第四章 世界の境界で、影浪は笑う。――合同――

前編

第1話 再会

 豊かな山の上に広がる空を、ワタリは高く飛んでいた。

 ワタリは影の世界でも飛ぶことができるが、現世の空を飛ぶ方がずっと好きだった。影浪かげろうから一定の範囲以上離れることはできないが、それでも開放感を味わうことができるからだ。

 真夏の太陽が照り付けているが、ワタリは暑さを感じないため気にはならなかった。


 しばらくそうして飛ぶことを楽しんでから、ワタリは徐々に高度を下げはじめた。目的の建物が見えてくると、その場所に向かって、深緑の木々の中をひたすらに進んでいく。

 小さな神社がはっきりと見えてくる。明らかに鳥居も本殿もぼろぼろで、古びた建物だ。

 組み上げられた木は、ところどころ朽ちかかっている。もう使われていないのは明らかだろう。


 その神社の本殿の階段に一人の少女が腰かけていた。赤い着物が、木々の中で目立っている。

 ワタリは徐々に速度を落とすと、彼女の隣に着地した。


「悠々と飛んでおったな。どうじゃ、よかったか? 現世の空は?」


 ワタリの頭を軽く撫でながら、夕雨ゆうさめは尋ねた。


「はい、気分がよくなりました」

「そうか、それはよかったな」


 言葉を返しながら、夕雨は大きく伸びをした。

 それから、おもむろに本殿の階段を上まで上るとそこであおむけに寝転んだ。床がわずかにミシッと音を立てる。


「はあ……。なんか、待っている間に眠たくなったのぉ」


 そのまま目を閉じる。魂だけの存在とはいえ、眠気も感じる上、ある程度の眠りが影浪にも必要だった。


「何を言っているのですか。今日は、まだ何もしていないでしょうに」

「たまには息抜きも必要であろ? お前の方こそ、楽しそうに空を飛んでいたくせに」

「うっ……。それは――」


 ワタリは言葉に詰まると、木の床に頭を向けた。


「よくわからぬが、世間は夏休みというものに入っているのであろ? 影浪もたまには休むべきなのじゃ。大体、定かな存在ではない我らを働かせているあやつらの気がしれぬわ」

「また……そのようなことを。聞いてたらどうするんですか」

「死神は忙しいらしいからの。我らのことを、ずっと見ている余裕はないに決まっておる」


 言うやいなや、夕雨は体を横に向けた。わずかに塵とほこりが舞う。


「だから、我は休む」

「……。はい、わかりました。いつまでですか?」


 ワタリは諦めたのか、彼女にそう尋ねた。


「現出時間が切れる前に起こしてくれ。後、何か変わったことがあったら起こせ」

「はい」

「ではな」


 そう言うと、夕雨は何も言わなくなった。傷んだ床は汚れているが、そんなことは気にしていないようだった。


「…………」


 ワタリはそんな夕雨の顔を見やった後、空に顔を向けた。

 周りを木々に囲まれた神社には、強い夏の日差しもわずかしか差し込んでこない。

 影浪やワタリは暑さなど感じないので関係ないが、普通の人間なら心地よい場所だろう。蚊が多いことが難点になるかもしれないが。

 ワタリは、空を見つめたまま動かない。傍から見れば置物のようだ。

 夕雨の現出時間が終了するまで、約一時間。退屈することになるが、仕方がないなとワタリは感じていた。







 深い眠りの中で、夕雨は気配を感じた。

 その気配に意識を集中させようとすると、気配は遠ざかってしまう。つかんでもつかみきれない雲のようだ。

 こんな気配を持つ存在。それはなんであったか、夕雨はぼんやりと考えそれから答えに行き当たると彼女は一気に目を覚ました。

 目覚めた夕雨の目に飛び込んできたのは、古びた本殿の天井でも、ワタリの顔でもなかった。


 夕雨より少し年上の少女だ。

 白いブラウスと白いスカートは、本殿の中で目立って見える。夕雨の顔を覗き込むようにして床に座っている。足元には日傘が置かれている。

 夕雨が目を覚ましたことに気づくと、潮里しおりは首を少しかしげて笑った。


「おはようございます、夕雨さん」

「おお……」


 まだ意識がはっきりしていない夕雨は、ぼんやりとうなずいた。何度かまばたきをすると、何かを考えるように潮里から目を離した。

 そして、


「そうじゃっ」


 何かを思い出したのか、夕雨は勢いよく起き上がった。

 彼女が鋭い目を向けたのは、潮里から少し離れた場所にいる二羽のワタリ。そのうち、右側のワタリだった。


「お前……。何かあったら起こせと言ったであろうに」

「別に緊急事態ではなかったので……、よく眠っておりましたし、起こさなくてもよいと、潮里様が」

「そう……なのか?」


 夕雨は、隣で座る潮里に顔を向けた。


「はい、気持ちよさそうでしたよ。見ている私が眠たくなったぐらいです」

「眠らないで下さいよ」


 潮里のワタリが、たしなめるようにそう言った。潮里は「わかってますよ」と、自分のワタリに向かって声を返した。

 二羽のワタリは姿形は全く一緒だが、影浪には、自らのワタリの区別がつくのだった。


「……それにしても、潮里。お前、なぜこんなところにおるのじゃ」

「それはこちらの台詞ですよ。影の世界を歩いていたら、私の近くに影浪の気配をわずかに感じたので、気になって来てみたら……。まさか、こんな山の中で寝ているなんて。驚きましたよ」

「たまには人がおらぬところに行きたくなってな。歩いているうちにこんなところに来てしもうた。静かだから、つい寝てしまったのじゃ」

「なるほど、そうでしたか」


 潮里は、納得したように声を上げた。


「……でも、よかったです。夕雨さん、お元気そうで」

「お前こそな。会えて嬉しいぞ」

「それにしても、お久しぶりですね」

「そうじゃの。我らが最後に会ったのは、煙羽えんうが影浪となった時、になるのか?」


 夕雨の言葉を聞いて、潮里はわずかに目を細めた。


「ということは……もう一年前になりますか、早いですね」

「今さら言うか、それを。我とお前にとって、一年などとるに足らんものに決まっておるであろ」


 夕雨は言いながら、ゆっくりと立ち上がった。着物を軽く払う。

 二羽のワタリは、影浪たちの会話に入ることなくずっと二人を見守っている。夕雨は、そんな二羽にちらりと目をやった。


「どうしておるかの、あいつ。消えたという話は聞かぬが」

「私も何も知りません。おそらく、影浪としてまだ存在しているはずでしょうが……」

「何も聞いていないのですから、無事でしょう」


 潮里のワタリが、言葉を引き取った。


「だな。我らの気にすることではないか。どうせ、あいつは我らのことなど気にしておらんぞ」

「……かも、しれませんね」


 潮里は、小さくうなずいた。


 確かに、初めて会った時の煙羽は、自分たちのことなど気にしていないようだったと潮里は、思い出していた。

 影浪となったことに動揺していて、他のことを考えられないというわけでもなさそうだった。あの時の煙羽はまるで、他人には興味がないとでも言うような態度に見えた。



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