第三章 海辺の影浪――潮里――

第1話 白い少女

「今日も、会えないのかな」


 少年はぽつりとつぶやいた。

 穏やかな風が、海辺に吹いている。海岸に当たる波は夏の太陽に当たり、きらきらと光を反射している。

 そこは海開きして間もないうえに、さびれかかった海水浴場だった。

 海岸は砂と岩が混じり、ごろごろとしている。海の家は二軒ほどしかなくいる客は、海岸の端で海づりをしている中年男性ぐらいだ。


 波の音を聞きながら、そんな風景を少年は見つめていた。


 その顔はどこか悲しげだ。切りそろえられた黒髪が、風に揺れている。

 黒い短パンと半袖のTシャツからのぞく肌はやや白く、さほど運動はしないように見える。少し海辺には不釣り合いな気もする。

 少年は海辺に体育座りしたまま動かない。見た目と合わせて、どこか大人しそうな印象を受ける。


 彼の眼がふと、一軒の海の家に向いた。さびれかかった建物の横に置かれた台に、目を止める。組み立てられた台の上には、花束が何個も置かれている。

 少年の目が細められたかと思うと、その体が音もなく立ち上がった。

 そのまま、そこから去ろうとして、


「あの、すみません」


 後ろから声をかけられた。少年が聞く限り、落ち着いた少女の声だ。

 彼は驚いて反射的に振り向いた。そして振り向いた先には、予想通り一人の少女が立っていた。

 白いブラウスに白いスカートを着ている、おしとやかな印象をもつ少女だ。差している白い日傘には、華美過ぎない程度にフリルがついている。

 彼女はちょうど、少年の真後ろに立っていた。先ほどまで、そこには誰もいなかったはずなのに、最初からいたかのようにそこに存在していた。


「あの、今よろしいでしょうか」


 少女は柔らかな声でもう一度問いかけた。彼女の眼は、まっすぐに少年を見つめている。


「君は……?」


 少年の口から、思わずと言った感じの声が漏れた。

 少女はその声を聞くと、嬉しそうに首をかしげた。背まで伸びたストレートの黒髪が、さらさらと動いた。


「……久しぶりに海に来たのはいいのですが、一人で退屈しているのです」

「……」

「誰かと話したいと思いまして、お声がけ致しました」


 これほど丁重に女の子に話しかけられるのは、はじめてのことで、少年は何を言えばいいのかわからなかった。うなずくだけでせいいっぱいだ。

 少女は、そんな少年の様子を見て、申し訳なさそうな表情を浮かべた。


「あの……もしかして、ご迷惑でしたか……?」

「あ、いや、違いますっ。そんなことないですっ」


 少年は、慌てて首を振った。


「その、あまり女子と話さないから、慣れていないというか、その」


(ああ、僕は何を言っているんだろう)


 少年は話しながら、口にしたことを後悔していた。


「ごめん、何でもない。気にしないでください」


 少年はそう言うと、気持ちを落ち着かせようと、少女から目を離した。


「……なるほど、そういうことでしたか」


 少女は、納得したようにうなずいた。


「そうとは、知らずにご無礼をしましたね。……でも」


 少女は言いながら少年に近づくと、彼の顔を覗きこんだ。ちょうど頭一つ分ほど、背が違う。

 少年はそれほど間近で女の子を見たことがないため、どこを見ればいいのかわからず、視線を左右に揺らした。


「――それなら今、慣れてしまいませんか?」


 予想外の一言。


「へっ?」

「私、あなたと話したいです」


 そうして、少女は微笑みを浮かべた。

 何が起こっているのだろうと、少年は考え込んだ。

 彼がこのような可憐な少女に話しかけられたことは、はじめてである。その上、このようなことを言われることも。


(夢かな、これ……)


 だとすれば、それはそれでいいような気も少年にはしていた。

 彼にとって、これが夢だとすれば、それまでのことも夢になるのだから。そこまで考えて、彼は寂しげに微笑んだ。


「それは、ないな……」

「はい?」

「ううん、気にしないで」


 彼はそう言うと、少女に落ち着いたまなざしを向けた。思考を整理して、気持ちを落ち着かせる。

 改めてみると、この少女は少年と年齢はあまり変わらなさそうだ。十六、七ほどだろう。

 白い服に白い肌。少女は確かにそこにいるはずなのにいないような、儚げな印象を持っている。


「君、はじめてなんですよね? ここの海岸」

「はい」

「じゃあ、案内してあげましょうか? いいところ、知ってるんです」


 少年の提案に少女は、「はい」としっかりと返事をした。


「お願い致します」


 そう言う少女の眼は、少年を捉えて離さない。彼女のまっすぐな眼を、少年は黙って見返した。

 ふと、何かの視線を感じて彼は空を見上げた。雲一つない青空に、一羽のカラスが飛んでいるのが見えた。


「あの、私」


 少女が、少年に切り出した。


「私、潮里しおりと言います。海の潮に、さとで潮里です」

「潮里……?」


 読みはともかく、変わった漢字を使う名前だ。だが、それでいてこの少女の雰囲気に合っている名前だなと、少年は感じた。

 名乗られたのならこちらも名乗るのが筋だろう。そう思い、少年は口を開く。


「僕は、結人ゆいとって言います。よろしく」

「はい」


 潮里はにこっとうなずくと、傘を持っていない方の手で、結人の手を取った。


「あ、あのっ」


 思いもかけない行動に、結人は顔を少し赤くした。手を握られているという事実に驚く。


「案内してくださるのでしょう? お早くお願いします」


 結人の思っていることに気づいた様子もなく、潮里は柔らかく彼をかした。


「私、あまり時間はないので」


 それならなぜ、わざわざこんな目立たない海岸に来たのか、結人は不思議に思ったが、何も聞かないことにした。

 おそらく、今日もは来ないのだろうから。今は、潮里の願いに付き合うべきなのかもしれないと結人は考えていた。

 そうするほうが、彼の心にとっても楽だった。


 考える結人の横で、潮里は傘をたたんだ。よく見ると、傘の持ち手だけは白色ではなく薄い緑色をしている。


「いいの? 日に焼けるんじゃないんですか?」

「大丈夫です、傘は好きで差しているだけですから」


 言いながら、彼女は改めて結人の腕を取った。

 確かに握られているはずなのに、握られている感触があまり返ってこない。そんなにも自分が緊張しているということなのかもしれなかった。


「……そういえば、結人さん。別に、敬語でなくでもよろしいですよ。私は好きで丁寧に話しているだけなので」

「あ、うん、わかった」


 実を言うと、先ほどから話しづらかったので、結人はその提案に素直に乗ることにした。


「えと、じゃあ、こっちに行こうか」


 そう言うと、釣り人がいる方角とは反対に、結人は歩き始めた。潮里も横に並ぶ。


「……そういえば、先ほど海岸に座っていましたよね、結人さん」

「え、うん」


 その時から見ていたと知って、結人は内心で首を傾げた。

 間違いなく先ほどまで彼女はいなかったはずなのだが。彼女の白い姿は目立つため、海岸に立っていたら、結人は気づいたはずだ。


「ちょっと、考え事していたんだ。ここ静かだから」


 彼はそれ以上何かを訊かれる前にそう答えた。今はそのことについて、話す気はなかった。


「……そうですか」


 潮里はそう言うと、それからは何かを訊こうとはしなかった。

 少し前を歩いて、彼女を案内する結人は気づかなかったが、潮里の眼は海の家の前に置かれた台に向いていた。

 それを見ている彼女の眼は、どことなく悲しそうだった。


 二人の真上の空では、カラスがゆっくりとした動作で飛んでいた。


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