臆病な僕をどうか許して
月下るい
お盆
町の中心部から盆踊りの音楽が聴こえてくる。古いスピーカーから流れる、どこか間抜けていて懐かしい旋律が、僕の遠い日の記憶を呼び起こした。
おさげ頭が、送り火を前にしゃがみこんでいる。桔梗の柄の浴衣を着た少女である。紺色の甚平を着た、幼い頃の僕は、その少女の背後に立っていた。
ちりん。
どこからか風鈴の音が聴こえた。
『ご先祖さまはね、来るときは早く来られるようにきゅうりの馬にのって来て、帰るときはおみやげをたくさん持って行くから、なすの牛にのるんだって。おばあちゃんが言ってた。でもね、たぶんなごりおしいから、ゆっくり歩く牛にのって帰るんだよ』
送り火を見つめたまま、少女はそうつぶやいた。雀のような声だ。幼い頃の幼馴染のものだろうか。
「あら、あなたはもう行ってしまったのかと思ったわ」
雀のそれより少しばかり低くなった幼馴染の声が、僕の思考を現実へと引き戻した。
今年のお盆も、僕は故郷に帰省していた。もうそろそろ帰らなくてはいけない。だのに僕はなかなか帰れずにいた。
「うん」
とだけ返事をして彼女の家の庭を通り抜け、縁側で本を読む彼女の隣に腰を下ろす。ふわりと漂うやさしい香りにどきりとしてしまう。緊張で口が乾いた。おかげで僕の口は、次の音を紡いでくれない。
僕は彼女に恋をしているのだ。凛とした空気を纏っているひと。それなのに、触れたら消えてしまいそうな儚いひと。
まるで桔梗のようだ。
彼女には夏の夕暮れが良く似合う。今日こそ、この思いを彼女に伝えなくては———
「何か言いたいことでもあるのかしら?」
ちりん。
風鈴の音が、本から目を離そうとしない彼女の口から、科白と一緒に零れ落ちた———ような気がした。
彼女は僕の言葉を待ってくれている。恐らく、何年も昔から。早く伝えなくてはならない。焦る気持ちとは裏腹に、言葉がなかなか出てこない。ひぐらしの鳴く声だけが僕と彼女の間を流れてゆく。
何年経ってもたった五文字を伝えられない僕はとんだ臆病者だ。開きかけた口を再び噤んだ僕に、彼女は少し困ったように微笑んだ。
「大丈夫よ。来年も再来年も、いつまででも待ってるから。またおいで。ほら、牛が行ってしまうわよ」
僕の2倍歳をとってしまった彼女は、今年もまた、その美しい瞳いっぱいに涙を溜め、細く白い腕が通り抜けてしまうのを知っていながら、透明な僕を抱きしめた。
嗚呼。桔梗の香りだ。
ちりん。
桔梗(キキョウ)
花言葉:「気品」「永遠の愛」
花期:6~9月
野生のものは絶滅危惧種に指定されている
臆病な僕をどうか許して 月下るい @rui_gekka
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