第4話 想いには想いを

 目を向けた先で、誰かが海岸に降りてきていることに潮里しおりは気づいた。それは先ほどの男性でも、海の家の店員でもないようだった。

 少女だ。結人ゆいとと同じぐらいの年に見える。

 シンプルな青いワンピースを身に着けている。茶色がかった黒髪は、ポニーテールに結わえられ、歩くたびに揺れている。

 結人も潮里の視線を追って、そちらに顔を向けた。そして動きを止めた。その目が大きく見開かれる。


「もしかして……」


 潮里は少女が手に持っているものに気づいて、声を上げた。見たかぎり、少女はまだ潮里に気づいていないようだ。


「彼女が……?」

「……っ」


 結人は小さく声を漏らすと、何を思ったのか潮里の腕をつかんだ。彼女ごと、もう一度建物の陰に身を潜める。


「どうして」

「…………」

「会いたかったのでしょう?」

(僕って、やっぱりバカだ)


 潮里の声を聞きながら、結人は感じていた。あんなにも会いたかったというのに、いざその時になると、気後れしてしまう。

 そもそも「会う」と言うと少し違うのだ。彼のことはあの少女にはえないのだから。会えたとしても、それは本当に会えたことにならない。

 潮里は彼の手を何度か引いたが、結人は動こうとはしなかった。仕方なく、潮里は、彼の手を自分から離した。

 そして自分だけでも彼女のことを確認しようと思い、屋根の上にいるワタリに向かって手を振った。

 ワタリは潮里のサインに気づくと、彼女に向かって飛び立った。潮里の差し出した左腕に乗る。


「今彼女は、献花台の正面まで来ています。それ以上はこちらに近づく様子がありません」


 小さな声でワタリは、言った。幽魂ゆうこんにはワタリの声が聞こえるため、結人に聞こえるのを避けようとしているのだろう。


「台は建物の真横に設置されているので、建物の隅まで出てくれば、ばれずに済むのではないですか?」

「わかりました」


 潮里がうなずいたのを確認すると、ワタリは彼女の腕から結人の横に着地した。

 結人ははばたきの音に驚いたのか、肩をぴくりとさせた。 

 それでも、結人には動く気配はない。潮里はそんな彼を心配そうに見つめた後、慎重な足取りで建物の隅に寄ると、そこで身をかがめた。

 台の下から、少女が立っていることがはっきりと見えた。まだ、花束を持っていることも確認できる。


如月きさらぎ君……」


 風に混じって、かすかに少女の声が聞こえた。


「もっと早く来ればよかったんだけどな……」


 彼女は言いながら、花束を台の上にそっと置いた。そのまま祈るように手を合わせた。目を閉じる。

 潮里は、少女の動きが止まったことを確認すると、元の場所に戻り結人に顔を向けた。


「本当にいいのですか?」


 抑えた声で結人に尋ねる。

 結人は、左右に視線を揺らした。


「ずっと、会いたかったのでしょう?」

「でも……」

「……仕方ないですね」


 潮里は、足早に結人に近づいた。


「ちょっと……」


 結人が言うのも構わずに、潮里は彼の後ろに回ると、自らの体重をかけるようにして後ろから彼を突き飛ばした。


「わああっ!」


 結人は、その行動を予想できていなかったのか大きく地面に投げ出された。当たり前だが、その体は建物の陰から完全に出てしまった。

 地面に倒れたはずなのに、彼には何の衝撃もなかった。改めて、彼は自分の置かれている状況を突き付けられている気分になった。

 結人はすぐに立ち上がった。そして、


「あっ……」


 ちょうど、祈るのをやめて目を開けたばかりの少女と目が合った。

 献花台を挟んで、ちょうど二人は向かい合う形になっていた。

 結人は大きく表情を動かしたが、少女の顔は憂いを帯びたままだった。

 当たり前だ。

 結人が彼女と目が合っているように錯覚しているだけで、彼女には彼のことなど少しも視えていない。


「やっぱり、ちゃんと来た方がいいもんね。ここにも」


 少女は手を解きながら、つぶやいた。その目は、結人にぶつかったままだ。


「……私がきちんとあなたに答えることができたら、違ったのかな……」


 隠れて聞いている潮里には、何のことかわからなかったが、結人には彼女が何のことを言っているのかわかった。


「それは、違う」


 結人は強い口調で否定したが、もちろん少女に聞こえるわけもない。


「ごめんね、急に言われたらびっくりしちゃって」

「だから、それは僕が――」

「……答えなんて、決まってたのにね」


 少女はそう言うと、顔にかすかな笑みを浮かべた。


「私も君のこと、想ってたよ」

「……っ!」


 その言葉は結人の胸を強く打った。彼は一瞬自分の耳を疑ったが、彼女は確かにそう言っていた。


「また来るね。お墓できるまで、ここに来るよ。君はここにいるような気がするから」


 少女は言いながら、後ろに数歩下がった。


「ばいばい」


 そして、ゆっくりとその場から去っていく。彼を飲み込んだ海を見ないようにしながら。

 結人は彼女を追いかけようとしたが、自分が視えないことを思い出し足を止めた。

 遠ざかっていく青のワンピースをじっと見つめた。はじめて見た彼女の私服姿。こんな形で見たかったわけではなかったのに。

 結人は彼女に向けて手を伸ばした。もう、二度と届くはずのない手を。

 そのまま目を閉じる。泣こうとしたのにできない。


「そうか……泣けないんだ。流すものさえも、僕にはないのか……」


 彼の口から悲しみを帯びた声が漏れた。

 陰から出てきた潮里が、静かな足取りで結人に近づいた。潮里は少女が去った方に目を向けた。


「……来て、くれましたね」

「……うん。あんなことを急に言ってしまったから、嫌われたかなって思ってたけど。そんなことなかったみたい」

「えっ?」

「本当は怖くもあったよ。来てくれるのかどうか。でも」


 結人はゆっくりと目を開けた。その顔に、穏やかな微笑が広がった。


「好きになった人だから、信じてたんだ」


 潮里はその言葉を聞いて、二人の間で起こったことをなんとなく理解できたような気がした。


「……私と同じ」


 潮里は彼に聞こえないよう小さな声で言った。それから、昔を思い出したかのように、目を伏せた。

 そんな彼女の前で、結人の体に変化が起きた。それに気づいた潮里は勢いよく顔を上げた。

 結人の体が少しずつ薄くなっていく。それと共に彼の体から、白い光があふれだしていく。

 未練が完全に果たされ、結人は自らの意志で、冥界に向かおうとしている。潮里の葬送は、必要なさそうだった。


かれるのですね……?」

「そうだね。長かった気がする。たった五日のことだったのに」


 結人は、薄くなりながらも光を放っている自らの両手を見つめた。


「でも、もう一回会えてよかった。嫌われてなくてよかった」


(そう、僕はもう、これでいい。……だから)


 結人は、潮里に穏やかな目を向けた。


「ねえ、潮里さん」

「はい」

「僕は、もう消えてしまうから」


 彼から立ち上る光は、空に伸びていく。日の光と交わるその様子は、幻想的だった。


「図々しいのはわかってる。でも君が人に視えるというのなら。頼みたいことがあるんだ」

「よろしいですよ、できることでしたら」


 潮里は強くうなずいた。彼が何を頼む気なのか、なんとなく予想はついている。


「……彼女に、真里奈まりなに伝えてほしい……」


 結人から上る光は強くなり、彼の体はその形をほとんど失っていく。光が空から、影の世界に至り冥界にへと繋がる。


「ありがとうって」


 その優しげな声が、彼の最期さいごの言葉だった。

 言い終えた瞬間、彼の姿はかき消えた。白い光が赤や青、黄色などに色づき、七色の光に変化した。その光は冥界に上っていき、やがて消えた。

 その儚くも美しい情景を、潮里はじっと眺めた。傘を握ったまま、両手を胸の前で重ねた。

 その傍らに、ワタリが飛んできて着地した。ワタリも、潮里の視線を追うように空を見上げる。

 潮里は光が途絶えた空を見上げたまま、にっこりと笑うと、


「潮里の名において、必ずお伝えいたします」


 そう、空に約束した。



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