第三章 縁と浮世は末を待て

 犬は力


 かつて 無軌道な力の根本をし 人は獣と称した


 然し 知を以て引き連るならば 其れ即ち犬となる



第二章 悪縁契り深し (いぬ) 完





第三章 縁と浮世は末を待て



 帝都の一等地にある大屋敷は、“豪商”ラーザリ・マスロフスキー所有の物である。今、この屋敷の応接の間にて、ラーザリとその従者の謁見が行われていた。

 決して堅苦しいものではない。彼と忠臣は長い付き合いであり、気安さではないが、一種の家族愛のような物が育まれていた。

 そんな忠臣が放った言葉が信じられず、ラーザリは自らの耳を疑い、素っ頓狂な声を上げた。


「はぁ? 今、何と?」


 取り乱す主君の様子に悪びれもせず、“忠臣”ゲイルは繰り返す。


「ですから、暇を頂きたいのです」

「……」


 戦前、ラーザリ・マスロフスキーは一介の商人に過ぎなかった。それが何の因果か戦時特需の波に乗り、帝都の一等地に屋敷を構えるまでになったのは、眼下に跪くゲイルの献身あっての事……。

 自らが最も信頼を置く人物。だからこそ、愛娘であるマリーヤ・ラーザレヴナ・マスロフスカヤを惨たらしく殺した下手人、ハンナの足取りを探らせていたのだ。

 その忠臣が帰還しての第一声、それが「暇を頂きたい」と。

 ……とにかく解せなかった。『下手人は既に緩衝地帯を抜けて王国領土へ逃げ込み、追跡は困難』という報告は先んじて送られた書簡により知っているが、ラーザリはまずその内訳を聞きたかった。


何故なにゆえの申し出だ? お主もマーシャの死には心を痛めていただろう。私はお主に一任したのだぞ」

「マリーヤ様の死は私の心を暗い雲で覆いました……。それは、今も晴れることはありません。ですが、暗い雲間に射す一筋の光芒こうぼうを、私は見付けてしまったのです」


 ギリギリと歯を軋ませ、ラーザリは激昂の寸前にあった。青葉の頃より回りくどい言い方を好まなかったが、それ以上に、知っていながらもいけしゃあしゃあと婉曲的な表現に終止する忠臣の姿がそうさせていた。

 しかし、長年の信頼から努めて静かに、冷静に振る舞う。


「……何を見付けたというのだ」

「赤子です」

「赤子だと!?」


 ラーザリは大袈裟に驚いて復唱してみせた。


「お主が捨子を拾うような玉か!?」


 自分がてがった女に目もくれず、「男色ではないか?」と疑ってすらいた忠臣に、その様な一面があったなど……、ラーザリは思いもよらなかった。


「はい。恥ずかしながら」

「赤子はいまどこにいるんだ」

「侍女に預けております」


 タイミングを見計らった様に赤子を抱えた侍女が部屋に入ってきた。晴れやかな産衣うぶぎぬから覗く頭部はどう見ても爬虫類系のそれである。

 卒倒しかけたラーザリを柔く高級な椅子が優しく受け止めた。これは、ゲイルの選んだ物である。ラーザリの手は無意識に椅子の表面をなでた。


「名前はマリーヤ様に肖り『マーシャ』と致しました。本名を戴くのは恐縮でしたので愛称を」

「我が娘の名をトカ……うぅむ」


 「トカゲ如きに付けるな」とは、言い切れなかった。これは差別的な表現に当たるだろう。ラーザリは途中でそう気付き、自制したのだ。事が漏れたら“懲戒”の対象になり得る……。

 ゲイルは蜥蜴頭の赤子を優しく抱き上げると、自分も含めた場の全員へ言い聞かせるように語った。


「暗闇の中にマーシャの泣き声を聞いた時、思ったのです。私が守らねばと。幼少の折、路地で拾い上げられてから今日こんにちに至るまで、粉骨砕身の思いで仕えて参りましたが、この度少しの暇を頂きたいのです」


 その言葉を咀嚼しきるのに、ラーザリは幾許かの時間を必要とした。二呼吸ほどの間を置いて上げられたラーザリの表情は、相変わらず険しいものだった。


「自らで育てたいと?」


 最終確認。ゲイルは戸惑うこと無く深く頷いた。


「息子のように扱って下さった事、深く感謝しております。私はその愛をこのリザードマンの子に注ぎたいのです」


 断られようものなら出奔すると言わんばかりの態度だ。そんな空気を読み取り、ラーザリは大きなため息をつく。大恩ある忠臣を叩き出す気は毛程も起きなかった。


「……はぁ、下手人の方は別の者に任せる。好きにせい。元より無理筋……」

「感謝致します」


 主君が漏らした嘆息も尻目に、ゲイルは侍女を引き連れて使用人区画を目指した。さして長くもない廊下を進み、二つ角を曲がればそこはもう使用人の生活圏だ。

 廊下の最奥突き当り。使用人部屋の中では最も大きな個室の前に、一人の男が大荷物を足元に並べ立てて陣取っていた。

 男はゲイルの接近に気が付いて、軽く手を振ってみせる。


「頼まれたものは揃えといたぜ。ゲイル」

「ヘルム……ありがとう」


 ヘルムと呼ばれた男は振る舞いの節々に、快活な面と少しばかりの粗野な雰囲気を見え隠れさせていた。陰気なゲイルとは正反対な性質。だが、彼らは同じ主の下で盃を傾けあい、時間と共に友情を育んできた仲である。

 ゲイルは悪友が押し出した揺り籠に赤子を横たわらせた。現世の惨禍など一切関知せず、赤子はすやすやと寝息を立てている。


 三人は自然と微笑んでいた。

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