第2話 巨大な影

「ところで、夕雨ゆうさめ潮里しおり様」


 二人の声が途切れたのを見計らい、夕雨のワタリが遠慮がちに口を開いた。


「二人で一緒にいるのは、あまり良くないのではありませんか」


 潮里のワタリも、不安げな顔をしている。


「盟約、か……」


 めんどくさげに夕雨はつぶやいた。

 影浪かげろうは死神と盟約を交わすことで、存在の保障を受けている。

 盟約の内容はいくつかあり、その中の一つに、


「影浪どうしが共に行動することを制限する、だったかの」


 というものが存在するのだった。

 この盟約により、影浪は自らのワタリとだけ行動し、影浪どうしで行動することはないのだった。そしてこの規定のせいで、影浪たちは互いがどうしているのかは知らない。

 他の影浪が消えたことを、死神から報告されて知ることも珍しくない。

 現に、この国の範囲を任されている影浪の中で、一番長くる夕雨は、報告を何度も受けたことがある。


「確かに、そうかもな。こうして偶然に出会って少し話すぐらいなら、いいのかもしれぬが。あまりいたずらに時間を過ごしていては駄目かもしれん」


 夕雨の声を聞いて、潮里は静かに立ち上がった。床に置いてあった日傘を手に取る。


「……そうですね。私がいけませんでした。たまには話したいと思い、ここに来てしまったのですから」


 潮里の傍らに彼女のワタリが飛んできた。潮里は、ワタリに向かって空いている手を伸ばした。


「いや、いいのじゃ。我は、気にはやんでおらぬから。それに、我の現出時間もまもなく終わる。頃合いじゃ」


 夕雨はにっこりと笑った。そのまま、階段を降りて地面に降り立つ。


「では、我は先に行くぞ。――またな、潮里」


 夕雨は潮里にそう言うと、意識を集中させた。潮里は、そんな夕雨に向かって小さく頭を下げた。


「はい。また、いつかどこかでお会いしましょう」


 そうして、潮里が頭を下げている間に、夕雨は現世から消えた。赤い光がきらきらと舞った。

 無論、影浪である潮里には、影の世界にいる夕雨がぼんやりと見えた。夕雨は潮里を振り返ることなく、まっすぐその場から去っていく。夕雨らしいと潮里は思った。

 夕雨のワタリもそれに続くように、現世から影の世界に渡った。そのまま夕雨の腕に止まるのが、潮里は見えた。

 潮里はその様子を微笑みながら、見つめていた。夕雨の背が見えなくなるまで、そこで見守っているつもりだった。

 そうして、穏やかに様子を見守っていた潮里に小さな変化が現れる。


「……ん?」


 潮里は何かを感じたのか、唐突に声を上げた。端正な眉をひそめる。

 それとほぼ同時に、順調に動いていた夕雨の足も止まった。潮里からは見えないが、夕雨も同じように眉をひそめていた。

 は、幽魂ゆうこんではないと思われた。なにか、得体の知れない、胸騒ぎを生む気配。夕雨も潮里もその気配自体が、何によるものなのかはすぐに予測がついた。

 だが、


「これは、強すぎますね……?」


 感じとれる気配は、あまりにも強く濃厚で、感じているだけで不快になる。

 その上、かなりの速さで二人に近づいてくる。


 『影浪どうしが共に行動することを制限する』


 先ほど、夕雨が説明した規定が潮里の頭の中に浮かんだが、今はそんなことを気にしている場合ではないと潮里の勘が告げていた。

 意を決すると、潮里は本殿の階段を駆け降りながら現出をといた。影の世界に自らの身を渡らせる。緑色の光がふわりと舞った。


「あ、あの⁉」


 状況が把握できていない、潮里のワタリも慌てて後を追う。ワタリは影浪と違い気配を感じ取ることができないのだった。

 潮里が、夕雨に向かって走ってくる間に、夕雨は自らの右手に想器そうきを形作った。赤い柄を持つ短刀を、静かに構える。


「夕雨、どうしましたか?」


 夕雨のワタリも状況が飲み込めていないのか、そう尋ねた。


「……来るぞ。でかいのがな」


 夕雨は低く答えた。その隣に潮里がやってくる。潮里は、閉じられたままの傘を両手で持った。

 二人が取った行動は、明らかに臨戦態勢であると、二羽のワタリにはわかった。ワタリたちも辺りに目を光らせる。

 黒く塗りこめられた影の世界を、重い静寂が包み込む。そしてさほど経たないうちに、は姿を現した。

 地面に溶け込んでいるように見える黒いもやのような物体が、二人の目の前にすばやく滑り込んできた。

 それは二人の目の前で止まると、地面に溶け込んでいた体を、大きく浮かび上がらせ始めた。何一つ音を立てることなく、その体は地面から出てどんどん巨大化していく。


「――阻害、停想ていそう


 潮里はつぶやくと、傘を開いた。

 傘を開く動きに連動するように、緑色の光が潮里の前に弾けとんだ。そのまま目の前の物体――影食かげくいを包み込むように、光が展開する。

 うまくいけば、影食いの巨大化を食い止められるはずだった。

 だが、


「な……」


 夕雨は、うめくような声を上げた。

 影食いはすぐに緑色の光を跳ね飛ばすと、再び体の巨大化を始めそれを完了させた。


 そうして現れたのは、五メートルほどの高さをほこる、巨大な影食いだった。

 だ円形を思わせる体から、腕のようなものが伸びている。例えれば人の体から頭と足を取ったような、そんな姿をしている影食いだ。


「久々に見ましたね……。これほどに巨大な影食いは……」


 夕雨のワタリが、弱々しい声でつぶやいた。


「……こんな山奥、普段私たちは来ません。そのような場所に隣接している影の世界にも、行くことは稀です」


 影浪の仕事のメインは、現世にとどまる幽魂をあの世に送ることだ。必然的に、彼らが行く場所は人が住む場所が多くなる。


「知らず知らずのうちに、ここまで巨大化したのかもしれません。普段共にいることのない影浪が二人も同じ場所にいることで、そのことに対し、影食いが過剰に反応した可能性もありますね」


 潮里は、小さな声で自らの考えを述べた。内心で潮里は、自らのことを軽く責めていた。自分がここに来なければ、影食いを刺激することはなかったかもしれないと。

 影食いに対峙する二人のそばから、二羽のワタリが飛び立っていく。上空から支援するつもりなのだろう。


 影食いは、上体をゆっくりと動かし始めた。腕のような部分が前後に動く。まるで、自らの体の調子を確認しているかのようだ。


「……これも定めであろうて。我らは――」


 影食いの体から、黒い弾が二つ解き放たれた。二人めがけて宙を切るように飛んでくる。

 夕雨は後ろに跳んで避けた。潮里は、下がりながら開いた傘で受け止める。


「我らは影食いを倒すことも仕事なのだからな。どっちにしても、いずれは、倒さなくてはならんっ」


 夕雨は叫ぶと同時に、影食いに跳びかかった。それに合わせるように、潮里が傘から緑色の光を影食いに向かって放った。


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