第3話 描きはじめた理由
「幼い時から絵を描いているのか?」
片付けが終わったのを見計らって、
「うん、まあそうかな。昔からよくは描いてるね。暇があったら」
「それなら他にも、描いた絵は持っていないのか? 見てみたいぞ」
「えっ、私の絵、を?」
「おお、ないのか?」
「ごめん、このスケッチブックは、あの絵以外は落書きばっかで見せられないから。他の絵も……、部屋の机にしまってしまったから。ここにはないよ」
その声はそれまでの中で一番低く、寂しさを感じさせる声だった。
「そうなのか、残念じゃな……」
「ごめんね、そもそも絵を描くのも久しぶりだったから」
「なぜじゃ?」
「それは、その……。そんなこと、してる場合じゃないから、ほんとは」
その言葉の真意は、夕雨にわかるはずもなく、夕雨は大きく首を傾げた。
「我にはよくわからんが。とにかく他に絵はないということか。それならあれはどこに行ったのじゃ……」
夕雨はつぶやきながら、カバンを挟んで沙希の横に座った。改めて沙希の方に顔を向ける。
「それなら、どうして、絵を描くようになったのじゃ?」
何度目かの質問。
どうして、こうも夕雨は絵に関する質問ばかりするのだろうか。それほどに、自分の絵に興味をもったということなのか。
沙希は疑問に思いながらも、その問いの答えを考えた。そして思い出す。
「――ああ、でも。それならあるね。ちょっと、恥ずかしいけど」
「それ?」
「私が、絵を描くようになったきっかけ」
沙希は、カバンをあさり始めた。
ややあって、カバンの内ポケットから出てきたのは透明なクリアファイル。中には、二つ折りの画用紙が入っている。
沙希はその紙を取り出すと中を開いた。それを、夕雨に差し出す。
「これは……」
夕雨は目を細めた。
「公園に母さんと父さんと、三人で遊びに来た時、描いたの。まだ幼い頃の絵」
画用紙に描かれているのは、クレヨンで描かれた絵だった。
上には青色が、下には緑色が塗られ、空と芝生を描いていると分かる。雲や木も描かれている。芝生には、男女と思われる人物がいて、それが沙希の父と母であることがうかがえる。
子供の描いた絵だ。勢いに任せて描いており、バランスはどこかおかしい。けれど、画面からは、楽しげな雰囲気が伝わってくる。
「この絵をね、二人は褒めてくれてね。とても嬉しくてそれから何枚も何枚も描くようになったの。今思うと、子供ってほんとに単純だよね」
沙希は、顔に小さな笑みを浮かべた。今思うと本当に、
でもそれから、彼女は何枚も絵を描くようになり、そのたびに褒められた。
沙希は、画材や描き方を工夫するようになり、絵画教室にも自ら連れて行ってくれるように頼んだ。
(教室の先生、元気かな……)
今年でやめてしまった絵画教室を、沙希は思い浮かべた。もう、自分は――
そこまで考えて沙希は、先ほどから夕雨が何も言わないことに気づいた。
夕雨は依然として目を細めたまま、真剣な表情で絵を見つめている。
「夕雨?」
子供の絵だ。このように真剣に見るものではない。その様子は、明らかにおかしいものだと言える。
「夕雨。どうしたの?」
「……見つけた……」
「えっ?」
聞き返した沙希の声に気づいたのか、夕雨はようやく顔を上げた。
「な、沙希」
その時には、夕雨は元の笑みを顔に浮かべていてその声も明るかった。
「この絵は、本当にこの公園を描いたのか? この絵の中には池のようなものが描いてあるが」
夕雨は緑で塗られた中にある、水色で円状にクレヨンが塗られた場所を示した。二人の目の前に広がる芝生には、池は見当たらない。
「ああ……そっか。夕雨は、この公園あんまり来たことないんだね?」
沙希は夕雨がうなずくのを見ると、街道に体を向けた。
「この道を奥に行ったところにある、林を抜けた先にあるの。静かなところだよ」
「ということは、人があまりおらぬのじゃな」
「うん、意外と知らない人が多いみたい」
二人はベンチから道の奥を眺めた。
その二人の視界を何か、黒いものが通り過ぎた。沙希はそれを見て身構えたが、近くの木に止まった姿を見て、すぐに腰を下ろした。
何のことはない、カラスだ。街中にいるカラスよりも一回り大きい。自然が豊かなこの公園に、住んでいるからかもしれない。
夕雨は、そのカラスに鋭い視線を向けた。その視線に応えるかのように、カラスは二度鳴いた。周囲に妙に響く声で、先ほどの声もこのカラスのものと思えた。
トンと音を立てて、夕雨はベンチから立ち上がった。
「連れて行ってくれぬか? そこに」
前を見据えたまま、夕雨は言った。
「どうして?」
「その景色を見てみたくなったからじゃ。駄目か?」
夕雨は顔を沙希に向けた。
「まあ、別に、いいけど……」
沙希は手の中の絵を見つめた。
彼女自身実を言うと、ここ数年は行っていない。今、あの場所がどうなっているのか、興味がないわけでもなかった。
「夕雨は時間とか、大丈夫? イベントとかあるんじゃないの?」
「時間はない」
即答。
「じゃあ、無理――」
「だからこそ、行くんじゃ」
その声には力がこもっている。
その意味を図りかねる沙希に向かって、夕雨は、笑みを浮かべた。その笑顔は穏やかで、沙希と同年代の少女が浮かべるものとしては大人びている。
沙希の手の中で強い風が吹いていないにも関わらず、紙が少し動いた。
沙希はそれに気づかなかったが、夕雨の眼は確かにそれを捉えていた。間違いなかった。
「沙希、頼む」
その声に、沙希はすぐには答えずにカバンにちらっと目を向けた。
スマホから着信音はしない。まだ、ばれてはいない。まだ、沙希には時間が許されている。
「……うん。そんなに遠くないから、大丈夫だとは思う。行こうか」
そのまま絵をファイルに入れ、カバンにしまおうとした沙希を、
「あ、絵は手で持っていけばよい。本物の風景と比べようぞ」
夕雨は、やんわりとした口調で止めた。
「え~、子供の絵だよ、本物と比べても意味ないと思うけど?」
カバンを肩にかつぐと、沙希は歩き始めた。後ろに夕雨が続く。
そうして二人は、人でにぎわう芝生を背に、道を進み始めた。公園の道はアスファルトで地面が整えられていて、歩きやすい。
セーラー服の少女と着物の少女が、並んで歩く様子は、かなり目を引くものだったが、不思議と誰も二人に注意を向けることはなかった。
横で歩きながら、夕雨はやはり気配が薄い人物であると沙希は感じていた。目立つ姿をしているのというのに。
「こっちだよ」
沙希は三方向に道が分かれているところで、左に曲がった。そのまま奥に手を向ける。
夕雨は、沙希の指す方向に目を凝らした。その先には林があり、道が途切れているようにも見える。
沙希は林の前まで来ると、木と木の間の細い道を歩き始めた。
それは人が一人通れるぐらいの道だ。木の陰に隠れているため、通り過ぎただけでは気づかないような道だった。
沙希は前を歩いていたので、気づかなかったが、歩く間、夕雨の眼はじっと彼女の手の中の絵を見つめていた。
そんな二人を、空の上から、大きなカラス――ワタリは眺めていた。空は相も変わらず、薄い雲で覆われている。
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