第4話 寂しくて、寂しくて
「……裏か」
煙羽はつぶやきながら、ビルの後ろに回った。思った通りそこには裏口がある。表の入り口以上に、鉄製のドアはさびれている。開くかどうか正直微妙そうだった。
煙羽はドアノブに手をかけた。回す。今度は建付けが悪いものの、ドアはちゃんと開いた。
ビルの中も壁や床が薄汚れていたが、天井灯が薄く灯っている。どうやら、まだ使われているようだ。
「お邪魔します」
極力音を立てないようにしながら、煙羽は建物の中に入った。ドアを閉めようとしたところに、ワタリがドアの隙間の中から入ってきて床に止まった。
「お前も来るのかよ」
「当たり前です」
煙羽は嫌そうに顔をしかめたが、仕方がないと思ったのか、ドアをゆっくりと閉めきった。それから、ワタリに向けて左腕を差し出した。
「飛んだら音がする。止まってろ。誰かに気づかれたら面倒だ」
ワタリは煙羽の言葉通りに、腕に止まった。
いつもは腕に止めることはないが、こうして乗せると、本当に止まっているように感じないなと煙羽は思った。
裏口の左手には、階段がある。
エレベーターもあるのかもしれないが、人に気づかれたくはない煙羽にとって、階段の方が好都合だろう。
男子高校生とカラス。誰が見ても変な取り合わせだ。見つかった時、面倒なことになるのは見えている。
ビルの中に入った時から、煙羽にはかすかに魂の気配が感じ取れていた。
彼の感覚によれば、幽魂がどこにいるのか大体わかった。
この階段を上に、屋上まで行けばいい。
煙羽は、できるだけ慎重に階段を上ったが、幸い誰かに会うことはなかった。
上に行くたびに、幽魂の気配が強くなっていく。
そうして煙羽が、屋上に続くドアの前に来たときには、その気配はかなり強力になっていた。
間違いない、この先にいる。
鉄製のドアには「関係者以外立ち入り禁止」と張り紙があるが、もちろん煙羽は無視した。
彼はゆっくりとドアノブに手をかけた。
屋上のドアは小さくきしみながらも、開いてくれた。
瞬間、屋上から吹き込む風が煙羽たちに当たった。ワタリは、その風に乗ることにしたのか、煙羽の手から飛び立った。
この建物はさほど大きくない。屋上も小さいものだった。
屋上を囲む壁は煙羽の腰ほどの高さがある。柵はなく、この建物より高いビルや空を望むことができた。
煙羽は屋上のそんな様子を見て取ってから、小さく「
光がはじけて生まれた銃を、右手で構える。そしてまっすぐ進み始めた。
屋上には先客がいた。入口の正面、壁際に、背を向けた人物が立っている。
後ろからわかるのは金髪に染められた短い髪、Tシャツにショートパンツ。体型からにして、若い女性を思わせる。
ワタリが屋上の端から見守る中、煙羽はその女性に近づいていった。
歩くたびにかすかに音がする。もう、気づいているのに違いなかったが、彼女はなぜか振り返ろうとはしない。
煙羽は少し手前で止まると、女に銃を向けた。ピンと伸びていた指が引き金に向かう。
刹那、
「君は、誰……?」
前を向いたまま、女はか細い声を発した。
「私が
言いながら女は振り向いた。
女と煙羽の目線が、まっすぐにぶつかり合った。
「…………」
煙羽は構わずに引き金を引こうとしたが、ややあって手を止めた。銃口をゆっくりと床に向ける。
女の瞳には、どこまでも深い悲しみが刻まれているように見えた。濡れているように、光っている。その顔だちから見たところ二十代前半と思われた。
「ねえ、君は誰……?」
再度、女は尋ねてきた。
「……さあな。忘れちまった」
煙羽は、淡々とそう答えた。
「そっか……」
女は、口元に淡い笑みを浮かべた。
「ねぇ、もしかして、迎えに来てくれたの……?」
「何の話だ」
「だって、私が視えるんでしょ? それとも、何……? 私と一緒に逝ってくれるの?」
女は煙羽を上から下までじっくりと眺め、ある一点で目を止めた。銃の形をした、煙羽の想器。それを見て首を傾ける。
「それで私を撃つの? 意味ないよ、だって、私死んでるもの」
知っているよ、とは煙羽は答えなかった。ただ、女を落ち着いた表情で見つめていた。
煙羽はほんの少し発するべき言葉を考えてから、
「……あんた、言ったな。一緒に逝ってくれるのかって」
そう、彼女に語り掛けた。
「言ったよ。だって、寂しいでしょ? ずっと、一人でこんなとこにいるんだから。私、この建物から離れられないの。ここが嫌でもここにいるしかないんだよ」
「……なるほど」
煙羽にはなんとなく、状況が読めてきた。
この女はこの屋上に縛り付けられているようだ。幽魂の中には死んだ場所から動けないものも多い。
そういう者だと、その場から動かなくても叶えられる未練を持っている場合があった。……どうにもできない未練のことも多いが。
「そんなに、寂しいのか」
「うん、寂しい。だから、こうやって誰かと話せて嬉しい」
そういう声は確かに、弾んでいる。
寂しい。女がその言葉を口にするたびに、彼女から漏れる思念が強く伝わってくる。
おそらくこの女性の「寂しい」という想いが、影の世界にも伝わり、それにひかれて影食いがこの周辺に集まってきていたのだろう。
原因は分かった。だが。
煙羽には疑問があった。やるべきことは決まっているが、その前に訊いておいても損ではないだろう。
「あんたの気持ちはわかったよ。けど」
「けど……?」
「おかしくないか」
煙羽は、声に力を込めた。
「だって、あんたは……自分で死んだんだろ?」
そう言った瞬間、一際強い風が二人を取り巻いた。
煙羽の眼は、壁の横に置かれた古びた木箱に向けられていた。そこに乗れば、女性でも壁の上に足を乗せて立つことができるだろう。
女は目を伏せた。長いまつげで目がよく見えなくなる。
「私はね、捨てられたの」
その声は、どこまでも暗い。
「父さんは、酒癖が悪くて、母さんをいじめて……。母さんは自分のことだけでせいいっぱいだったから。私は、施設に行くことになった。それからずっと一人。誰も信じきれないもの」
「……」
「ね、寂しいでしょう」
煙羽は何を言えばいいのかわからず、ただ押し黙った。
「やっと優しいと思える人に会えたけど、……けど、私じゃダメだったらしいから」
女は後ろの壁に目を向けた。
「結局、私は最後まで捨てられて終わったの。おもしろいでしょ?」
彼女は言いながら、近くの壁を手で軽くたたいた。音はしない、彼女は実体化しているわけではない。
「死ぬ時は本当に絶望してたから、笑えなかったけど。ここから飛ぶときも、いっそ死んだら、寂しくなくなるのかなって思ってた」
「……ならなかった?」
煙羽は確認するように、問い返した。
「うん、ならなかった。――気づいたら、死んでる私が見えて。夜だったから、気づく人も誰もいなくて。……ああ、死んでも独りなんだって」
「…………」
「……朝になって、運ばれた体がどうなったのか知らないけど。でも、誰もここには来てくれなかった。彼も来なかった。花くらい持ってきてくれるかなって、思ったんだけどね」
女はもう一度、煙羽に顔を向けた。
「私は、今でもずっと一人。でも、だからこそ、せめて
煙羽に向けて、彼女は一歩踏み出した。女の声が、少しずつ強みを帯びていることに気づく。
「君も死んでるんでしょ? 私が視えるんだから」
彼女の醸し出す想いが強みを増すのを、煙羽は感じた。
危険を感じて、体を後ろに引こうとする。
「ねえ、なら、お願い。――私と」
「煙羽っ」
ワタリの声が聞こえる。煙羽にはなぜか遠くに感じられた。煙羽の足は動こうとしているのに、なぜか動こうとはしない。
「一緒に――逝こう?」
女は言い終えると、素早く煙羽に近づいて彼の左手を取った。煙羽は振り払おうとして、できなかった。
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