二巡目のプロローグ その1
イストスは黙して語らず、彼の者を触れずに撫でた。するとコーマ(※)が音もなく揺らぎ、木と人と獣とに絡んだ。
※ 獣人の言葉でいう縁
――獣の民に伝わる書 ヤム(ヤン) 口語訳
――趣味だって? どの口が言うか!
金色の毛の奥、獣人は深く被ったローブを
『カイマン』と名乗ったリザードマンに対して、獣人は反抗する気力の一切を奪われていた……。
「コーミュ・イストス・ヤムナ。故国では『ヤムナ』に敬称を付けて呼ばれておりました。『ヤムナ様』、と……。しかし、これは故国に於いて神職を
わっ、と声を上げて、コーミュより頭ひとつかふたつ小さく、
「ねぇねぇ、イストスってど~ゆ~意味~?」
「甘い匂いがする~」
「なんでお顔にお毛々がいっぱい生えてるの~?」
甲高く間延びした耳障りな声が響く。無遠慮に、飾り気のない質問を投げ掛ける稚児共を、腰の曲がった老爺は手慣れた様子で諌めて回る。
「こらこら、コーミュ殿はアレス教にとってのお客様なのです。失礼な事を言ってはいけませんよ」
「いえ、司祭様。御構い無く。子供のする事ですから」
コーミュは司祭と上辺を撫でるだけの言葉を交わし合い、共に大部屋を後にした。
子供のする事にいちいち目くじらを立ててはいられない、それは本心だ。暫くは彼らと席を同じくして『アレス教』をこの学舎で学ぶのだから。
間もなくコーミュは来客用の部屋に通される。今日の予定はこれきりだそうで、夕食を勧められたが、コーミュは断った。
宛がわれた部屋には、一見して何の不満も見当たら無かった。寝床も柔く、何より窓の方角が良い。
丁度朝方になると、優しい朝陽が射し込む立地だ。良い部屋、そして良い待遇ではあるのだろう。
コーミュは備え付けられていた椅子に座り、懐から葉巻を取り出した。そして気怠げな動作で葉巻に火をやると、瞬く間に甘い煙が部屋を満たしていく。
この葉巻は獣人の神職が『コーマ』との交信に用いる葉巻だが、コーミュはそれを信奉せず、こうして普段より唯の享楽に用いていた。
……どうも、向かっ腹が立って仕様がない。
土地を奪い、言葉を奪い、家畜も物も踏みにじり、神を否定した。あの『人』共。
アレス教の連中も揃って人間優位の立場を取っていたと思えば、一転してこの様な態度に出てくる。苛立ちは葉巻を握りつぶす形で発露した。
コーミュは吸い殻を自前の灰皿に捨て、全身を放り投げる様にして寝床に横になる。
全ての事柄に対して、なんだか今日は投げやりな気分だ。葉巻の効きも悪い。
コーミュは眠気も相まって錯綜し始めた感情と思考を整理する様に、ヤムを
数瞬の暗転の後、夢の無い眠りからコーミュは目覚める。窓より射し込んで来た朝陽で起こされたのだ。
コーミュが気怠げに身嗜みを整えていると、何者かが扉を優しく叩いた。開けてみれば、老司祭が微笑みながら立っていた。
「朝食の時間です。お召し上がりになりますか?」
「……はい、戴きます」
部屋を出て、そう遠くもない食堂にコーミュは案内された。老師祭が汗を垂らしながら重そうな食堂の扉を開くと、既に中で座っていた稚児共が、一斉に顔をグルンと回してコーミュを見つめる。
集まる視線に居心地の悪さを感じながらも、コーミュが促された席へと着けば、稚児共は昨日と変わりのない言葉を投げかけた。
コーミュも、今度は少しだけ応答する。
「ねぇねぇ、イストスってど~ゆ~意味~?」
「イストスとは神名です」
「神名って~?」
「アレス教の聖名に似たものです」
「聖名?」
……コーミュは心底呆れ果てた。おいおい、お前らのトコの宗教だろうが……。お前らはそこに確認なく徴集された訳だが、関心が薄すぎるだろう……。
「アレス教では一人前の聖職者と認められた時、以前の名前をすっぱり捨てて、代わりに聖名を授かり、それを名乗ると聞きましたが……」
「おお、コーミュ殿。良く知っておられますな」
「……個人的な興味があったので」
コーミュは大きな溜息を吐きたいのを堪えて、眼前に配膳されたパンを千切り、飲み込んだ。稚児共はその間も喧しく騒ぎ立てる。
「甘い匂いがする~」
「なんでお毛々がいっぱい生えてるの~?」
「え~、知らないの~?」
コーミュは昨日の様に諌めてくれる事を期待して、横目に老師祭に助けを求めたが、彼は微笑んで稚児共が騒ぐのを見ているだけだった。「知らないの?」と言った女児の、次に紡いだ言葉を聞くまでは。
「『犬』だから――」
「~~~~さん!」
老司祭は大声で女児を怒鳴りつけ、机と椅子を弾き飛ばすような勢いで立ち上がった。曲がっていた腰をピンと伸ばし、睨みつける。
飛び出た発言の内容はその場の誰にも聞き取れない程に不明瞭だったが、声音と表情に怒りの色が混ざりつつある事には稚児たちにもコーミュにも理解できた。
食堂が水を打ったような静けさで満ちる。老司祭は自らが作り出した静けさを切り払って、なおも続けた。
「差別的な言葉を使ってはいけませんといつも言っているでしょう! 彼らを犬に例えて誹るとは言語道断! 彼らは決して犬などではない! アレス様は犬猫の動物を創られた後に『人と獣』を創られているのです! これが――」
「う、う、うええええぇぇぇ!」
暫し呆気に取られていた稚児たちが、老司祭に負けず劣らずの大声で泣き始めた。直接怒られていない筈の周りもつられてか泣き出す。
思わず耳を塞ぎたくなるような合唱だったが、それ以上に、コーミュは老司祭を疎ましく思った。
――気持ち悪い。
その眼は何処を見る。誰を見る。眼前で喚き散らす稚児でもなく、誹りを受けた私でもない。……『アレス』か?
――気持ち悪い。
老司祭よ、私は知っているぞ! アレス教が主役となった多種族弾圧の仄暗い歴史を! 血生臭い闘争の歴史を!
お前は歴史の生き証人の筈だろう! 見て来た筈だろう! 視て来た筈だろう!
――その
その後、場がどの様にして収まったのか、コーミュにはとんと覚えがない。気がつけば、コーミュは宛がわれた部屋で煙と枕を抱いていた。
コーミュはアレス教を知っている。この学舎における初等教育の範囲だって、当然知っている。
それらの学習は獣人が生き残る為に必要な事と、そう思っていたからだ。
人の言う獣人。その神職をアレス教が呼び立てたのは、恐らく同化の為である、とコーミュは推察していた。
人は獣人の神イストスと人間の神アレスを同一の者とし、両種族間の溝をまた一つ埋めようとしている。
人の宗教であるアレス教本位で。これはその一環なのだ。
「おえっ……」
吐き気がした。余りにも身勝手が過ぎじゃないか。……いや、きっと身勝手ではないのだ。
「『犬』だから――」
……そうだ。人間から見れば犬でしかない。自らの都合で首につないだ鎖を引っ張り、東へ西へと連れまわせるだけの存在。
コーミュは力いっぱい目を瞑った。
犬になりたい。どうせなら犬になりたい。
『犬の如き獣人』と『犬』とでは違うのだ。犬は……。犬に生まれていたら、こんな思いをせずに済んだのに……。
「ひっ、ひっ……ひー……ひー……」
コーミュはイストスに与えられた二本のコーマを抱き寄せて、ひきつけを起こした様な呼吸を繰り返していた。
苦しくは、ない。全くその逆で、途轍もなく心地が良かった。最初は胸中だけに留まっていた心地よさは、次第に全身へと広がって行く。
ずっとこうしていたい……。
身体もコーマも、全てがドロドロになって、何か一つの……、別のものになっていくような……。
その時、重苦しく閉ざされていた扉が軽やかに開かれた。
「――デカい犬。いや、獣人か」
「う、うぼぇ……」
乱入者の開いた扉から充満していた葉巻の煙が出ていき、コーミュは嘔吐した。寝床を転げ落ち、蹲るコーミュの目の前に訪問者の足が躊躇なく踏み出される。吐瀉物を砕いたその足は分厚い鱗板に覆われていた。
恐る恐る見上げたコーミュの視線の先に映ったのは、血塗れの蜥蜴頭……そして、自らとの間にかかる一本の『コーマ』だった。
「
「そ、その血は……」
「ガキを連れ出そうとしたらジジイが邪魔してきたんでな、鬱陶しくて――諸共斬った。しかし、煙たい部屋だな」
思わず、コーミュの脳裏に老司祭の死に顔が浮かび――笑みが漏れる。直接的な恨みはないが、溜飲が下がる思いだった。
「もう一度聞く。縁は視えるか? 俺の縁は何本視える?」
「に、二本です。縁者様――!」
「ほう……? お前が、ねぇ……」
眼前にずいっと迫ったリザードマンの優しい笑みを見て、コーミュの心にも歓びが弾ける。
――イストス様! 仮にこれがアレスの仕業でもいい!
コーミュは生まれて初めて、神に類するものを心から讃えた。彼は極めて静かに、そして紳士的に、その角ばった手をコーミュへと差し伸べる。
「俺は――『カイマン』だ。共に来ないか?」
……その後を詳しく語る必要はないだろう。コーミュは寝ている間に鉄鎖を繋げられ、逃げるに逃げられなくなってしまった、とさ……。
コーミュは葉巻でアガりすぎていたのだ。素面の頭なら分かった筈である。このカイマンという男が殺人も厭わない様な男だと。
そして、逃げ
「遅い。縁は?」
「……まだ先」
『求縁』も又、神に縁を与えられた『生きとし生けるもの』の本懐であるのなら――それを知るまで、コーミュは逃げない。
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