春から冬、そして僕達は。

西村蓮

第1話 妖都の井戸

 京都市東山区に、六道珍皇寺ろくどうちんのうじという由緒正しいお寺が存在するのを皆様はご存知であろうか。俺はつい先程まで知らなかった。そもそも、石川から特急サンダーバードに乗り込んで京都に辿り着いたのも数時間前なので、寺なんて清水寺や金閣寺のような有名どころしか知らないのは無理もないだろう。


 新生活の為に買い直したスニーカーは、まだ足に馴染んでいないようで、踏み込む度に若干の痛みを感じる。その痛みが先程の失態を戒めるように、足首にじんわりと浸透した。


 ーーもっとちゃんと考えればよかった。


 目の前にぶら下がる大きな提灯には『あの世への入り口 六道の辻』と書かれており、これから幕を開ける大学生活に一抹の不安を感じざるを得ない。


 溜息を一つ吐く。ひんやりとした風が耳を撫でる。右手に握り締めた鈍色の鍵が、一段と冷たくなった気がした。


 なぜ、このような場所に居るのか。話は二時間前に遡る。


 京都市は大学生の町と称されるほどに大学が多く、京都市民の十人に一人は大学生だという。俺は二年間の浪人生活をようやく脱し、この春から大学生の仲間入りを果たすことになった。


 住み慣れた金沢を離れ、初の一人暮らしをするにあたり、真っ先にすべき事は当然ながら住居の確保である。いわば自分の城となる場所に妥協はできない。勉学に励み、アルバイトに勤しみ、自分自身を磨く為には心安らぐ空間で過ごすのは必要不可欠の条件だ。


 しかし、低予算のくせにこだわりすぎた結果なのか、いつの間にか入学式まで一ヶ月を切っており、今日中に契約してしまわないとマズイ事態に追い込まれていた。


 半ば焦りながら入った不動産屋で、従業員は俺を一目見るなり「即入居が可能な物件をお探しですか」と問いかけてきた。この時期に物件を探す冴えない若者の大多数は同じ理由なのだろう。


 二十代後半とおぼしき従業員は、短い髪を整髪料で後ろに流し、埃ひとつ付着していないスーツを着こなしている。いかにも仕事ができるビジネスマンといった風貌だ。カウンターの椅子に座るように促され、それに従う。従業員は「墨染すみぞめです」と名乗り、話を進めていく。


 希望条件を訊かれたので、恥をしのんで「家賃が安くて素敵な物件」と答えた。墨染さんは「学生さんですもんねぇ」と柔らかく微笑む。


 そう、学生は総じて貧乏。四つ年上の兄も例外ではなく、常に金欠で嘆いていた。真偽は定かではないが『畳をむしって食べたせいで消化不良に陥り入院した』という逸話がある。貧乏はいつの時代も人間を狂わせるのだ。学生には狂人しかいない。


 俺の場合、入学金を親に負担してもらった以上、在学中の生活費まで頼る訳にもいかず、なんとかして自分のバイト代で生活をしなければならなかった。金銭管理を少しでも誤れば、兄のように畳を食す愚行に走り、腹を抱えて涙する羽目になる。そのような惨事を避ける為にも、削れる費用はとことんまで削るに越した事はない。


 墨染さんは「費用を抑えたい学生さんにオススメなのはこの辺りですね」と、四つの物件を提示した。そのうち三件は六畳のワンルームでユニットバス、家賃は四万円前後だ。俺はそれぞれの物件を比較する前に、最後の物件について尋ねた。


「あの、四つ目の物件の家賃って……」


 記載ミスなのではないかと指摘するよりも早く、墨染さんは「やっぱり気になりますよね」と笑った。


「この物件ね、一軒家なのに家賃がゼロなんですよ」


 築年数は古いが、庭付きの木造一軒家が無料。しかも家具まで付いているときた。思わぬ掘り出し物を見つけたと狂喜乱舞した。


 後になって知る話だが、一般のルートで売り出されている物件に『掘り出し物』なんてものはまず存在しない。


 物件というのは全て適正価格で販売しており、安ければその値段に見合った何かしらのデメリットが必ず存在する。


 つまり、家賃が発生しない物件なんて、曰く付きというレベルではなく曰くそのもので、幽霊ランドと化していても不思議ではないし、くしゃみをすれば柱がへし折れる手抜き工事が施された可能性だって否めない。


 冷静に考えれば、いや、こんな常識外れの物件は直感で判断しても避けて然るべきなのだが、初めての新居選びに舞い上がっていた俺の正常な判断力は、すでに霧散していた。


 夏に濡縁で西瓜を頬張るもよし、庭先に出て線香花火を楽しむもよし、近所の野良猫を餌付けすれば、頻繁に遊びに来てくれるかもしれない。いずれできるであろう学友達を招くためにも、広いに越したことはない。


 こうなると、俺の妄想はとどまることを知らない。デメリットなど頭の片隅にも浮かばずに、加点方式で家を選ぶという愚行を犯してしまった。


「ただね、注意事項が何点かあるんです」


 長ネギと一緒に煮込まれた状態のカモが見つかってさぞかしご満悦なのだろう、墨染さんは満面の笑みで俺にこう告げた。


「少なくとも四年間は必ず住み続けてくだい。もう一つ、数日間の旅行などは構いませんが、家を長期的に空けるのも控えてください。ちなみにこの物件に限ってはこの場で契約となりますので、実物を見てキャンセルというのは承れません」


 そんな注意事項は些細であり、どうだって良かった。今思えば明らかにおかしな条件だし、一応でも「何故ですか?」と一言挟んでいれば、冷静さを取り戻せたかもしれなかったが、後の祭りである。


 要するに、即決してしまった。

 

 このようなやり取りを経て、俺は墨染さんに連れられて六道珍皇寺に辿り着いた。不動産屋での有頂天気分は何処へやら、冷たい風が吹き荒ぶ祇園界隈を歩くと今度は不安と猜疑心に支配された。


「この辺りは六道の辻という名称で、あの世とこの世の境目と言い伝えられているんですよ。なんでも昔は死体を雨風に晒して自然に還す風葬という習慣があったみたいで……」


 墨染さんは爽やかに説明しているが、これはオカルトツアーではなく物件の案内だ。今日から住む土地にまつわる話としては、恐らく最悪の部類に属するだろう。


 俺は適当に相槌を打ちつつ、周りを見渡した。どう見ても一軒家というより寺である。まさか、出家しなければならないのだろうか。それならば家賃が無料なのも納得できる。


 俺が身震いしていると、墨染さんはさっさと境内に入ってしまった。俺も急いで後を追いかけるが、墨染さんは本堂ではなく、本堂右手に建てられた門扉に近づいた。


 その門扉は木製の格子で覆われており、隙間から向こう側を覗き込める造りだった。


「奥に井戸があるのが見えますか?」


 確かに、格子戸の奥には井戸がある。暗くてよく見えないが、どう好意的に捉えても不気味である。今にも井戸の中から白装束の女が這い出てきそうで、一刻も早くこの場から立ち去りたかった。


「今日から七尾ななおさんにご利用して頂く物件は、あの井戸の中にあります」


「……は?」


 俺の返事とシンクロするように、どこかでカラスが間の抜けた声を発した。春先の空は、いつの間にか夕闇に染まっていた。

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