世界の境界で、影浪《かげろう》は笑う。
泡沫 希生
第一章 雨上がりの影浪――夕雨――
第1話 和装少女とカラス
雨上がりの空の下、赤い着物の少女がビルの間の細い路地を歩いていく。
常に騒がしい都会の中でも、この場所には静かさが満ち、雨上がり特有の湿ったにおいが広がっている。
薄汚れた路地と目を引く赤い着物は、ひどく不釣り合いだった。
少女は何かを探しているのか、時折足を止め周りを見渡す。その度に首の後ろで結ばれた黒髪が左右に揺れる。
十五ほどと思われる顔立ちは幼さが残るが、身にまとった雰囲気はどこか大人びている。
着物は赤を基調に、黄や青、緑で花の模様が描かれている。その繊細な文様は、誰が見ても手が込んだ品だと分かるだろう。
立ち止まっては歩く。それを何度か繰り返したところで、彼女は路地の真ん中で止まった。
そのまま歩き出さずに、ビルの間の細い空を見上げる。相変わらずの、曇り空。
「……おらんのぉ」
ぽつりと少女はつぶやいた。愛らしい声には、ため息が入り混じっている。
「確かに、感じたのだがな」
少女がそう言葉を継いだ時、何の合図もなしに、彼女の見上げるビルの屋上から黒い影が舞い降りてきた。
彼女は、それに気づいても怖がるようなそぶりは見せなかった。ただ、じっと飛んでくるのを見つめていた。
それは、羽をはばたかせながら、路地に置かれたごみ箱の上に着地した。閉められていたごみ箱のふたが、わずかに揺れる。
「――首尾はよくないようですね」
と、不意に、どこからか少女以外の声がした。落ち着いた若い男性の声だ。
彼女以外には人が見当たらないのにも関わらず、その声は確かに響いた。
そのことに、彼女は驚いたそぶりを見せなかった。彼女は「まぁの」と返事をすると、ごみ箱に近づいた。
少女が近づくと、着地したばかりのカラスは首を傾けた。町で見かけるカラスより一回り大きい。
「あなたが気配を感じてから、さほど時間は経っていないはずですね」
カラスが発したのは鳴き声ではなく、先ほどの男の声だった。少女に話しかけているのは、この鳥だったのだ。
「うむ。感じてからすぐに現出して、ここに来た。それから探し始めて一時間はたっておらんはずじゃぞ」
「ということは。考えられるのは、二つですね」
カラスは、そこで言葉を切った。知性を感じさせるその目が細くなる。
「
少女はカラスの声を聞くと、両目を閉じた。
「……悪いが、それはないかもしれんの。遠くにいても感じることができるほど強い幽魂が、そんなにすぐに消えるとは思えん」
「では、
「我が感じたのは、何かに憑依した時に漏れた思念、ということか?」
「そうなりますね」
カラスは、小さくうなずいた。
「憑依体におる幽魂は距離がひらくと、感じにくいからな」
少女はカラスに背を向けると、息を深く吐いた。今まで歩いてきた道のり――路地の奥――に目を向ける。
「何も起こらなければよいが。……ワタリ」
「はい」
ワタリと呼ばれたカラスは、返事をすると、少女の伸ばした左腕に飛び乗った。
「周りには、誰もおらぬな?」
「ええ、ご安心を。上から見ておりましたから」
「では、遠慮なくやらせてもらうぞ」
少女は、小さな笑みを口元に浮かべた。
「ご自由にどうぞ」
ワタリには、少女がこれから何をするつもりなのかわかっているようだった。
ワタリは、少女の手から飛び立った。ひゅん、と風を切る音がする。
少女はそれを見届けると、路地の奥に向かって、両手を合わせた。その表情が集中するために、引き締められる。
「――
その高らかな声は、強い響きを帯びていた。
次の瞬間、彼女の手から白い光が放たれた。光は徐々に赤みを帯びながら、少女の右手に集まり始める。それは段々と細長い形に変化し、やがて右手に納まった。
右手の中に形作られたのは、赤い柄を持つ短刀だった。
少女は短刀を握りしめると、刃を上に向けて前につきだした。
「揺らめく魂の残す想いを集め、我を
少女の声に導かれるように、カーンと鐘のような音が路地に響いた。
短刀を中心に赤い光が周りに飛び散っていく。音を受けて、影の世界が揺れるのを少女は感じた。
彼女は目を閉じて、意識を音に集中させた。移動した幽魂、死者の魂のこぼした思念をたどり、居場所を突き止めるために。
音も光も
「あっちじゃ」
少女の声を受け、ビルの看板に止まっていたワタリがその方向に目をやった。
「大通りに出るのですか」
「うむ、さらにその向こうにいるようじゃ」
「大通りの向こう……、確か、緑地がある広い公園がありましたね。そこにいるのでしょうか……」
「ふむ……、悪さをせねば良いが」
言いながら、少女は右手の短刀に意識を戻した。少女が見つめる中で、短刀は光を伴いながら消えた。
少女は、大通りの方に改めて目を向けた。どことなく表情は不安そうだ。
「急いだほうが
「はい、行きましょう。
ワタリの言葉に、少女はうなずいた。
その足が大通りに向かって走り始める。下駄の音が、カランカランと軽やかに鳴る。
ワタリはその背を見ながら、看板からゆっくりと飛び立った。
その体からいくつか羽根が舞ったが、その黒い羽根は地面に落ちる前に透明になり、消えた。
空高く飛びあがったワタリの眼には、路地がつながる大通り、車が行きかう道路――その先のビル街を通り抜けた場所にある、緑であふれた公園が映っていた。
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