悪縁契り深し その2

 紅眼を持たぬ者の視界には、ウォーフの奇縁など映っていない。或いは著しく視力に長けた者であれば、炎天の下に粟立つ白肌が見えたかもしれないが、見て取れる変化はその程度。


 足早にガロアが距離を取り始めれば、彼らは名実共に二人きりとなる。取り決めや合図と言った類の遣り取りを、彼らは必要としなかった。潮風に靡き、視界の端をチラつく頭部の覆いを共に剥ぎ取り、共に鞘を投げ捨てる。


 東方に朝日影あさひかげ背負せおい、カイマンは仁王立つ。両の手足を大の字に構え、右の鉄剣は一直線に天を指示さししめす。殺気立つ敵を前に、大いに隙を晒す格好。だが、これは挑発を意図した物ではない。


 せ付けているのだ。

 幾久いくひさしいおん宿敵しゅくてきに対する、圧倒的なまでの自己顕示きゅうあい姿勢。


 ――俺を見ろ!――

 そんな無言の咆哮を全身から放っているのだ。


 西方に波飛沫を背負しょって立つウォーフは、眼前のカイマンをめ付ける。縦横無尽に駆け回るウォーフの視線は、上下一体の布切れから伸びる、鱗まみれの四肢を舐め回していた。


 カルーニアの炎熱にあぶられ、戦の火に掛けられても尚、ウォーフの思考はだらない。カイマンの、そのゆったりと揺らめく布下を常に意識していた。手先足先に鎧の類なし、だが、下に帷子くさりを着込んでいる可能性も否定できない。胴体を斬り付けて必殺を狙うは誤り。ならば、四肢乃至ないしは頭部を狙うきか。


 数瞬の内に思考を巡らしたが、畢竟ひっきょう、戦の流れとは風の如きもの。の手の内には収まりきらぬ無形むけい大器たいき


 悟ったような皮肉げな笑みと共に形作ったのは、消極的にも見える“受け”の身構みがまえだった。剣をまるで盾の如く前方に突き出して構える様は、威風堂々たるカイマンの仁王立ち上段と比べると、随分と臆病な態度にも映る。

 れど、受けの身構みがまえに込められた戦意は赫々かっかくと燃え盛っており、その有様をカイマンは虚ろな眼窩がんかで捉え続けていた。


 矢張やはりウォーフは油断ならぬ男、そう確信したカイマンは大の字を半身に切り替える。かぶきを改め、防御を重んじての試みか――いな――そうではない。カイマンは半身を通り越し、上背部じょうはいぶの一部までも見せ始めているのだ。如是かくのごとき動作は攻撃的な意図を持って行われた物、ウォーフはそう推量すいりょうした。


 ギシリ、とカイマンの肉体が軋む。これは、カイマンの上半身、筋骨鱗きんこつうろこが生来の剛力に依ってねじり上げられた事に由縁する、“悲鳴”。戦場で培った観察眼から、ウォーフは容易く至る。これめ。この男は溜めているのだ、と。

 何処までも愚直な剣。その姿勢から放たれる軌道が、ウォーフには手に取るように分かった。りきみに依って微かに揺れる右片手の剣先は、宛ら弓につがえられた矢の様だ。


 ――搦手からめてに走らず正面からくるか、蜥蜴の丈夫ますらおよ――ウォーフは揺れる剣先では無く、徐々に握り締められてゆく無手むての左拳を注視していた。


 ――来る!――ウォーフが機を察すると同刻、カイマンは仕掛けていた。激昂した野生動物を想起させる爆発的な突撃。猛進するカイマンは引き絞られた右腕の前方に左腕をかざしている。

 ――左腕を露払いとするつもりか?――だが、の予想は正鵠せいこくを得ず。防御偏重に身構えるウォーフの遥か手前で、それは始動した。


 ――馬鹿な、届く筈が無い!――彼我ひがの距離はカイマンの持つ鉄剣えものの三、四倍である。内心の狼狽ろうばいを隠せないウォーフ、対するカイマンは一人北叟ほくそ笑む。だが、決して気は緩ませない。間断を与えてはならない、思考の隙を与えてはならない。

 ――相手は彼のウォーフぞ――畳み掛ける様に更なる手を打つ。


 猛暑のカルーニアにあって、不意に、空気が冷え込んだ。

 この時、その発現を目撃出来たのは、遠巻きに視ていたガロアのみである。


 ウォーフが背筋に走る薄ら寒い物を感じ取った時、“それ”は鱗板りんばんの隙間から溢れ出していた。それとは、不可視に溶けた縁がり成す濁流。かつてハイケスの石切部屋てコーミュに端を発し、溢れ出た物と同一であるそれは、たちまち乾いた地上に氾濫はんらんし、ウォーフをも飲み込んだ。


 激情を引き金に、欲望を体現する悪縁。これかみけて無秩序に非ず。指向性を持った濁浪だくろうは、間も無くウォーフの“両眼りょうまなこ”へ侵犯、滲透しんとうを開始する。瞬時に体組織との融合を果たした悪縁は視神経を乗っ取り、その信号を奪取。カイマンは重複した視界の片割れに、地に這いうで振る自らの姿を視認した。


 溜め切った力が開放される。彼我の距離は鉄剣の三、四倍。当然、剣先は届かない。しかながら――元よりこれは斬撃ざんげきでは無い――地を掴む両脚、上下半身じょうかはんしんを繋ぐ腰、筋骨鱗の軋む胴体、肩、腕、手首、其れ等全てが連動して廻転かいてん、右に保持された鉄剣の残像はまるで鞭の様にしなる。全身を余す所無く酷使する事にり絞り出した“全力”を、カイマンは鉄剣に押し付けた。


 剛力に放たれた一矢は、地面と平行に乾いた空気を直走る。

 ――さぁ、奇しくもあの忌々しき夜と同じ構図だ、ウォーフ!――生きとし生けるものが生まれ持つ、“視神経の使用権限”を剥奪されたウォーフは、一切の光なき混乱の暗中で、残された四感に意識を集中させていた。

 刹那――風切り音ッ!――受けの身構みがまえが、ここに来て生きる。戦の風向きに煽られて、ウォーフは最小の円軌道を描き出す。


 カイマンの蜥蜴面が大きく歪んだ。

 ――アレをはたき落とすか!――の難敵に引き逢わせた“何者か”へ、カイマンは思い掛けず奉謝ほうしゃした。視覚を奪い取ってまで放った投擲とうてきは、確殺かくさつの目論見を以ての一手では無い。ウォーフの奇縁、その性質はヴィシルダり聞及んでいるのだ。織り込み済みであるこれは、わば布石。

 ――命中するやよし爾後じごの硬直を突くのみ、弾かれるやよし爾後じごの隙を突くのみ!――ウォーフは敵の接近を四感で感知したが、時は剣を弾いた直後である、地面を示す剣を手繰たぐり、間に合わせる事が出来ない。


 リザードマン屈指の巨体が、森の白枝しらえだを想わせる細身に衝突した。幼少より獣の生き血を啜り、生肉を貪り食った異端者リーいえども、所詮は長らく草葉のみに生きるエルフ。リザードマンの種族が、天地開闢てんちかいびゃくの瞬間から幾星霜いくせいそうもの歳月としつきを掛けて練り上げられた密度の高い“筋”に押され、その両脚は地を離れた。

 ――まさか、あの夜の再現を!?――あの時はウォーフが両眼を抉り取った。だが、それは先にウォーフから仕掛けた為に、主導権を握る事が出来たが故である。このまま組み打たれては、筋力に劣るウォーフの敗北は自明の理。今、この瞬間にも衝撃に身を固めるウォーフの奇縁、打撃は効かずとも、絞めは効くのだ。


 然し、ウォーフが立てた予想はまた正鵠せいこくを得ず。カイマンは衝突の勢いをそのままに、抱え上げた身体しんたいの運搬を開始したのだ。下半身を固く抱きながら、次々と繰り出されるカイマンの両脚。ウォーフは暗中で、背後の状況を顧みた。

 西方に広がるは一面のミシピ海――俺の記憶と方角が正しければ、だが! 場を海中へと移す腹か!――半ばに悟るも時既に遅し、抵抗虚しくカイマンの右脚が崖岸がいがんを蹴飛ばした。


 不確かな浮遊感に包まれて、時間の感覚が引き伸ばされて行く。覚束おぼつか無い足元を探る様に、ウォーフの両脚が藻掻もがいた。遥かな海蝕崖かいしょくがいの足元では、静かに打ち付ける小波が岩場を白く染め上げている。

 ――不味い!――その光景を知らぬウォーフは、遮二無二しゃにむにと焦る。下半身に押し付けられた鱗の感覚から、“カイマンの布下に仕込まれた異物なし”と断じ、先程から攻撃を試みているのだが、地に足着かぬ一撃は、厚い鱗板りんばんに阻まれ表面に引掻き傷を付けるだけだ。


 落下の瞬間、カイマンは抱えていた身体を地面との間に挟み込む。海面に押し付けられる物と思い、ウォーフは空中に身を捩るが、剛力の前に態勢の変更は叶わない。二度目の衝突。衝撃に反応した奇縁が発現した為、ウォーフに損傷の類は無い、どころか、着地したカイマンの両脚の方が堪えた程だ。

 然し、ウォーフの奇縁には副作用が存在する。岩場に叩き付けられた脚部、腹部、胸部、頭部、全てが硬直を開始。

 ――これを待っていた!――痛む鱗の両脚に鞭が打たれる。カイマンは渾身の力で、ウォーフを海へ投げ入れた。


 落下の衝撃に硬直していたウォーフは、海面へ投げ込まれた衝撃に又もや硬直。この機を逃してなるものか、カイマンは身に纏う布を素早く破り捨てた。その股座に一本の半陰茎いんけいが反転していきり立つ。カイマンは逸物イチモツに潮風を切り裂かせながら、静かなる海へと飛び込んだ。


 自重で沈み込んでいたウォーフが硬直から開放され、酸素を求めて顔を出す。そこへ、飛び込んだカイマンの膝が急襲。ウォーフは息継ぎもままならぬ内に再度硬直、海面下へ叩き落とされる。奇縁により手傷こそ負わぬものの、ウォーフは着実に押され始めていた。何を隠そう絶えず硬直を繰り返す《硬直攻め》こそ、四六時中ウォーフの動きの暗中で模索し続けたカイマンの答えなのだ。


 ウォーフは海水を掻く。だが――身体からだが重い!――鉛の様になった身体を思うよう操作する事が出来ない。唯でさえ身軽であったカイマンが、衣服を脱ぎ捨てているのに対し、ウォーフは水を吸った衣服の重みに囚われ続けている。加之しかのみならず、暗転したままの視界には一切の光が見出みいだせない。落下と落水で方位方角の感覚を失い、更には海中という絶えず波に揺蕩たゆたわれる環境下、天地のさかいも不明瞭である。


 肺腑に息を取り込んだカイマンは、の者に追撃を食らわせんと潜水を敢行。酸素を求めて藻掻くウォーフの背後に回り込む。そして鱗の右腕を首根っこに回し、生来の剛力で締め上げた。ゴボッ、とウォーフの口からあぶくが漏れ出る。水攻めと締めの合わせ技。カイマンはまるで毒蛇の如く絡み付き、獲物を水底みなそこ水底みなそこへと引き摺り込んでゆく。


 締め落とす程にめる必要性は皆無だった。カイマンは二重に映る視界の片割れが、激しく揺れ動く様を感知している。生への執着か、ウォーフの眼球は細かな震えを伴い、絶えず廻転かいてん収斂しゅうれん開散かいさんを繰り返す。

 ――典型的な死前しぜんきざし――王城待機時の折、カイマンはヴィシルダが用意した罪人への生き試しを行った。その最中、死に瀕した罪人の眼球が、今のウォーフと同様の状態に陥る瞬間を、しかと記憶していた。


 海面より杲々こうこうと射し込む日光にウォーフの表情は照らされ、蒼白く光る。カイマンの拘束を解かぬ事には、勝利は無い。だが、強く抵抗を行えば行う程、肺腑に残る貴重な酸素は加速度的に失われてゆく。よしんば抜け出せたとしても、視界は相も変わらず暗闇の中、感覚だけで海面まで辿り着けるかどうか。


 ――聴覚が、遠のく――引き込まれている方角が水底であろう、と察しは付くが、其れに対する解も、まさしく闇の中。


 鱗に伝わる抵抗の力は徐々に失われ、絡み合う一対の戦士は緩やかに沈んで行く。宛ら、安楽の揺り籠に乗せられた赤子の様に。静謐せいひつに包まれた水底で、彼らは聞く。一方は水底にあって確かなる耳に、一方は遠ざかる彼方かなたの耳に、ピシリ、と走る亀裂きれつの音を。


 これは孵化ふかを示す音色おんしょくでは無い。

 ――恐らくは《脱皮》――カイマンは、そう受け取った。

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