飛び降りだとか首吊りだとか、あるいは線路に飛び込むだとか、救ってくれない世の中にささやかな迷惑をかけながら死んでいく気概はなかったのか。少なくとも私のときは、死ぬしかないと思っていながら、ついでに世間に爪跡を残していこうと考えて、人目につきやすい街路樹で首を吊った。その私の考えのほうが誤っていたのか。

 彼女はさっき言葉を濁していたものの、結局私が彼女を殺すことになるのではないか。彼女がそれで救われると思っているのはともかく、それで私は救われるのか。殺人の罪の意識を、彼女が湖に沈んでいく光景を、いずれ悪夢に見ないとは限らない。彼女は、私が自殺に肯定的だと分かっていて自殺幇助を頼んできたのだろうが、それにもまた、自分の中で消化し切れない怒りがこみ上げてきた。

 湿度をはらんだ風が勢いを増してきた。暗闇を覆い隠す林がざわめきだした。


 彼女は軽くなったボストンバッグから鎮静剤のビンと、ペットボトルの水を取り出した。

「あとはこれを飲むだけかあ」

「君はね。俺はそれからが仕事だ」

 そうだねと言って彼女は笑う。彼女の眼差しはいよいよ優しげな光を宿し始め、美しさを高めていく。肩にかかる程度の暗い栗色の髪は艶やかさを増し、白いシャツの襟からのぞく首元に汗で張りついている。

「遺言は」

 そう聞くと、彼女は悩むようにうなった。

「何かないのか。恨み言でも、別れ言葉でも」

 彼女は黙ってうつむいている。

「怒りはないのか。釈明はないのか。黙って死ぬのか」

 やはり黙っている彼女に、私は思わず立ち上がって彼女を見下ろす。自分でも抑えきれない苛立ちをぶつけるように、なにかを責めるように、その項垂れた頭を見つめる。今彼女の顔を見たくはなかった。だが、私が目を背けるより先に、彼女は私をその静かな目で見つめ返して言った。

「あった気がするけど、もういいの」微笑んでいた。

 私は彼女に気取られないように、軽くため息を吐いた。

「ひとりのほうがいいだろう。どこかに行っていようか」

「いいよ、もう暗くて危ないから。でも、ちょっとだけ離れてて」

 私は頷いて、ベンチを離れて湖のほとりに立った。後ろにいる彼女のほうから、ほのかランタンの明かりが差してきてはいるが、水面は真っ黒で私の影も映さない。星々や朧月は少し岸を離れた湖面に浮かんでいる。

 背後でかすかに、瓶の中を薬が転がる音がする。それからペットボトルの水が流れる音と、ときおり嗚咽の混じる乱れた彼女の息遣い。私は二本目の煙草に火をつけて、足元の草を音を立てて蹴った。

 煙草がフィルターまで減った頃になって、

「もういいよ」と声がした。

 それでも私は少しだけ間を置いてから、彼女のもとに戻った。傍らには空になった薬の瓶とペットボトルが置かれていた。

「どれくらいかかるんだ」

「多分すぐ。あと十分あるかないか」

「そう」

「聞いてもいい? 自殺に失敗したとき、どうだった?」

 私はまた立ち上がって、今度はベンチの後ろに回って、背もたれに手をついた。

「そのときは、また生きようと思ったかな。たぶんそのとき、死ぬか生きるかじゃなくて、自殺を試みたっていう事実が、俺には大事だった。ようやく自分の命が、自分だけのものになったって思った。だからもう少し生きてみようって思った」

 彼女は目を閉じうつむいて、私の声に耳を傾けていた。

「でもそれは、結局自殺の原因によるだろう。お前がどうして死ぬのか知らないけど、明日、もし死に損なっていたら、お前はどう思う」

 しばらく彼女はうつむいて、黙っていた。もう気を失っているのか、それとも死んだのかと思われるほど、彼女は身動きひとつしなかった。そしてふいに、

「私は死にたい」と言った。

 風が強くなりだしていた。私は振り返って、今度は林のほうに歩き出した。風に揺られてざわめく木々は、薄月のなかで得体の知れぬ怪物じみた様相をしていた。私はその怪物の足元から、ぎりぎり片手に収まるほどの太さをした枝木を拾った。乾ききっておらず、見た目よりも重かった。私はそれを手に、またベンチに戻った。

 彼女の後姿はやはり美しかった。後ろ髪の合間から見える白いうなじが、すべての憂いや疲れを背負って鈍く輝いていた。肩は静かに上下している。

 私はおもむろに枝木を空に掲げた。それはただの思いつきだった。ただ彼女が、どんな風に思うか試してみたかった。小突くより少し強めに、私は彼女の頭上めがけてそれを振り下ろした。


「あっ」

 そう声を上げて彼女は前のめりに倒れこむ。そして、頭を守るように手を伸ばしながら、私の顔を仰ぎ見る。

 久しぶりに彼女の困惑した顔を見たような気がする。私の目の奥を探ろうと、必死に目を見開いている。口はだらしなく開いて、緊張に息を止めている。

 その目に捉えられた私は言いようもない昂奮を感じ、骨の髄から震えた。ベンチを回りこんで彼女の前に行くと、恐怖と困惑に歪んだ彼女の顔を見下ろした。突風が吹き荒れ、耳を掠めていく風が気分を高揚させ、感覚を研ぎ澄ます。風は林の中を縫って悲鳴のような音を響かせ、湖面に波を生む。

 私は再び枝木を振り下ろした。彼女は防ぐように手をかざすが、それを意に介さずに何度も打ちつける。手首に、腕に、側頭部に、湿った枝木が叩きつけられ、鈍い音を立てる。彼女が声を上げているのかは分からない。たとえそうだとしても、風にかき消されているだろう。時々、彼女の両腕と、枝木との間の中で、見開いた彼女の目が見える。その視線が私の殴打する手を止めない。顎の先から汗がとめどなく流れ落ちる。シャツは濡れて背中に張りつき、滑り落ちそうになる枝木を強く握り締める。

 薬の影響で感覚が鈍くなっているのだろうか、すでに折れているであろう両腕を、彼女はなかなか下ろさない。それを空いた手で押さえ込むと、弾力を失ったスポンジのように彼女の両手から熱く黒い液体が飛び散る。防ぐものがなくなった彼女の頭を力任せに撲りつける。打ち据えるたび彼女の血が、私の腕や顔に飛び散るのを感じる。むせるような血の匂いが、鼻腔にこびりつく。暴風と殴打の音が身体の芯に響く。やがて打撲の音は硬さを失い、彼女の肩から力が抜けると、私は彼女の腕を押さえていた手を離し、今度は両手で枝木を強く掴む。それをまた彼女の頭に振り下ろす。彼女の目はまだ私を見ている。だから私はまた、彼女を撲る。

 私は額の汗を拭きながら、長く息をついた。彼女の身体はもう動かない。彼女の目はまだ私を見ているが、しかしそれに生気はない。大きく肩を揺らして息をする私と、事切れた彼女。風に時折冷気が混じる。


 転がすようにして彼女の身体を湖に沈めると、私はそこで軽く手を洗った。汗と血にまみれた顔もすすぎたかったが、彼女の身体が沈んでいる水で洗うのはなんとなく嫌な心持ちがし、シャツの腹で拭くだけにした。

 気持ちは良くも悪くもなかった。喉の奥になにかわだかまるようなものを感じる一方で、優しく撫でつけるように吹く風が私を恍惚とさせた。

 私は胸ポケットから煙草を取り出して、火をつけた。

「痛っ」

 思わず煙草を取り落とした。右手の親指の付け根に、木のささくれが刺さっていた。

 風はやがて止んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

風浪 笹山 @mihono

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説