肉食獣
マーシャの成長は著しく、日を増すごとにぐんぐんと育ち、人でいう二、三歳児ぐらいの体格にまでなっていた。
マーシャはまるで虚空を掴むかの様に手を伸ばし、所在無げに開閉を繰り返す。その様をゲイルが微笑んで見守っていると、マーシャは次に口元を動かし始めた。
「……ぅあ……あ」
「マーシャ、どうしたんだ? お腹が空いたのか?」
「あ、あ……ぱぁぱ……」
「『パパ』! いま、『パパ』って!」
ゲイルが縋るように後ろを振り向くと、後方から覗き込んでいたアクートゥスが自信を持って頷いた。
「言いましたよ!」
二人は手を握りあい、飛び跳ねながら喜びを分かち合った。なんと、天上にも登る気持ちだろう。子は親の愛を感じ、親は愛の途中報告を受け取る。
たった二文字の言葉が引き起こす、家族の大切な行事の一つだ。二人は揃ってマーシャの頭を撫でくりまわした。
「マーシャちゃんは……やっぱり、身体だけが早熟な種族だったみたいですね。これくらいの身体になると、他の種族ならもう少し言葉を話してもいい頃ですから……」
「そうなのか?」
「はい、種族によって発育や体格とかにも差があったりするんですよ。リザードマンと一言に言っても、細かい種族の違いが結構あるんです」
それを聞いたゲイルは、途轍もなく気まずそうな表情で頬をかいた。
「アレス教徒には怒られるかもしれないが……。実は、リザードマンの細かい違いって良くわからないんだ」
「……ここだけの話ですよ? 私も、人の区別が付かない時があるんです。未だに……」
「ふふ、ふはは……!」
「あははは……!」
卑下から来る笑みではない。相手を種族で括り、蔑み見下す嘲笑でもない。同じなのだ。人もリザードマンもそれ以外の種族も……。
皆、同じなんだ。
二人は本音をまた一つ分かち合い、互いの距離が縮まったのを感じた。そこへ、何処かさっぱりした様な雰囲気を纏うラーザリが扉から顔を覗かせる。
「ラーザリ様!」
丁度そちらを向いていたアクートゥスが、先にラーザリの来訪に気付き、姿勢と心持ちを即座に正した。だが、ラーザリはそれを手で制する。
「あ、いや、ちょっと見に来ただけだ。赤子の――『マーシャ』の顔をな……」
おずおずと話すラーザリに、ゲイルが素早く近付いていく。そして背後に回るとそっと肩を押した。
「どうぞ! 存分に見て下さい」
「あ、ああ。ゲイルよ、そんなに押すな……」
ゲイルは懐かしい気分だった。もたつく主人の背中を押してやるのも従者の務め、ゲイルはそう気負っていつもラーザリの背中を押していた。
若くして妻を亡くしたラーザリと二人三脚で行商を営み、そこにマリーヤも合わせた三人での生活は、貧しくも満ち足りたものだった。
マーシャの頭を指先で撫でるラーザリも又、同様の物懐かしさに浸っていた。
ゲイルは尋ねる。
「どういう風の吹き回しでしょう? 今まで顔を見に来るなんて……」
「……」
ラーザリは携えていた一枚の文書を、投げるように渡した。そして、受け取ったゲイルが中を確認するまでもなく説明する。
「皇帝陛下直筆のものだ。『ハンナ・スネルが王国に出没するも、取り逃がした』、とか何とか。残りは世間話だ。巷で話題の『悪魔の使いに気を付けろ』とか……」
それっきりラーザリは黙りこくって、マーシャの頭を撫で続けた。直接的な言葉を介さずとも、ゲイルにはラーザリの心情が手に取るように伝わっている。ゲイルも押し黙り、場にはちょっとした沈黙がおりた。
沈黙を破ったのはアクートゥスだった。弾かれた様に立ち上がったアクートゥスは、悲鳴にも似た言葉を吐き出す。
「あ、もうこんな時間! マーシャのお昼ご飯を作らなきゃ……。ゲイルさん、ちょっとマーシャを見てて下さいね!」
そう言って台所へ早足に向かうアクートゥスに、ラーザリは声を掛ける。
「なら、私も手伝おう」
「そんな、ラーザリ様! 私が作りますから……」
「この家も、昔は今ほど裕福ではなくてな。妻もいなかったから、マリーヤの食事は私とゲイルが作っていたのだぞ? 心配する事はない、さぁ行こう」
ラーザリはアクートゥスの肩を掴んで、台所へ押し込んだ。先のゲイルにされたのと同じ様な形だ。そんな主人の表情に笑みがあるのを見て、ゲイルは少し気が楽になったような、そんな気分だった。
二人が台所へ引っ込むと同時に、今度はまた別の人物が訪ねてくる。
「よう、ゲイル」
ゲイルが振り向くと、ヘルムが手を振り立っていた。手元には大きな肉塊を剥き出しに携えて、何やらご機嫌な表情だ。
「ヘルム、その肉は?」
「貰ってきたんだ。マーシャにも食わせてやろうと思ってな。ほ~ら、肉だぞ~」
ヘルムはそう言って、肉の塊をマーシャの前でふらふらと揺らしてみせる。ゲイルが顔を顰めて止めさせようとした、その時。
バキッ……。
何処か野性味に溢れる破砕音が、ヘルムの手元から響いた物であると、二人は瞬時に理解した。
「あぁ、マーシャ! 生肉なんて!」
マーシャが目の前に揺らされた肉を食い千切ったのだ。ヘルムの手元の肉に、大きな歯型と涎が残っている。
「マーシャ、吐き出しなさい!」
「待て、ゲイル……これ、骨ごと……」
「えっ?」
二人が覗き込んだ肉の塊、その歯型の奥に――太い
保護者の立場としては、すぐに止めなければならなかったのだろう。しかし、この時のゲイルとヘルムの両名はそうしなかった。足に釘でも打ち付けられた罪人の様に、ピクリとも動かない。
ゴキッ、バキッ……。
マーシャが咀嚼し終えた肉と骨を飲み下すのを、二人はただ突っ立って見ている事しかできなかった。
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