華
すっかり雲に覆われた灰色の空が天に果てしなく続いている。しかし、分厚い曇天の下にあっても、“帝都”はその華やかさを失うことはない。
帝都の華は市井の民に端を発せず。
商人でも、貴族でもない。際限なく広がる白塗りの民家にでもない。
中心地に天高く聳え立つ城。その高嶺に御座す女帝こそが、“それ”である。
今代の帝位は前代の皇帝が病死した為に、その妻が受け継いだものである。前代の皇帝には三人の妻が居たが、帝位を勝ち取ったのは三人の中でも最も若く、新しい女だった。
彼女はまるで夫の死を予期していたかの様な手際で、瞬く間に家臣連中の支持を集め、残る二人の妻と子を処刑した。
時は流れ、名を『テグス』と改めた女帝は、目の前で傅きもせず語るアレス教の使い走りを玉座の上から見つめた。
その表情は、今ではすっかり世に浸透した『血の女帝』の異名に似合わず、穏やかなものだ。
「『アンリに於いて、悪魔の使い討伐せしめたり』、以上」
「そうですか。それは大変結構。ご足労でした」
テグスは慇懃無礼に視線の動きで退室を求める。アレス教司祭の男はさして気にした様子もなく、刺繍付きのマントを翻して退室していった。
カツーン、カツーン。耳障りなほどに大きな足音が遠ざかるのを聞きながら、テグスは指で側近を呼び寄せる。
「結局、アレだけ大騒ぎして何もなしだ。ティルミュに兵を動かした費用を請求したいわ! それで、悪魔の使いについて新たに判明した事は?」
「ありません、相変わらず文献に近い教徒は挙って提出を拒否しています。前に入手した一部以外には……」
「どうせ与太。奴らが騒ぐ事柄は総じて些事」
その時、カツーン、カツーン、と玉座の間に向けて大きな足音が戻ってきた。靴の裏に鉄板でも入れているのだろうか、それが石畳にぶつかって大きな音を立てている。
血の女帝が住まうこの城を、鉄板仕込みの靴で歩き回る愚者は一人しか居ない。テグスはその正体に当然勘付いており、整った顔を顰めた。
「開けてやれ」
テグスがそう言うと、意を汲んだ側近が兵に合図を送り扉を開かせる。そこには、先程退室した伝令の男が澄まし顔で立っていた。
「まだ、なにか?」
男は手元の紙を翳してみせた。
「別の伝令が丁度持ってきたんだ。そいつは忙しいみたいでね……。『代わりに渡してくれ』って押し付けられたのさ」
「そう。早う伝えて
男は肩を竦めると、背筋をピンと伸ばして仰々しく目線の高さに両手で紙を上げた。
「ゴホン、帝都に座す一輪の華――」
「全部読まんでも
男はもう一度肩を竦めてみせる。なんて我が儘なやつなんだ、とでも言うように。
「差出人は『レリア』――ティルミュの司教だ。うーん、ティルミュに待機していた兵を少数抜き出して、ダリ近辺の調査に向かわせたっていう事後報告」
「勝手な真似を……」
自国の兵を好き勝手動かされるのはテグスにとって遺憾である。だが、それ以上に強く口出し出来ぬ事が口惜しい。
「ダリの近辺に奴さんの隠れ家があるらしい」
「ダリは確かティルミュの東に位置する――そうだ、緩衝地帯付近だ。そこに隠れ家がある、と? ……“監視”は何をしていたのだ!」
監視とは王国、帝国の両国が互いにロア山脈と緩衝地帯に派遣し合った人員の事である。
同盟の約定でロア山脈と緩衝地帯の開発は禁じられており、それに類する行為が発見された場合は即座に侵略行為と見做され、立ち会ったアレス教により罰則が与えられる。
テグスの癇癪はそれらがまともに機能していない事に起因していた。
尚、これは余談であるが、20年近く泰平の世が続いたことで商人たちが活気づき、その突き上げによってロア山脈に道を整備する計画も持ち上がってはいる。
ただ、これにはアレス教が強く反発しているのだ。(恐らくはロア山脈の北に位置し、両国間唯一の平地である教皇区を通らせることで、通行料をせしめようという魂胆なのだろうが、誰も表立って指摘できてはいない)
「そもそも、帝国としては化物の存在自体が疑わしいのだ! 文献とやらも此方にはその一切合切を開示せぬままではないか!」
「一司祭に過ぎない俺に言われてもな。それと、もう一つ」
「まだあるのか!?」
「ハンナとミネア=ポーリスの両名が悪魔の使いとの戦いに居合わせ、拘束を試みたものの、敢え無く取り逃がしたそうだ」
ハンナとミネア=ポーリス。二つの名が出てきたが、テグスには今一つピンと来ていなかった。その様子を察したのか、後方で待機していた側近が耳うつ。
「ハンナは騎士団内で殺しをやった者、ミネア=ポーリスはクィータの家の末娘です」
「……ああ、奴らか。王国に逃げたのなら、もう捕まらんだろう。後であの商人にも伝えてやろう。いちいち小うるさいのだアイツは」
そんなテグスのぼやきにも似た呟きに側近は礼で返した。テグスが男を見ると、男は何も話さず立っているので、「終わったなら出て行け」と顎で扉を指す。
男は先と同じ様に、すたすたと退室していった。
「……ふん、商人への報せは私が直筆で認める。紙をもってこい」
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