第3話 待ち人

 潮里しおりは、結人ゆいとの手を引いたままひたすら前に進んでいった。

 結人はそんな彼女を何度も見つめたが、潮里が彼に目を向けることはなかった。

 彼女がまっすぐに向かったのは、さびれた海の家の一つだった。花束が置かれた台の横を通り、建物の裏に回る。

 彼女はようやくそこまで来たところで、足を止めた。ここなら先ほどの男性が戻ってきても、気づかれることはないだろう。

 結人から手を離すと、潮里は彼に顔を向けた。彼女の唇は悲しげに固く引き結ばれている。

 結人はそんな潮里を見た後、彼女の足元を見つめた。彼女の靴は、不思議なことに濡れていないようだった。あれほど潮だまりの中で歩き回っていたというのに。

 しかしそれでいて、彼女はしっかりとここに存在している。あの男性は間違いなく、潮里のことを見つめていたのだから。


「……君は」


 結人は、重い口を開いた。


「君は、何?」

「……」

「僕が……僕が、えている時点で、人ではないよね」


 それは、結人が口にするのをずっと避けていたことだった。

 彼は、建物の裏に置かれたバケツに目をやった。そのバケツを軽くのぞき込む。いつまでたっても、バケツの中の水に彼の姿が映ることはない。


「……やっと、言ってくれましたね」


 潮里は小さく口を動かした。


「何度か言おうと思ったけど。……認めたくなかったのかもしれない。自分は、まだ人に視えてる、まだ生きてるんだって思いたかったのかも」


 結人は両手を握りしめるとうつむいた。


「……そんなわけないのに。僕ってバカだ」


 そんな結人を、潮里はじっと見つめた。言うべき言葉をさがす。そうして、まずは結人の質問に答えることにした。


「……私は影浪かげろうです」

「かげろう?」


 結人はほんの少し、顔を上げた。


「現世とあの世の境に存在する者です。そんな私たち影浪の役目はさまよう魂を導くこと。だから、最初からあなたに会うことが目的だったのですよ。……でも、無理やりには訊きたくないから、あなたから言ってくれるのを待ってました」

「それ……死神じゃなくて?」


 結人はそう言ってから、口にしたことを否定するように首を振った。


「いや『かげろう』って呼ぶ方が君に合っている気がするな。……君は、どこか消えそうだから」

「私たちに会った人はみんな、そう言いますね。消えそうだって」


 潮里は、寂しげな微笑を浮かべた。


「私もあなたも、本質的には変わらないんですよ。魂だけなのは同じ。死んだのも同じ」

「君も、死んだ……?」


 結人は、目を見開いた。


「ずっと昔のことだから、もうあまり覚えていないけれど」


 潮里は空に目を向けた。青い空に、カラスが飛んでいるのが見える。彼女のワタリだ。


「でも、そんな私だからこそできることもあるのだと思っています」

「…………」

「訊いていいでしょうか。あなたは私と会うまで、ここで何をしていたのですか?」


 結人はほんの一瞬答えることをためらったが、何かを思いついたように彼女に強い視線を向けた。


「ねえ、君は視えるんだよね? 人に」

「はい、私が、この世に実体化している時だけですけど」

「それなら」


 話してもいいのかもしれない、と結人は思った。彼は覚悟を決めて、潮里に自分のことを語ることにした。


「――僕はね、簡単に言えば、人を待ってた」

「人を?」

「そう、死ぬときにのことを思ったせいかな」


 結人は遠い目をしながら、ぽつぽつと語り始めた。


「僕はどちらかと言えば、意気地なしだと思う。前に出るのとか嫌いだしね。そのくせ、人のことが放っておけないんだ。……さっき、親子連れがここに来てたって言ったよね?」

「はい」


 潮里は、あの場所で見た色とりどりの貝のことを思い出す。


「元気な子だったよ。そのあたりで貝を取っていたのを見たから、あれはその子が置いたとみて、間違いないと思う」


 結人はあの日、友達に誘われてここに来ていた。結人のことを励ますという名目ではあったが、彼の友達は普通に遊んでいた。

 それは結人にとって、穏やかな風景だった。


「…………」

「その子……は、周りの人が目を離したすきに、海に入って、そして」


 結人は、苦しげな表情を浮かべた。


「流されておぼれてしまったんだ。あの日は、今日よりも波が高かったしね」


 あの時のことを結人は、思い出していた。周りの人が、それに気づいた時は遅かった。小さな女の子は、どんどん波にのまれていった。

 助けを呼ぶ声と波の音。助けに行こうとする人、それをとどめようとする人。様々な音と事が重なって、海辺は混乱の状態にあった。


「気づいたら、僕は海に飛び込んでた」


 考えるより前に動く。とは、あのことを言うのだろう。海の中で必死に手を動かした。運動がうまくないことなど頭から抜け落ちていた。


「どうにか運がいいことに、あの子の手をつかむことができて、海の中から突き出てる岩に連れていこうとした。……けど、手をつかめたときに油断したんだよね、今思うと」

「あの……」


 潮里は彼の苦しみそうな顔を見て、話すことをやめさせようとした。だが、結人はやめようとはしなかった。


「波が、来たんだ。大きな波が」


 あともう少しで、一番近くにある岩に手が届きそうだった。子供の手を離さないようにしながら彼は夢中で泳いだ。波から逃れようとした。

 そして、


「二人で波に飲み込まれた……、そこまでは、覚えてる。そこまでは」


 大きな波に体が激しく揺さぶられた。衝撃で、結人の体は海の中に引きずり込まれていった。

 その時には女の子のこともわからなくなっていた。いや、そのことを考える余力さえ彼には残っていなかった。

 沈むのを防ごうともがいた。それがさらにあだになった。


「もがいてもがいて……。苦しくなって……。そして、目の前が暗くなって」


 結人の声は、力が感じられなかった。彼の目は、海の底のように暗い。


「そっから先は覚えてない。気づいたら、ここにいた」


 そこまで言い終えると、結人はふらりと歩き出し建物の陰から出た。そして、海の家の横に置かれた台の後ろに立った。

 潮里も彼の後を追って、建物の陰から出た。ちらりと周りを見たが誰も見当たらない。それを確認してから、彼女は彼の横に立った。

 そして、花束に「如月きさらぎ結人」と名前が載ったカードが刺さっていることを、潮里は見つけた。

 彼女は、そのカードになでるような動作で触れた。


「僕は、ここから動けないみたいで、さ。よくわからないんだけど」

「……はい」

「そこのカードには、僕の名前しかないんだ。だから、女の子は助かったんだよね?」

「はい、町でそのように話しているのを聞きました」


 潮里は小さくうなずいた。


「――奇跡的に助かった、と」

「そっか……。なら、よかった」


 結人は、力なく笑った。


「よかったよ本当に。あの子まで死んだら、僕のしたことは全く意味がなかったことになるから」

「…………」

「そんな顔しないで」


 寂しげな顔を浮かべた潮里に、結人は優しく語りかけた。


「助けたことを後悔はしてないんだ、こう見えて」

「でもっ」


 潮里は、左右に首を振った。


「でも、あなたはここにいます。それは何か後悔……未練があるからでは? だって、あなたは誰かを待っていた、と言っていたではないですか」


 言葉をぶつけてくる潮里を、結人はじっと見つめた。彼の目は落ち着いた光を宿している。


「……僕は、ずっとここにいる。だから、誰が花束を置きに来たのかは知ってる。見たところ、は来ていないみたいんだ」

「彼女……?」

「そう。一目でいい、会いたいんだ。それで満足なんだ」


 結人は声を強めた。


「彼女なら、多分来てくれるはずだから」

「……信じているのですね?」


 念を押すように潮里は問いを投げた。

 潮里は知っている。彼が死んでから、すでに五日ほどたっていることを。それほどたっても、彼の言うは来ない。

 正直に言えば、その人が来ることに自信が持てなくなっても不思議ではない。


「うん、信じてる」


 結人が、強くうなずいた時だった。

 上空を飛んでいたワタリが、緩やかに下降してきた。そのまま海の家の屋根に止まる。


「どうしました? ワタリ……」


 潮里はそう声をかけて、それから、ワタリが見ている方向に顔を向けた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る