第8話 天才キャラを登場させるときのプレッシャーが半端ない


 ボクは、自分の小説に「天才キャラ」を登場させることがよくある。

 たぶん、凡人にはできないことを成し遂げる、希代の存在に対し、強い憧れを抱いているのがその理由。自分が逆立ちしてもなれないキャラに自分の思いを投影するのは、書き手の特権であり楽しみでもある。


 それは、リアルの世界ではなれない自分をバーチャルの世界で演じるのと似ている。

 とは言いながら、演じること――化けることには限界があり、自分の持つ能力を超える存在を再現するのは至難の業。


 例えば、弁護士になりたい者がにわか知識をもとに法律に明るいキャラを演じたとしても、聞く人が聞けばすぐに化けの皮が剥がれてしまう。

 バーチャルの世界には膨大な情報が存在し、人はを容易に得ることはできるけれど、専門外の人間では、それが正しいかどうかを判断するのは極めて難しい。


 小説を書く上で大切なことの一つに、読み手にリアリティを感じてもらうことがある。リアリティのない小説は読んでいて白けてしまうし、何よりキャラに感情移入することができない。

 読み手が共感できない文章は自己満足以外の何物でもなく、そこに登場するキャラは、まさに、バーチャルの世界で化けの皮が剥がれた「偽物の自分」だと言える。


 そう考えると、天才と名のつくキャラを登場させるときのプレッシャーは半端ではない。「いかにしてリアリティを持たせるか」といった観点からは、弁護士を登場させるときの比ではない。

 弁護士は五万と存在することでネットを検索すればある程度の情報は取得することができる。しかし、天才については容易ではない。不可能に近い印象さえある。


 天才について論じる人はいるけれど、論じているのは天才ではなく、その天才像は主観的なものに成り下がる。曖昧で抽象的なものとなるのは否めない。

 「凡人にはできない、すごいことをいとも簡単に成し遂げた」。天才による偉業の「結果」を描写するのは容易いけれど、そこに至る「過程」――具体的な理論や手法を書くのは至難の業。


 結果として、その部分を「いかに本当らしく」書くかが重要となる。まさに、書き手の想像力によるところが大きい。


 なぜ、ボクは天才のことを書きたいと思うのだろう? 

 ともすれば、自分の作品が自己満足の文字の羅列に成り下がってしまうのに。


 その行為は「憧れ」という言葉よりも「欲求」という言葉の方が適切かもしれない。ボクにとって、書くこととと自己を実現することは「個体保存の欲求」と「種族保存の欲求」に次ぐ位置にある気がする。

 もちろん、上手な文章を書いてたくさんの人に読んでもらいたいし、リアルの世界でなりたい自分になってみたい。ただ、思いが必ずしも実現しないことは痛いほどわかっている。でも、「思いを形にしたい」という欲求は抑えられない。


 もうしばらく、ここでもがいてみようと思う――天才に少しでも近づけるように。



 RAY


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