第三章 既投賽


「−−−−貴己たかみさん、貴己さん」


 意識の遠く、甘い声と共に小さく肩を揺すられた。

 それは俺を心地よい微睡まどろみから引き離すためという事は理解している。

 事実、俺の意識はなかば覚醒していた。

 だが、もう一人の安眠者を起こさず、俺のみを起こさせようとする細やかな気遣きづかいにより、完全な覚醒には至らない。

 その涙ぐましい努力は返ってより良い刺激となってしまっている。


「貴己さん、貴己さん」

「んーー……」


 それでもなお肩を揺すぶられ、俺は目覚まし時計を止める感覚で腕を伸ばした。

 ペタリ。


「ひゃっ!?」


 小さな悲鳴が上がるのと同時、ひんやりすべすべとした感触が手に伝わる。

 しかし、数秒するとそれはほのかに温かみを帯びてきた。

 そのあまりの肌触りの良さに、無意識でそれをでてしまう。


「あっ、あの、流石に恥ずかしいというか……わざとやってませんか!?」

「……んぁ?」


 半ば裏返っている声量の上がった抗議に、俺は顔を上げた。

 目の前には乳白色の布地に色とりどりの花があつらえられている。

 未だ薄ぼんやりとした頭で綺麗だなー、などと思っていると、


「お、起きました……?」


 頭上から声がかかった。


「……」


 無言で見上げれば、頬を見事な朱色に染めたのぞみが俺を見下ろしている。

 困ったような、嬉しそうな、恥ずかしそうな、一言で表すのが難しい顔で、視線を下に下げた。

 つられ、俺も視線を追従させた先、先ほどの布地の上に俺の手が置かれている。

 ちなみに希は乳白色の着物で、俺の目の前で正座をしている。

 要するに、希の太ももに俺の手があった。


 ……つまり、これは。


 理解した瞬間、俺の脳は最大音量で警笛を鳴らした。


「なっちょまぁっ!?」


 なんで、とちょっと待て、が混ざり合い、頓狂とんきょうな声を上げながら立ち上がろうとしたが、寝起きと敷き布団で覚束おぼつかない足元。

 必然、足を滑らせ後方へすってんころりん。

 背中をぶつける−−−−と思ったが、俺は悟った。

 後ろには、未だ寝息を立てている者が一人。


 ……あ、終わった。


 がっ、と左肩をつかまれ、浮遊感を得たと思えば背中に激しい衝撃。


「ぬおわっっっふ! おおお……」


 ただすっ転んだだけでは絶対に味わえない衝撃に、俺は床を転がりながらうめく。


「……あれ? 貴己?」


 なにしてるの? と不思議そうな顔で俺を見下ろしているのは今しがた俺を投げ飛ばした張本人である果琳かりん


「おはよう……」

「おはよ。あれ、希ちゃんもいる」

「お、おはようございます」


 希は有り得ないといった表情で頬を引きつらせているが、無理もない。

 なんでも、果琳は寝込みの襲撃を無意識で阻止することが出来るらしく、前に一度、寝起きドッキリを仕掛けようとした時も隣に立った瞬間に腕を掴まれ、思いっきり殴り飛ばされた。

 おまけに本人はした事を覚えていない。

 頰を押さえ困惑する俺を見て「貴己、どうしたの?」と無邪気に尋ねてきた時は流石にサイコパスなんじゃないかと疑った。


「……もしかしてまたやっちゃった?」


 ぱちくりと瞬きをして、状況を理解したらしい果琳が申し訳なさそうに、そう口にする。


「うん、まぁ……」


 でも不可抗力だし、と言いながら俺はなんとか立ち上がろうとする。

 そして未だ頬を引きつらせ固まっている希に声をかけた。


「で。希はなんでここに?」


 昨日あんなことがあったばかりだ。

 普通に出歩いて大丈夫なのか、と言外に問うと、希は真剣な表情へと切り替えた。


「その、昨晩のことでお話が−−」


 ありまして、と続けた時、入り口のふすまがコンコンと叩かれた。


「失礼します。朝食をお持ちしました−−って、これは一体」


 笑みと共に現れた望は、目の前の状況に困惑して固まった。


「えーっと……あれだよ! プロレスごっこ!」


 いやそれは無理だろ、と思いつつも俺は口をつぐむ。


「ま、またですか? それもこんな朝から?」

「朝の運動は体に良いからね! それじゃ運動もしたしご飯にしよっか!」


 言い終わるより早く果琳は布団をたたみ始める。


「は、はい……」


 首をひねりつつものぞむは手伝う。


 ……望が本当に男じゃなくて良かったな。


 男だったら確実に女に振り回されるようになっていただろう。

 俺は苦笑しつつ、今度こそ立ち上がった。


 □ □ □


 それからすぐに朝食の準備を整え、俺と果琳が朝食を摂るのと同時に、希と望から話しがある、と言われた。

 もちろん昨日の事について、なのだが。


「何も覚えていない?」

「はい……。昨日は自分の仕事が早く終わったので、久しぶりに倉庫の整理でもしようかと思って。それで、倉庫に入ったは良いんですけど……」

「そこから先の記憶が無い、と」

「そうなります」

「なるほどな……」


 思わず焼き海苔のりを口に運ぶ手を止めてうなずいたが、何もなるほどでは無い。

 俺には取り敢えず相槌あいづちを打ってしまうくせがあるんだな、と今更ながら気づき、そちらの方に納得していると、今度は望が口を開いた。


「希が言った事を真実とするなら、希自身は生成なまなりには成っていないという事になります」

「でも、昨日の希には確実に何か起きてただろ」


 言いながら、俺は昨日の光景を思い出す。

 妖赤の双眸そうぼうに、左額から生えていた角。

 心なしか歯も鋭く、人の物ではなくなっていた気がする。


「あれが生成りじゃ無いなら何なんだ?」

「いえ、昨日のあれは確かに生成りでした」

「えっ? でも今生成りじゃないって」


 全く逆のことを言い出した望に、俺は思わず、お前は何を言っているんだ、と首を捻った。

 が、望は構わず問うてくる。


「貴己さんは、人がどうやって鬼に変ずるかはご存知ですか」


 ああ、と首肯しゅこうし答える。


「人の感情はある閾値いきちを超えると、何らかの作用により体の一部を変容させてしまう事がある。鬼化はその一つだ。特にネガティブな感情によって起こる」


 何らかの作用により、と言ったがとどのつまりは魔力のせいだ。

 外魔力マナ内魔力オドのどちらかと感情とが結びつくこと自体は別段おかしなことじゃない。

 感情の起伏やその種類により魔導の調子が変わるのは必然だ。

 嬉しい時に体が軽く感じたり、悲しい時には重く感じるのと同じ。

 だが、それにより結果として体の一部が変容する、ということが異常なのだ。

 果琳や希、望などの”色つき”と似たようなものだが、“色つき”の場合は基本的には先天的かつ環境依存なのに対し、鬼化はそうではない。

 人の感情、ただそれのみによって引き起こされる。

 それも尋常じんじょうではない感情だ。

 例えば憤怒ふんぬ

 或いは悲哀。

 ないしは嫉妬しっと

 何かをただ一心に、ひたすらに思い続け、自らを変えてしまうほどの激烈な感情を以て引き起こされる怪異。

 そして人が鬼になる前、変容があらわれたばかりの過渡期かときの状態を生成りという。

 一度鬼になってしまえば、それをもう元に戻す事は不可能になる。

 だからこそ昨日、希が鬼になる前に事態の収束をはかれたのは良かったのだが。

 望が真っ直ぐにこちらを見据みすえ、淡々と事実を明かす。


「実は、貴己さんが言ったように自ら鬼へ変じてしまう他に、第三者によって鬼化させられる、という場合があるんです」

「なんっ!? って事はつまり、昨日の希は−−」


 俺は望の言わんとする所を理解した。

 あまりにも受け入れがたい、


「−−誰かによって生成りにされた、という事です」

「…………」


 告げられた事実に絶句した。

 第三者による身体の変容。

 それは殺人よりも重い罪に問われる、悪逆非道の醜業だ。


「……でも、鬼化の場合でも、可能なのか?」


 感情が大きく絡んでくる事象を、第三者が意図的に引き起こせるとは思えない。

 重い空気の中、俺はなんとか口を開き、尋ねた。

 けれど望は首を横に振らず、なおも喋る。


「高い呪力、要するに高水準の外魔力か内魔力を有していれば不可能ではありません」

「誰がやったかってのは、わかるのか」

「いいえ。ですが、昨日果琳さんが遭遇したという鬼の仕業と見て間違いないでしょう」

「『あないみじうことになるやも知れぬ』だっけか? そんなこと言ってたもんな……」


 あないみじうことになるやも知れぬ、は現代語訳すれば“大変なことになってしまうぞ?”という様な意味だ。

 その発言をした当時の時間と状況をかんがみれば、可能性は確かに高い。

 と、ここまで分かれば、後はくだんの鬼の出現を待てばいい、のだが。


「問題は、果琳が捕まえられないほどってことだな」

「はい……」


 望が暗くうつむいた横で果琳がピクリと反応した。


「ちゅぎった時は絶対逃がさないから! 安心して!」

「いや、ちくわくわえながら言われても……」


 もきゅもきゅと謎の擬音を立てながらちくわを咀嚼そしゃくする果琳は放っておき、俺は考える。

 果琳いわく、『めっちゃすばしっこくて、姿が見えなかった』。

 そも視認すらできなかったというのは、何か視認されないようなすべがあるのか、本当にただ素早いのか。

 後者ではない事を祈りたいが、前者は前者で今のところ対策が一つも思い浮かばない。

 それに加え、希を鬼化させるほどの魔力がある。

 正直こうして情報を整理するだけで腹が痛くなってくるが、不安でトイレに駆け込んだところで依頼は水に流せない。

 だから俺は顔を上げた。


「とりあえず、夜になるまでは果琳ともう一度街中を散策してみる。何か見つかるかも知れない。希たちの方でも何かあったら連絡してくれ。直ぐに駆けつけるよ」

「わ、わかりました! ご武運を祈ります!」


 希が大仰に何度も頷くが、笑いながら優しくさとす。


「そんな大層なものじゃ無いから心配しなくて大丈夫だよ」

「よしゃ! そうと決まればちゃっちゃと食べちゃおう! 貴己のそれ残すなら貰うよ!」


 言うやいなや、果琳は俺の刺身を問答無用で奪い取る。


「おい待てそれ最後に取っといたやつ、ってああああああ!? 吐き出せ! 今すぐ俺のカンパチを返せえええ!」

「……(もぐもぐ)……(ごくん)。仕方ないな、私のたまご焼き代わりにあげるから我慢してよ」

「ざっけんな嫌だよ! 誰がどう見ても等価交換になってないだろ!」

「あの、貴己さん。他のお部屋に響いてしまうかも知れないのでもう少しお静かに……」

「ほら〜、望くんに言われちゃったよ?」

「ぐっ……誰のせいだ誰の!」


 俺はしぶしぶカンパチを諦め、代わりに置かれたたまご焼きを口にする。

 温かく、出汁だしがふんわりと香り、舌触りもふっくらと滑らかで物凄く美味しい。

 が、それはそれとしてカンパチは食べたかった。

 無理くり丸め込まれてしまったが、食べ物の恨みは怖いんだぞ……!


 ……そういえば将棋の時の仕返しも出来てないな。


 随分前のことのように感じられるが、たった二日前のことだ。

 いつになったら俺の復讐は果たせるのだろう、と考えつつ最後の一欠片を口に入れた。

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