第2話 出会い

 シュシュっと音をたてて、紙の上で動いていた、鉛筆の手が止まった。


「はあ……」


 ベンチに座る少女は盛大なため息をついた。セーラー服を着た肩が大きく落とされる。

 中学生と思われる、彼女の雰囲気はおとなしく目立ちにくい。


 連休中の公園は、ざわざわとした雰囲気に包まれている。少しずつ前から人が集まってきていた。子供の中には、芝生の上で走り回っている子もいる。

 その様子を、芝生から離れた場所にあるベンチから少女は眺めていた。

 少女は、学生バッグの中に放り込まれたスマホをちらっと見た。通知音は鳴らないので、今のところはばれていないようだ。とりあえず一息ついてから、自らの膝の上にあるスケッチブックに目を落とす。


 紙には、鉛筆で描かれた公園が広がっていた。広がる芝生、空が画面いっぱいに描かれている。

 まだ、陰影が完全に入れられていないものの、柔らかな筆致で描かれたその絵は誰が見ても上手だと思うだろう。

 現実と異なる点を挙げれば、紙の中の公園には人がいないことだった。


 少女は絵をじっと見つめてから、再び、目の前の本物の公園に目を移した。


「邪魔」


 その口がぼそりと動いた。あと少しで完成するというのに、集まってきた人が邪魔で仕方がないのだった。

 少女は、鉛筆を持っていない方の手で練り消しをもてあそんだ。

 いや、そもそも、ここで絵を描いている自分が一番悪いのだ。そう気づいて彼女は少しうつむいた。前髪が目にかかる。


 塾校舎の窓から少女が外を見ていたら、空が晴れてきて。

 それを見た次の瞬間には、少女は自習室から出て、ここに向かってしまっていた。

 カバンの中には、いつもスケッチブックと鉛筆入れを忍ばせていたから。絵を描こうという想いを止められなかったのだ。


 ばれたらきっと怒られるだろう。その情景を、少女は思い浮かべてもう一度息を吐いた。


(戻れたら、いいのに)


 芝生を走って、木の棒で地面に絵を描いていた頃に。絵を描いただけで褒められたあの頃に。


 少女は顔を上げると、もう一度公園に目を移した。木陰の下のベンチに座る少女に、目を向ける者は誰もいない。

 彼女は画材を横に置くと、肩まで伸びた髪を整えなおした。

 どうしようか、と少女は自分に問いかけた。


(塾には戻りたくない。家にも帰れない。どうしよう、まだ昼前だし)


 少女の中で自問自答が渦巻いて、周りの音が遠ざかっていく。その黙考の中で、


「おお、うまいのぉ!」

「ひっ」


 突然聞こえた声に、少女は声を上げ肩を震わせた。斜め後ろから、だ。

 少女は慌てて立ち上がると、後ろを振り返った。目に飛び込んできたのは、赤。それに映える、背中まで伸びた一つ結びの黒髪。


 ベンチの背に手をつきながら、公園の絵を見ている和服の少女がそこにいた。その目は丸く愛らしさを感じさせる。

 セーラー服の少女は、突然現れた和服の少女を見つめることしかできなかった。思考が停止してしまっていた。


 そんなセーラー服の少女の耳に、カァっと、どこからかカラスの声が聞こえた。妙に響く鳴き声だ。

 そのカラスの声を聞いて和服の少女は気づいたように、戸惑う少女に目を向けた。そして、にっこりと笑った。


「悪かったな、驚かせてしまったか?」

「え、い……や、そのっ」

「あまりに絵が上手いから、夢中になってしもうたぞ」


 そう言う声は、はずんでいる。


「上手い? ほんとに?」

「おお、我が言うのだから間違いない」


 和服の少女は、胸を張ってそう答えた。

 セーラーの服の少女は深呼吸をした。ようやく思考が落ち着いてきた。


 和服なんてこの場所には似つかわしくない服装だ。まるで時代劇から出てきたような、そんな古めかしいデザインで、足には下駄まで履いている。

 この少女に過去から来たと言われても、納得できるだろう。そんな想像を思わずしてしまって、セーラー服の少女は口元に笑みを浮かべた。

 馬鹿らしい空想だった。大体、アレに決まっている。


「ね、その服。珍しいね」


 セーラー服の少女は和服をじっと見つめながら、言った。


「もしかして、コスプレ?」

「む……、まあ、そうじゃな。そんなところじゃ」


 どこか歯切れが悪いものの、和服の少女はうなずいた。話し方が古風なのも、キャラになりきっているからだろうと少女は考えた。


「そんなことよりも、じゃ」

「うん」

「お前は、絵を描くのが好きなのか?」


 その何気ない問い。それはセーラー服の少女に、ある程度の衝撃を与えた。


「好きなのだとは、思う、けど」

「けど?」


 和服の少女は、不思議そうに首を傾げたが、セーラー服の少女は「何でもない」とはぐらかした。


「えとあなたは、その、どうしてここに?」


 木陰にあるベンチは、注意しなければ気づかない。普通の人なら道を横切って、この前を通り過ぎていく。

 和服の少女が気づいたのは、何か理由があるはずだった。


「どうして、私に気づいたの?」

夕雨ゆうさめ

「えっ」


 聞き返されて和服の少女はもう一度、


「夕雨、じゃ。我の名前は。あなたではないぞ」


 自分の名前を告げた。


「ユウ、サメ?」


 不思議な響きを伴う名前だ。字はどう書くのか、夕と雨だろうか――そんなことを少女は考えた。


「お前は? お前の名は何だ?」


 続けて問われて、少女は考えるように視線をそらした。ややあって、その口が動く。


「……沙希さき

「サキ、か。いい名前じゃ」


 夕雨は言いながら、何度もうなずいた。

 沙希はそんなことはないと思った。夕雨だって、十分に素敵な名前だ。

 沙希がそんなことを考えているうちに、夕雨はベンチの前に回ってきた。そして、沙希の鉛筆入れを眺めた。


「いっぱい、使うんじゃな」


 中が見える、プラスチックケースの中に入った鉛筆のことだ。


「うん、まあ、鉛筆によって出る線違うから」


 全部で二十本ほど。沙希が気づいた時には今の数になっていた。


「ふーむ。我は絵、下手だからの。よくわからんな」


 そうつぶやく夕雨の横顔を見ながら、沙希は不思議に思っていた。


 沙希は人と話すことがあまり得意ではない。初対面ならなおさらだ。

 だというのに、夕雨と話すことにはあまり抵抗を感じない。それどころか、家族よりも話しやすい気がしていた。


「薄い、から?」


 沙希は小さく声を出した。

 そう、夕雨は目立つ服装をしているのにどこか存在が希薄だ。夕雨が絵を見ていたのに気がつかなかったのもそのせいだろう。

 夕雨から少しでも目を離すと、そこに彼女がいることを沙希は忘れそうになる。気配、というのを感じないのだ。

 いつも人に気を使ってしまいがちな、沙希にとって、夕雨は不思議と話しやすい存在だった。


「むっ? なんか言うたか?」

「ううん、何でもない。――あの鉛筆、片づけてもいいかな?」

「よいが、続きはいいのか?」

「うん、今日はおしまい」


 そう答えると、沙希は筆記用具を片づけはじめた。スケッチブックと一緒にして、カバンの中に入れようとする。

 話しやすい理由なんてどうでもいい、と沙希は思っていた。

 塾にも家にも行きたくない、絵を描く気も失せてしまった今の彼女には、こうやって誰かと話しているのが一番落ち着くのだから。


 そうして、沙希は嫌なことを先延ばしにすることにしたのだった。


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