悪縁契り深し その3

 岩影に身を潜めていたガロアは、如何いかにも悩ましげな顔で断崖だんがいに歩み寄る。崖岸がいがん四足よつあしを着いて下を覗き込めば、蝕崖しょくがいの足元に寄せては返す白波が揺れていた。

 ――平静そのものだ――に悍ましき静けさ。今まさに、この海面下でひとにが出ようと言うのに。


 ガロアにはとんと理解が出来なかった。彼らの戦う理由、助力を拒む稟性ひんせい。困惑の中には、僅かばかりの羨望せんぼうも混ざっていた。

 ――何故、そこまで互いを見合える?――その問いかけに答える影が、ガロアの背に掛かった。


「それは《欲》」


 少しばかり高くなった東日あさひを背負い、振り向いたガロアの視界にコーミュは立っていた。ガロアに取っては――僅かなれど――既知の人物。

 然し、その風貌はハイケスの城で視た時より、幾許いくばくかの変化をていた。深く被っていた布は取り払われ、奥に押し込められていた金色の体毛が潮風になびいている。毛の奥のくぼみにめられた薄緑の両眼ひとみは見開かれ、所在無しょざいなげに揺れ動いていた。


 ――めしい――

 ガロアは、眼前に立つ獣人が何も見ていない事を悟った。


「生きとし生けるもの、そのせい岐路きろの連続。貴方もまた岐路に立っている。右方うほうか、左方さほうか、或いは虎視眈々こしたんたんと座し、或いは自らの足跡を辿るのか。彼方かなたに臨む道は深山しんざん隘路あいろと平野の大道たいどうを結び。時に悪魔が囁やき、時に神が指図する。

 ――しかながら、とてくても、生きとし生けるものは自らの意志にって選択するのです。彼らは取り分け欲に従い、選んだ。半ば無意識的であろうとも、この道に至った訳は、詰まる所、《欲》に突き動かされての事」

「ウォーフとあのリザードマン、二人が欲深だから、とでも?」

「欲に抗うも、身を任せるも、全て自らの意思決定にるもの」


 頻りに耳鼻じびを痙攣させる様に細かく動かしながら、コーミュは演述えんじゅつする。曖昧模糊あいまいもこ、ガロアは夜陰やいん縹緲ひょうびょうたる森中もりなかに放り出された気分だった。

 その時、ガロアが今の問答とは全く別個の事実を察すると同刻、崖下に広がる水面は決しておだやかならず。静かに揺れていた海は、突如として爆音と共に弾け、大筒おおづつを撃ち込まれた様な水柱がガロア達の頭上まで伸び上がった。


 寸刻の静寂の後、巻き上げられた水は雨となる。だが、降り注いだのは海水のみならず――ガロアとコーミュの頭上に影がよぎった。影は砂ににじむ水の様に緩々かんかんと広がりながら背後へと流れてゆき、やがて、地に落ちる。ガロアは紅眼こうがんに、コーミュは耳鼻じびに、落下物の正体を視た。


「カイマンッ!」


 踏み出したコーミュが前のめる。コーミュの垂れ下がる裾を掴んでいたのは、ガロアの小さな手だった。蹌踉よろめきながら立ち上がったカイマンをて、コーミュは意を決しガロアと共にその場を後にする。


 カイマンのめ付ける断崖絶壁の上辺じょうへんに、ぬめりを帯びた右腕が掛かった。次に左腕。其れ等両腕りょうかいなに、ぐぐっ、と力が込められる。

 ――美しい!――カイマンは息を呑んだ。

 素手に登攀とはんを成し遂げ、獣の如く四足よつあしで地に這うウォーフの全身は、日光に照らされて淫靡いんびな光沢を纏っていた。


 再度、遠巻きに視守るガロアは、夢に聞いた曖昧な言葉を鮮明に思い出していた。ならば、あれこそが“影”。欲の影法師かげほうしなのだろう、と。

 地にいて全身を震わせるウォーフは、獣の如き唸りを上げた。鱗鎧の内に秘められた欲の正体が、これなのだ。ウォーフの、獣の四肢しし――否、四足しそくの爪は著しく伸長、犀利さいり危険物はものと化し、口元には太く根を張る犬歯きばが生え揃い、全身の筋骨は余す所なく隆起していた。


 口中からよだれを垂れ流す獣に対峙して、カイマンの精神は絶頂の寸前に居た。

 ――かぶり付きたいぞ、その蒼白き筋骨隆々の背中!――その逸気いっき鱗板りんばんの下で筋肉を収縮させ、僅かな身動みじろぎとなり、何処どこからとも無く音が漏れ出た。刹那、獣は戦の風に弾かれる。思考も理性も朧気おぼろげな盲目の獣は、粘性ねんせい纏う肌を撫でる風に、位置関係の大凡おおよそを掴んでいた。


 さきを取られたカイマンも負けじと食って掛かる。四足よつあしに地を蹴り飛ばして迫り来る頭部へ向け、右脚を千切れんばかりに蹴り出した。相対的に天を駆ける猛禽を越えた速度の一合。

 接触の直前、四足の獣は本能的に首を逸らし、蹴りは右肩に吸い込まれる。カイマンの脚先に伝わるは堅牢な鱗鎧の感触では無い、恍惚を誘う甘い破砕の――その姿、奇縁を脱ぎ捨てたか!――たがの外れた大蜥蜴おおとかげ膂力りょりょくは、繰り出した右脚に鎧無き鎖骨と肋骨を数本し折る感触を得る。しかし、それに前後して、獣の左前足の爪もカイマンへと到達していた。


 交錯した両者の間に、距離が生まれた。その場に留まるカイマンと、勢いのままに駆け抜けた獣は、立ち位置をにして向かい合う。

 獣の右前足が地に引き摺られている。右肩付近へ吸い込まれた蹴りは、鎖骨を無慈悲にも完全に破砕しており、その運動性を著しく落としていたのだ。これでは最早、使い物にはならない。然し、残る三足さんそく安穏あんのん無事。右前足を失い三足みつあしとなった獣は、荒く息を吐き出した。


 この獣、鎧と共に海中で脱ぎ捨てたか、痛覚の一切を感知していない。対し、向かい立つカイマンの口角こうかくから一筋の血がしたたり落ちて行く。蜥蜴はほぞを噛み切っていた。

 交錯時、獣の爪は厚い鱗板りんばんを深く切り裂き、カイマンの下腹に致命的な裂傷れっしょうを負わせていた。幾許いくばくも無く臓物がまろび出る手傷でありながら、その傷口から血の一滴も零さぬ訳は、ひとえに尋常ならざる筋力の締め付けに他ならない。


 最早、退く場所も無い――勝たずば、帰らじ――構えたカイマンが呼吸を整える様に息吐く。時を同じくして、獣は耳鼻じび素肌はだに宿敵の姿を視た。即座に弾け、風となりて突貫とっかんする。

 ――片前足を潰されて尚、何と俊敏な動きか――盲目的でありながら正確な一撃がカイマンに迫り来る。回避を試みようとも、物音に補足される事を、カイマンは察していた。


 ――ならば!――威風堂々、カイマンは仁王立つ。左右に大きく広げられた両の腕は、果たして殴打の準備か――否、は抱擁の――その光景、ガロアには、まるで生き別れた肉親が再開を果たす絵図にも視えた。三足みつあしの獣が飛び上がり、備わる凶刃を大振りに振るう。


 仁王立つカイマンは避けない。身動みじろぎひとつせず、繰り出された左前足を脇腹にうずめさせた。同時に、獣の背後へと両腕りょうかいなを回し、しかと抱き止めた。


 瞬時に、理性無き盲目の獣が異変に気付く。左前足が引き抜けないのだ。万力の如き腹直筋の締め付けが、獣の左前足を捕えて離さない。

 ――これで終わりでは無い――カイマンは、“締め”を腹直筋のみで済ます心算つもりなど毛頭無かった。両腕りょうかいなきんで結び、獣の足を巻き込んで渾身の力で締め上げる。


 軋む軋む、脱皮にって隆起した獣の筋骨が軋む。獣は堪らず猿の如き金切り声を上げ、藻掻き立てた。然し、出鱈目でたらめに繰り出されていた後足うしろあしの爪も、カイマンのきんに突き立った瞬間、それもまた縄に捕えられる。

 ――猿叫えんきょう――発せられる絶叫からは喉に対する労りの一切が欠如しており、遠巻きに視るガロア、コーミュの耳をつんざいた。


 いくさの天秤が怪力にかたむく。常軌を逸した蜥蜴とかげの怪力は、それを以て自らの上体を逸らし始めた。藻掻き、開口する獣とは対象的に、蜥蜴は臼歯きゅうしを噛み砕かんばかりに食い縛る。

 傾く、天秤が力に傾く――獣の後足うしろあしが再度地と離別し、叫びは一段と勢いを増す。豪腕の締め付けに加え、脱皮にって増した体重が獣を苦しめる。


 藻掻けども、暴れども、抜け出す事は叶わない。手脚は筋に捕らわれビクともしない。然し、筋骨を躍動させた足掻きは、全く別の、誰もが予期せぬ効果を戦場いくさばに齎していた。

 刺激していたのだ。豪腕で躍動を感ずる蜥蜴の“欲”を。

 ――我慢、できぬ――食欲が強烈に蜥蜴へ働きかける。食いたい、そう思うが早いか、蜥蜴は口元を獣へ押し付けた。


 蜥蜴の鋭い歯が肩口へ突き刺さる。瑞々みずみずしい皮膚を突き破り、溢れ出る生き血を啜り、脂肪と筋とを諸共もろとも食い千切り取る。蜥蜴は弾力にいきり立った――甘露かんろ甘露かんろ!――だがこの時、叫び藻掻く獣の耳鼻じびが、咀嚼そしゃくする蜥蜴へと目測を定めた。呼応する様に獣が開口。並び立つ犬歯きば垂涎すいぜんが糸引き、同じく蜥蜴の肩口へ突き立てられる。強靭な顎は色くすむ鱗板りんばんを破砕し、筋骨と共に血を啜る。


 僅かに残った理性と、両雄はここで決別した。蜥蜴と獣は互いに噛み付き、互いに嚥下えんげし終えれば、また互いに噛み付く。一心不乱に互いを貪り食らう。腹部筋の締め付けが緩み、蜥蜴の傷口から血と臓物が顔を覗かせた。同時に、獣の足に対する拘束も緩み始める。然し、両雄は其れ等を看過。ここに至って手脚を振り回す気など、更々起き無かった。


 唯唯ただただ、眼前に露出した皮膚下に鼻を潜り込ませ、本能の赴くままに貪り啜る。溢れ出た血が、カルーニアの乾いた地に染み込み、その上を更に溢れ出した血が滑って行く。

 両雄の食事は徐々に肉厚な部位に移動して行き、遂に臓腑を食い破った。互いに互いの腹に顔を埋める様は、まるで蛞蝓なめくじや蛇の、なまめかしく湿潤しつじゅんな情事にも似ていた。


 悍ましいうたげの終幕は、何の前触れも無く唐突に訪れる。


「あぁ……」


 ガロアの隣で、にわかに漏れ出たコーミュの吐息と、両雄が折り重なるのは、同時の出来事だった。徐々に、コーミュの緑眼りょくがんに光が戻って行く。


 二人は、何方どちらからともなく折り重なる血の海へ踏み出した。地に伏した二匹の雄は、ピクリとも動かない。ガロアは、倒れ伏すウォーフの口元に手を翳し、その息の根が完全に止まっている事を確認した。

 ――幸せそうな顔だ――禍福はあざなえる縄のごとし、死に際に生涯最高の幸福を享受できただけ、ウォーフの一生は幸せな物だったのだろう。ガロアはウォーフの死に顔を撫で、見開かれていた目蓋まぶたを落とした。


「……カイマン」


 ポツリ、と思わず零れ出てしまったかの様に、コーミュの口からその名が漏れ出た。ガロアは立ち上がり、うんと腰を伸ばす。


「カイマン……は、幸せそうに見える?」

「はい……」

「そう」


 カイマンの骸を撫でる“縁者”を見下ろしながら、ガロアは纏わり付く縁に思いを巡らせていた。

 ――縁とは、く在るべき物なのか――血に濡れた欲の結末こそが、アレスのもたらした物なのだろうか。コーミュは目元を拭いさった。


「神が……私とカイマンを繋げた理由ワケ、結局、分からなかった……」


 その時――ガロアのくれないは、影を視た。


「……俺は分かるよ」


 ガロアは光に解せず、影にかいした。


 涙を湛えて振り向いたコーミュは、濡れそぼる犬だった。

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